蒼の覚書
カホ視点
今回私が迷宮都市・緑陰の鼻先で宿に選んだのは夜明けの蝉亭という中級の宿屋である。滞在期間は一週間程度を予定している。
特に常宿ということはない。否、そもそも、常宿にしている店がある都市が世界中でも両手に足りる程度しかないのだが。理由は単純。活気ある迷宮都市は特に顕著だが、こういった都市というのはある程度店の入れ替わりが活発なので、以前利用した宿が次もあるとは限らないのである。老舗の立派な宿泊施設とかになるとまた別なのだが。
世界を股にかける私のような迷宮商人であれば、同一の都市に訪れることが数年間隔というのも珍しい話ではない。特に、妖精族よりも寿命の短い裸人族の店なんて十年二十年で代替わりだ。閃光のように生きる裸人族は親と子で全く意見が違うというのもそう珍しい話ではないので、代替わりした後以前と同じサービスを受けられるとは限らないのである。
まあ、そういう意味では同族の店を利用する方が安定するのだが、それはそれ。妖精族の宿屋というのは稀で、体格の似たところで言うと小人族の方がまだ多い。これはおそらく、妖精族があまり故郷を離れて放浪することが少なく、住んでいる土地が限られていることが関係しているのだろう。まあ、他の種族でも定住しない、決まった放牧ルートも持たないというのは少ないのだろうが。
宿屋というのは、ほとんど冒険者か商人のためにある施設なのである。まあ、移民や遠方の神殿に参るための巡礼者・旅行者が利用することもあるだろうが。ちなみに今回の夜明けの蝉亭の主人は有翼族でおそらく鶉系である。
緑陰の鼻先の傍にある迷宮は薄暮の樹海といい、植物系や虫系のモンスターの多くいる場所になる。迷宮特産も薬や毒になる植物やモンスターの好む蜜なんかになる。勿論、モンスターから素材を剥ぎ取ることもできる。例えば迷宮の南部を主に縄張りにしている巨大な蚊のようなモンスターの翅は武器素材にされることもあるとかなんとか。
私はモンスター狩りは基本的にはやらないが。仕入れは採集とその調合加工が中心である。各国になじみの職人もいる。簡易なものなら自分で作ることもできるが、基本は専門家に任せている。経済を回すってそういうことである。大体の職人は工房で自分の作った商品を売ることもしているので、納入した素材の三割をそのまま職人に買い取ってもらうことで加工費を値引いてもらうことが多い。あちらも品質の良い素材が手に入るということで双方に利のある関係である。大体仕入れてその地で売るというのは商人として志が低いにもほどがあるのであまりやらないし、職人と競合することは滅多にない。商人とは商品を流通させることに職業意義があると私は考えている。
私は日々の決まった手順というものを愛する。勿論、一所に定住しない以上ある程度の柔軟さは求められるが、揺るがぬ骨子というものは存在しうる。まあ、おおよその生活習慣というやつだ。朝起きる時間から身支度の順番、食事の時間と量、就寝時間。不規則になりがちな旅商人だからこそ、街にいる間ぐらいは規則正しい生活を心がけたいものである。務めて稼ぐ必要がないから逆にその余裕があるともいう。
私は勤務時間外は働かない主義である。自営業だが。税の問題が個人でやってると面倒なので商人組合に所属してはいるが、組合は法に触れない限り商売に口出しはしてこないので私個人の都合でやっている。だが、揉め事とはまったく存在しない方が怪訝しい代物である。人と人が相対して、利益がぶつかれば揉め事が起きないわけがない。なにしろ、人とは短期的にしろ長期的にしろ己の利のために動くものなので。
とはいえ、揉め事というのはある程度逃れることのできるものである。面倒事には近づかないに限るし、口先でどうにかなるならそれもまた一つの手だ。適当にこちらが折れてやることが有効な場合もあるだろう。腕力による解決が必要になるときもあるかもしれない。いずれにせよ、主導権を握るに越したことはない。主導権を握るとは場の流れを掌握することであり、高圧的に命令することではない。むしろ、高圧的に要求を通そうとするなど下策も下策だ。下手に出ていると見せかけてちゃっかり己の望みをかなえているタイプが一番厄介なのである。私には難しい技術だ。
私の街に滞在している時の基本的な日常生活の流れはおよそ次のようになる。
朝、日が昇る頃に目を覚ます。(ちなみに旅の最中も特別な事情がない限り起床就寝時間は変化しない)。起きて一番にすることは洗顔着替え排泄などの身支度である。ちなみにトイレが何処にあるかで順番が変化する。騎士猫たるもの、人にだらしない姿を見せるべからずと父から口酸っぱく言い聞かせられて育ったため、寝乱れた姿で公共の場に出られないのである。私が常に鏡を持ち歩いているのも同じ理由からだ。
身支度を整えたら朝食をとる。ただし、宿の都合で早すぎる時間であった場合は、朝の散歩を挟むこともある。迷宮の最初の転移装置あたりまで行って帰る。時々客に遭遇する場合もあるので、商売道具は勿論持っていく。朝食はきちんととる。主食に主菜、汁物、副菜、飲み物。場合によっては甘味。散歩の有無は関係しないが、散歩の後の方が当然空腹具合は増しているため量は増える。
朝食の後は仕事である。在庫の様子を見て、仕入れか自由市場での出店かを決める。まあ、時々在庫とは関係なくどちらに行くべきか思い立ってそちらに行くこともあるが、まあ虫の知らせみたいなもんである。
昼食をとるのは太陽が中天に至る一刻前くらい。大抵は軽食で済ませる。正午から二時後くらいにおやつをいただくこともしばしばある。そのような余裕がない時もたまにあるが。三時のお茶を用意できれば一番良いのだが、土地によっては茶菓子が手に入らないので、別の物になるときもある。甘いお菓子でなくしょっぱいものになったり、果物か軽食になったり。飲み物も時には果汁水や珈琲、その他になることもある。紅茶の茶葉は常に確保しているが。郷に入りては郷に従え、というより、単純に在庫が切れるのが嫌なのである。大抵の商品はどんな場所でも変わらず手に入るというわけではないので。
店じまいをするのは日が陰りだしたころ。まあ、それ以前に完売して仕舞にすることもあるが。店じまいを終えたら、特に用事がなければ宿に帰ってシャワーを浴びる。食事の前に汚れを落としておくのは基本である。夕食も朝食と同程度。
夕食の後は楽な恰好に着替えて細剣やその他の装備品の整備や鞄の整理、覚書を書くこともある。ちなみに、友愛の女神の加護は文字には働かないため、この世界の識字率はあまり高くない。当然、書物の類は貴重品だし欲しがるものも限られている。見栄のために欲しがるやつもいるが…まあ、私には関係のない話だ。私は書物は基本的に取り扱っていないし。私が手に入れる書物といえば、迷宮遺産とか呼ばれる類であるので。
就寝時間はおよそ日没から二時ほどのころになる。一刻かけてしっかり毛繕いをしてから眠る。旅の最中ならナイトキャップが欠かせないため、きちんと鍵のかかる部屋で特に何も着ずに寝るというのはそれだけで価値がある。なんというか、開放感が。自分の意志でしていることとはいえ、四六時中隠しているというのはなかなかに窮屈なのである。バレた時の面倒を思えば、その窮屈感の方がマシではあるのだが、やはり隠さないで済むのが一番良い。言っても詮のないことではあるが。
私にとって店は生活手段ではあるが、どちらかといえば、商人組合に身分を保証させるための手段という面が強い。一定の販売実績がないと除名されるので在庫が溜まれば出店しているが、基本的に商品が売れなくても私は困らない。正直、金が必要なら市場に出店するより、ツテで高く買いたがる客に売りつけた方が早い。市場は安く買える方が喜ばれるが、"あちら"にはどれだけ高い金を出したかを誇るものもいるのだ。私には理解できないが。うちの店は安売りしていると客はよく言うが、私としては不当に安く値を付けているつもりはない。商品の価値を思えば適当な値だと私は思っている。というか、基本他の商人が吹っ掛けすぎなのだが。まあ、あちらは商品の仕入れにかかる手間賃から諸費用が嵩んでいるのだろう。私は加工品はともかく、大体の商品を自分の手と足で集めている。普通の商人よりは諸費用を抑えられているのだろう。まあ金は使わねば意味がない。あるに越したことはないが、その程度のものだ。
本日、朝の散歩中、薄暮の樹海にて常連客のひとりである馳男殿と遭遇した。悪魔の罠の花粉を吸いこんで麻痺状態になってしまったそうで、しかもうっかり薬を切らしてしまっていたときた。丁度前日に在庫を補充したところだったため、六包販売した。この六包というのは、用法用量と馳男殿を鑑みればおよそ三回分になるだろうと思われる。調合師の種族にもよるが、薬は裸人族の標準的な成人男子の一回量を一包とすることが多い。もちろん、患者が直接買いに行けば、相手に合わせて量を調節するだろうが、商人を介して市販薬という形で流通するものは大抵そうなっている。ちなみに、私のような妖精族であれば、およそ半分量で一回分となると思われる。
馳男殿は獣人族である。多分ライオン系。意識して粗野に振る舞っているようだが、育ちの良さが隠しきれていない人である。おそらく、元が貴族か騎士か、あるいはそういう家系に生まれ育ったのだろう。何故冒険者をしているかは知らないが、少なくとも優れた武人であることは確かだ。真面目なのでからかい甲斐がある。
猫系でおそらく美醜の価値観はそこまで違わないと思うのだが、そこそこの美男子であるのに浮いた話は聞いた覚えがないのが不思議だ。まあ、常連とは言っても彼がうちの店で買い物をしたのはせいぜい十回いくかどうかといったところだろうが。いや、私は世界を股にかける旅商人であるので十分多いのだが。期間にして…確か三年程度だし。
まあ、馳男殿が独身だろうが、実は故郷に妻子がいようが私には関わりのない話ではあるのだが。そういうのは私の店では取り扱っていない。私が取り扱っているのは迷宮産物と冒険者向けの日用品である。
まあ、高額商品はまた別なのだが。
この世界において結婚とは子作りである。子供がいらないのなら結婚する必要はない。いや、国によっては税に夫婦控除があったりなんだりするらしいのだが、基本的に結婚にそれ自体の意義みたいなものはない。そもそも人の結婚を認めるのは性愛の女神であって役所とかではない。愛し合う者たちであること以外に条件はなく、性別も種族も年齢も関係なく、子を産むための祝福を授けてくれるそうな。私は性愛の女神の神殿に行ったことはないので詳しくは知らないのだが。他にも、己の性別やら種族やらを変えることもできるらしい。そう軽い気持ちで願えることではないだろうが。
…そういう意味では、妻子ではなく夫子がいる可能性もあるわけか。可能性としては低そうだが。以前機会があって軽く酒を飲み交わした時に彼が言っていた好みが、己より小柄で守ってあげたくなるタイプらしいので。いや、種族によっては馳男殿より小柄で華奢な男子もいるかもしれないけど、ボインに若干鼻の下を伸ばしてるのを見た覚えがある。多分ストレートだ。…否、バイだとか、好みのタイプと実際好きになるタイプが違うってのも稀にあるそうなのでやはり断言はできないか。
ちなみに夫婦というのは子供を産むときの役目で決まるので、男が妻で女が夫という夫婦も存在しうる。あまり聞かないが。そういう意味で…なんだ、馳男殿が経産婦ということはない気がするので、やはり夫がいるということはなさそうな気がする。そもそも独身かもしれないし。結婚せず色んなところで恋人作ってる可能性も…ないな。それならもっと浮名がありそうなもんだ。性格的にそういう印象はない。あれで全部演技とかって言われたら別だが。馳男殿は独身貴族なのだろう、と解釈するのが私としては一番自然なように思う。
まあ本当にどうでもいい話なのだが。私は成長してから自分で性別を選べるタイプの種族なのだが、まだ選んでいない。未分化というやつだ。そもそも選ぶ必要性を感じないというか。つがいを見つけてないから分化しないというか。兄はつがいがいない癖にいつの間にか男になっていたが。何でだ。まあ、兄とは言っても半分しか血が繋がっていないので、完全に同じ種族とも言えないのだけど。母違いだし。別につがいは無理に見つけなければならないものではないし、特に子孫を残したいと思っていないので、殊更に探そうという気はない。正直めんどい。
説明パートで筆が進むの悪い癖だわ…