深緋狼、其は命継ぐ者
地の最果てまで遥か続く平原。
その中を駆け急ぐ一頭の狼がいた。
砂混じりの風が吹き荒ぶ中を彼はひたすら走った。時折小さな水辺で口を潤し、ざらつく赤錆色の毛を整えるとまた走った。ただただ走った。
奴の元へ行かねば。
その使命だけが彼を突き動かしていた。
彼は何も知らなかった。だが彼は選ばれた「継」であり、その責務を果たさねばならなかった。奴の居場所は風の匂いと身体に染みついた血が教えてくれた。不安はあったが迷う余地はなかった。
彼は走り続けた。幾日も走り続けた。足裏の皮はめくれ、傷口を抉るように砂利がめり込み、それでも彼は走り続けた。
やがて目印の白い川がみえた。
奴は向こう側にいる筈だった。
川を超える直前、彼は立ち止まった。空を仰ぎ風の匂いを確認する。生臭い血の匂いと鼻をつく酸の匂いが濃くなっているのが分かった。
彼は川の浅瀬へ足を踏み入れた。川底に堆積した無数の細かい骨片がざりざりと音を立て、足裏を刺した。それでも彼は歩みを止めなかった。
川を渡りきったその先は、もう絶望しかなかった。無数の鳥獣の死骸が層になり大地を覆い尽くしているのが遠目にもよくわかった。表層の新しい死骸には蛆がわき、救いがたい腐臭と夥しい数の羽虫を空へ放っていた。嗅覚はもうあてにならなかった。こみあがる胃液を飲み込み彼は全神経を視覚と聴覚に集中させた。そして間もなく彼は目的のものを見つけ出した。
それは彼自身の身体よりもひと回りは大きい歪な丸型の赤黒い肉塊ーー「心臓部」だった。静かに刻む拍動が生命の証だと彼は理解した。
ーーそれこそ奴の弱点。それを潰せば全てが終わる。だが油断するな。気づかれぬよう静かに近づき、ひと思いに噛み潰せ‼︎
同胞の血が怨嗟の声で訴えかけた。全身の毛が怒りに逆立つのが分かった。逸る気持ちを抑え彼は足音を忍ばせ近づいた。
びゅうっ。
突然の風が彼の脚をよろめかせた。彼は足元の頭蓋骨を踏み抜いた。
パキリ。
(しまった‼︎)
気付いた時にはもう遅かった。たちまち大地の鳴動と共に足元がめりめり盛り上がり、彼は思わず飛び退いた。
彼の中で無意識に抑えつけていた恐怖が具現化していくように、化け物は地の裂け目からむくむくと膨れ上がり巨大な姿を露わにした。奴は軟体動物のそれのような細長いぬめつく触手を何十本も身体からうねらせていた。寸胴な本体は大地にねっとりとはりつき、全身は青カビのような燻んだ緑の毛で覆われていた。そしてその身体の中央に埋まるようにかの「心臓部」は鎮座していた。
恐怖に慄く身体を鼓舞するべく彼は腹の底からぐるると唸り声を上げた。しかしその声の何十倍もの地響きと共に、化け物は巨大な本体から無数の触手を引きずり出すとその先を彼の方へと向けた。狙いを定めるかのような一瞬の動作停止の後、それらは彼めがけ一斉に驀進した。
彼は懸命に触手の雨をかいくぐったが、走り続けていた彼の疲労は限界に迫っていた。心臓部を視界に捉えていながら、彼は触手の猛攻の中で一進一退を繰り返すしかなかった。
バチィン‼︎
一本の触手が横面をはたき彼の右眼を潰した。痛みよりも視野の欠損が彼を怯ませた。足元がもつれ体勢を崩した隙をつくように、別の触手が彼の後ろ脚を巻き取った。彼はあっという間に逆さ吊りになった。
もうだめだ。俺は喰われる。
いつの間にか、彼の真下には大きな二枚の葉が赤い口を開き待ち構えていた。その形態は同胞の記憶にも残ってはいなかった。新たな進化を遂げたのか、単にその口を見た者が戻って来なかったただけなのか。彼には分かる筈もなかった。
間もなく彼を掴んでいた触手が緩み、彼は真っ逆さまに口の中へ落ちた。二枚の葉に挟みこまれて彼は身動き一つ取れなくなった。強烈な酸の匂いを放つ粘液が身体中を包んだ。全身の毛が、皮膚が、脂が順々に溶けていくのがわかった。死は目前だった。
……まだだ。この記憶を残さなくてはっ‼︎
使命感が彼の左眼に再び光を灯した。彼は両後脚に渾身の力を込めると真下へ向けて蹴りつけた。二つの葉の継ぎ目がそこにある筈だった。
グウォォォォン‼︎
良い手応えの直後、地が叫ぶような凄まじい呻き声が全身を震わせた。ぎちぎちに閉まっていた葉は呆気なく開き、彼の身体はぐちょりと音を立てて死骸の山へ投げ出された。
強酸に晒された彼の身体は痛々しい姿に変わり果てていた。剥がれた皮膚の下からは筋肉が覗き、その筋間からは血が滲み出し煮凝りのような固まりを形成していた。だがそれでも彼は立ち上がった。のたうち回る触手の波間から覗く「心臓部」を前に、同胞の声が蘇った。
今なら殺れる‼︎
いや、退け!
でも‼︎
わかってる、俺達の、死んだ同胞の憎しみの深さは‼︎
だが忘れるな、俺達は「継」だ‼︎
そうだ‼︎ 記憶を「継」げ‼︎
それが今の、己の使命だっ‼︎
一瞬のうちに幾多の声が頭の中を駆け巡った。奥歯をぎりぎりと噛み締め、彼はくるりと踵を返した。もう振り返らなかった。
奴の骸を、然らずば闘いの記憶を。
「継」に戦死は許されなかった。化け物の生死に関わらず、彼は生きて帰らねばならなかった。命が絶える前に「継」ぐのだ。彼は再び走った。川を飛び越え、幾つもの草原を、砂原を走り抜けた。水辺にはもう寄る必要がなかった。今の彼がすべき事は、最期の場所まで走る事だけだった。
彼が歩みを止めたのは、崖に突き出た黒い一枚岩の上だった。その岩は彼にとって「生家」であり「墓標」だった。彼は高い声で短く鳴き、岩の上に疲れ切ったその身を横たえた。
彼の鳴き声が崖下へ反響し終えると間もなく、一頭の白い狼が岩の下から現れた。それは次の「継」だった。その姿をみとめると、突然彼は自らの後ろ脚を食い千切った。彼の中の残り僅かの血がどろりと流れ出し、黒い岩肌をゆっくり赤く染めた。
白い狼は迷っていた。だが自らのすべき事は決まっていた。白い狼は彼の作った血だまりの中へ恐る恐るその身を浸した。新雪のように真っ白だったその毛は、燃えるような血赤色を経てみるみる黒褐色へと変わった。新たな「継」が生まれた瞬間だった。
薄れゆく意識の中それを見届けた彼は満足げに頷いた。そして崖下を覗き込むと自らの身体を捩った。彼の身体はずるりと音を立て、背中から谷底へと落ちていった。
新たな「継」は血だまりが乾き切るまでその身を岩へ擦り続けた。彼の死を悼む必要はなかった。それは彼の血が身体に染み付く事で彼の背負った記憶が「継」がれる事を、そしてそれが「継」としての彼を生かすという事を理解していたからだった。
彼の血と岩にこびりついていた砂が混ざって、「継」の身体は遂に赤錆色に染まった。それは新たな旅立ちの準備が終わった証だった。
彼は、いや、彼らは再び駆け出した。