君は2番目
よく、春は出会いの季節だと言われる。景色が桜の花びらに彩られて、世の中が光輝いて見える時期だ。
だが出会いの前には、必ずと言っていいほど別れが待ち構えている。
そして。大抵の場合、それは悲しい。
※
3月上旬。
快晴の天気に祝福されながら、卒業式はつつがなく幕を閉じた。
各クラスでのホームルームも終わったようで、今は各々が別れを告げる時間。
体育館の出口や校門の前などそこらじゅうに、卒業生と親と教師が入り混じって談笑している。その人ごみの中を、私は縫うように駆け抜けていた。
なお、私は卒業生ではない。
片付けで慌ただしく動く、生徒会のメンバーという訳でもない。
ある男性に。たった一人の人物に会うためだけに、私は息を切らせながら学校中を駆けずり回っている。
※
私が探している相手というのは、剣道部の先輩だ。年は一つ上で、優、という名前。知りあったのは私が一年生の頃になる。
入部したばかり、加えて女は私一人だけだったせいでガチガチに緊張していた私を、優しく導いてくれたのがその先輩だった。先輩の笑顔を見ると、私の心は自然とほぐれてくる。初めて会ったその日から、私は先輩を慕い始めた。
そしてその思いが恋に変化するまで、そう長い時間は必要なかった。
ありきたりで安っぽい話だと、嗤いたいなら嗤えばいい。恋に幻想を抱いているんだと、罵りたいなら罵ればいい。
でも、私のこの気持ちだけは、誰にも馬鹿にはさせない。後悔だけはしたくないのだ。
※
何度か注意を受けながら走り回り、A棟とB棟を結ぶ渡り廊下で、ようやく先輩の後ろ姿を見つけた。同じ卒業生の友達と、楽しそうに喋っている。男同士の友情というやつなのだろうか。何となく入っていきづらい。上級生に対する引け目もある。
そうして給水機の陰でモジモジしていると、何と向こうに気づかれてしまった。
「優!お客さんが来てるみたいだぞ」
「え?あ、結衣ちゃん!」
あろうことか先輩が手を振ってくる。これで私は出ていかざるを得なくなった。
心臓の鼓動がうるさい。急に恥ずかしくなってきて、たった数メートルの距離を進むだけなのに先輩の姿を直視できない。
きっと今私の顔は、誰が見ても分かるくらい真っ赤なのだろう。
「優、俺は先行っとくからな」
「ああ」
ありがたいことに気を利かせてくれたみたいだ。立ち去る間際、私にだけ見えるような位置でウインクを残していく。頷いてそれに答えつつ、私は静かに覚悟を決めた。
「何かな、結衣ちゃん」
「え、えっと、卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
次に言う言葉は、もう決めてある。
「お願いがあるんです」
だがそこまで言った所で。私は、先輩が着ている制服のボタンが2つ分足りない事に気づいた。
足りないだけならまだいい。しかしだ。その無くなっているのが“第2ボタン”だった時、それは大きすぎる意味を持ってしまう。
「・・・あ」
制服の上から二つ。つまり第1ボタンと第2ボタンの場所がぽっかりと空白になっていた。私の視線はそこに吸い寄せられて、そして言葉を失う。
それは、名も知らぬどこかの誰かに、私が負けたということ。
一瞬の間を置いて、胸が張り裂けてしまいそうになる。
――――泣きそうだ。
たった一つの願いが叶わない。それだけのことがこんなにも苦しい。
『私に、第2ボタンをくれませんか』
そう、勝負に出るつもりだった。だが勝負以前に、私は既に負けていたのだ。
口から、言葉にならない息が漏れた。
「どうしたの?」
「何でも・・・ありません。失礼します」
もうだめだ。
私は踵を返した。これ以上ここにいると、多分泣いてしまう。
「結衣ちゃん!」
私の名前を呼ばないでください。
呼ばれた分だけ辛くなるんです。
「結衣ちゃん待って!」
足音の直後、私は先輩に肩を掴まれ、振り向かされた。
「先輩」
「渡したいものがあるんだ」
先輩はそう言うと、握り拳を私の目の前で開いてみせた。
その中には。
「ボタン・・・」
「そう。今日結衣ちゃんに受けとって欲しくて、とっておいた」
――――え。
それはつまり―――――そういうことなのか。期待していいのだろうか。
「それは・・・どっちのボタンですか?1番目と、2番目と」
「そんなの決まってる」
先輩は私の眼を見て、言った。
「君のは2番目さ」
――――ああ、神様。
こんなにも素敵な2番目が、他にあっただろうか。
「・・・1番目は?」
「結衣ちゃんより先に1人来たんだ。その子にあげた」
「私が・・・もらっていいんですか」
「もらって欲しいんだよ」
胸が高鳴る。
先輩の視線が、私の心と体を捕えて離さない。
「結衣ちゃん」
「はい」
夢みたいに。
私は今、最高の気分だ。
「ずっと前から、好きだった」
「私もです、先輩」
見つめ合う私たちの間を、ライラックの花びらが風に乗って駆け抜けていった。
※
春は出会いの季節と言われる。
同時に、恋の季節でもある。
だが、別れの季節でもある。
その年。私にとって、春は2番目のそれだった。