4. 追跡者(2)
少し登っただけで辺りはうっすらと雪が積もる。
アリューシャは凍てつく風に震えた。
ツイードの上着を着ていたもののコートも何も持ってはいなかった。
慣れない北国の寒さに体が悲鳴をあげそうだ。アリューシャのいた学校も村もこの町よりもうんと南にあったからだ。
毛織のストールをギュッと掴んだ。
やっぱり村には戻れない
誰を信じたら良いのかアリューシャはわからなくなってしまった。
民を守るべき役人も味方なんかじゃ無い。
疑心暗鬼に心が荒む。
誰か私を助けて……信じられる何かにすがり付きたい。
優しく微笑む父親の顔が思い浮かび、アリューシャの目にはまた涙がじわじわと浮かんできた。
それを強く手の甲で擦りつけた。熱くなった吐息がもれると白く凍りついた。
あんな恐ろしいことに負けずに、強くて、優しくて、信じられる誰か……
(アリューシャ……)
唐突にアリューシャが良く知っている役人の顔が浮かんだ。
壮年の男はシルバーの髪が斑に混じり、それを後ろへと流していた。優しい目元にはそれに似合わないような黒い眼帯がはめられている。
彼が制服姿で現れる事は無い。それでも時折見せる凜とした姿はまるで歴史のクラスで学ぶ将軍のようだった。
彼にこそ『正義』という言葉がふさわしい。
「クラウゼンさん……」アリューシャは思わず声に出し呟いた。
子どもの頃からアリューシャはクラウゼンと仲良しだった。
「やあ、アリューシャ。こんにちは」
低音の声には凄みがあるが、その抑揚ある言い回からは彼の優しさがうかがえる。
子どものアリューシャでも眼帯をはめた彼を怖がることは一度もなかった。
「クラウゼンさん!」
樫のブランコで遊んでいたアリューシャが駆け出すと思いっきり彼に飛びついた。
「元気そうだな? 重たくて潰れそうだよ」
「もお、違うよ? 背が伸びたんだよ?」
「そうか、悪い悪い」右の目尻が下がり笑い皺が見える。
「まだ早いんじゃない? お薬でも無くしたの?」
「今日は私の診察じゃ無いんだよ」そう言って後ろを振り返る。
「……彼の治療をして欲しくてね」
クラウゼンの背後にはいつも側に控えるシルヴィオという青年と、その彼が押す車いすには、クラウゼンとさほど歳の変わらなそうな男が座っていた。下をうつむいたままでよく顔は見えない。
「大丈夫かなあ。父さん呼んで来る! 診療所に入って待ってて」
アリューシャは自宅の二階へと駆け上がった。
「父さん! クラウゼンさんが来たよ。具合悪そうな人連れてきてる」
机の上の本を慌てて閉じると父親のヨルクが立ち上がった。
「そうとう早く着いたな。飛空船で来たのか?」
「ううん。何にも見えなかったよ」
「そうか」
アリューシャの目が爛々と輝きヨルクを見つめる。
「それじゃあ新米先生。患者さんを診察室に案内して、体温を測ってくれるかな?」
「うん!」
アリューシャは自分の部屋から白いエプロンを取ってくると、また階段を駆け下りて行った。
クラウゼンはアリューシャを可愛がってくれていたし、父の所へ健診に来た時は決まって田舎では手に入らないようなお菓子をお土産にくれた。
時間があれば馬を駆ってアリューシャを遠乗りにも連れ出してくれたのだ。馬に乗る事は父よりもクラウゼンに習ったのだ。
ある日アリューシャの父はそっと教えてくれた。
『彼はゼーゲンの王様だよ』
民人は人外の力を持つ彼らを恐れ「イェーガー(狩人)」と呼んでいたが、アリューシャの父親もアリューシャ自身も彼らをこれっぽっちも恐れることは無かった。
ヨルクもアリューシャも彼の事が大好きだったからだ。
そして……アリューシャは成長するにつれ、クラウゼンと一緒に訪れるシルヴィオに密かに憧れていた。
端正な顔立ちに美しく長い銀髪がゆるやかに光る。長いまつ毛から覗くアメジスト色の瞳があまりに綺麗でこっそりと見つめていた。
そんな彼の視線がふいに流れてくると、慌てた様子のアリューシャを見て、柔らかく微笑みかける。
一回りも年上のシルヴィオの目には、きっと自分は子どものようにしか映っていないだろう。
それがわかっているのに、彼に会えた晩は眠るまで心の中がふわふわと踊ってしまう。
そして次の診察日まで指折り数えてしまうのだ。
――――クラウゼンさんとシルヴィオさんなら助けてくれるかもしれない!
どうして思いつかなかったんだろう!?
『役人』といっても彼らは『ゼーゲン騎士団』だ。
きっと今頃は父親と自分の身に起こったとんでもない不幸を嘆いてくれているだろう。
役人としての関わりでは無く医師と患者、そして友人としての間柄だったのだ。
あのまま村に残っていれば、彼らが心配して駆けつけてくれていたに違いない。
アリューシャは悩んだ。
村には戻れない。
それならクラウゼンの元に自ら行くしかないのだ。
「いたぞ!」
やっと点った希望の光が一瞬にしてかき消された。
見つかった!
木立の間の茂みに身を隠していたアリューシャは、その声に立ち上がるとまた走り出した。
背後から男たちの声がする。
アリューシャは夢中で茂みを掻き分けた。
「おい!!」
アリューシャはその声を振り切ろうと灌木を無理矢理乗り越えた。
グラッ――――
体が大きく傾いた。
あるはずだと思った一歩先の地面が存在していなかったのだ。
「きゃああああ!!!」
悲鳴はアリューシャと共に断崖から落下していった。