温もりを綴る言葉
冬の夜空には数多の星と、太り気味の三日月が煌々と輝いていた。温泉の水面に映った月がゆらゆらと歪む。充分に明るいので角灯を消して湯気で霞む月を見上げた。悴んだ手足が温まると汗が肌を伝い始める。噴き出す汗と一緒に一日の疲れも流れて行くようだった。
傍らの彼女は湯殿の縁に肩を預けている。僅かに濁った湯にほんのりと色付いた肌が透ける。まろやかな胸や細く括れた腰、張り出した尻から細い足先まで、ゆったりと沈めて寛いでいた。
豊かだが不恰好なほどには大きくない胸の膨らみがたゆたう間で、自慢の息子が戯れる。この所忙しくてあまり構ってやれなかったせいか、ひどく興奮していた。彼女の胸や腹の上ではしゃぎ回り、とうとう腿の上で威勢良く立ち上がった!
そしてつるりと足を滑らせた。あっと言う間の出来事に、二人並んで息子が没した中央を呆然と見やる。一呼吸、二呼吸、三呼吸……。我に返った彼女が腰を浮かせた時、大量の飛沫と共に湯煙が辺りに撒き散らされた。水……湯柱の中心から息子が現れ、満面の笑みでじゃぶじゃぶと湯の中を歩いて来る。
…………どうやら楽しかったらしい。もう一度母親の膝に乗ろうとするが上手くいかず、踏みつけられる度に彼女の顔が歪んだ。
「母さんが痛がっているぞ。無理をするんじゃない」
しゅんとした息子が母の膝を撫でた。吃りながらも何とか謝ると、彼女は大丈夫だと安心させた後で息子を褒めた。
この子は喋るのが苦手だった。聴力にも声帯にも異常は無く、難読語を避ければ大人の話をほぼ理解する能力もある。しかし、心の声で気持ちを伝えるのに慣れてしまい、また、それに気付くのが遅れたため口腔の発達が遅いのだ。四つ五つの子供に根気良く訓練をさせるのは難しい。無理をさせてもひどく吃って余計に会話が困難になり、最後には泣き出してしまう。それ故両親を始め親しい者たちは、この子の話を気長に聞いてやるようにしていた。同じ年頃の童子たちに追い付くのはまだまだだが、上手く出来た時にちゃんと褒める事で少しずつ語彙は増えている。
母親に褒められた息子が、己の頭を撫でる父親に期待の目を向けた。肩車も高い高いも力の要る遊びはいつも父が相手だ。こういう時に『ご褒美』をくれるのは誰だか知っているのだ。
「良いぞ。父さんの膝に来い」
ちらりと隣に目をやれば、甘やかしてばかりと彼女の顔に書いてあった。彼女も息子を甘やかすのだからおあいこだ。乗りやすいよう少し開いた足に力を入れれば、踏まれてもどうと言う事はない。ぐらぐらするのを押さえてもへっぴり腰だった。
「手を離しても立てるか?」
試しに問うと、そうっと両手を広げて平衡を取った。様子を見ながら脛を離したが、息子はそのままの体勢を維持していた。彼女が心から喜んで褒めそやす。この子は愚かでも不具でもない。熱を出して両親を心配させる事は他所の子より少々多いが、強い〈祝福〉に恵まれた子だ。長じれば体力もついて健やかに暮らせるはずだ。
黒い髪と黒い瞳の父親と、暗い赤毛と鳶色の瞳の母親から生まれた銀髪碧眼の男児。親の欲目を差し引いても整った顔立ちだった。もっとも、幼さゆえの美しさなどなくとも存在そのものが可愛いのだが。
ふと悪戯心に駆られ、幼児特有のぽっこりした腹を軽く押してみる。意表をつかれた息子は、両手を広げたまま派手な音を立てて湯に落ちた。盛大な湯飛沫に続いて隣から非難の視線が浴びせられる。
だが、大喜びの息子はすぐに父親の膝の上によじ上った。危なげなくすっくと立ち、両手を広げて何かを待っていた。諦めた彼女が両手で顔を覆うともう一度押した。幼子は父の膝に乗って押す振りに引っ掛かり、あるいは自分から倒れ込んだ。飽きずに何度も湯を撥ね上げるので、縁の岩や地面もぐしょ濡れになる。顔をしかめていた彼女も、いつの間にか息子に釣られて声を上げて笑っていた。
ほどなくきゃいきゃいとはしゃぐ息子の肌は夜目にも真っ赤になった。もし、湯当たりなどさせたら、彼女の機嫌を損ねるのは確実だ。興奮させすぎたと内心で冷や汗をかきつつ、どうやって湯から出すか急いで考えを巡らせる。
「笑い過ぎて喉が渇いたな。水を持って来てくれないか」
湯殿の脇には脱衣所を兼ねた小さな東屋があり、そこに水桶が置いてある。途中の湧き水で汲んだばかりの新鮮な水だ。素直に頷いた息子が湯から上がった。夜気に晒されてもうもうと湯気を発しながら、水桶に近付いてひしゃくを手に取る。暫し動きが止まり、父を振り返った。何度もつかえながら自分も飲んで良いか尋ねる。否やなどある訳もなく、ごくごくと喉を鳴らして乾きを癒した息子が、ひしゃくいっぱいに水を満たした。零さないようそろそろと運ぶのをぼんやり待つ。
彼女は小さな歩みを目で追っていた。転ばないかと心配しているらしいが、転んでも膝を擦り剥く程度だろう。そうは言っても母親とはそういうもののようだ。振り返った背中や、汗の粒が光るほっそりしたうなじに艶めいたものを感じるが、息子の前では節度を守る。
ひしゃくを傾けて一息に飲み干した。格別に旨いと褒めると、照れた息子は嬉しそうにしていた。本当にそう感じたのだから、親馬鹿と言われても構わない。今度は母さんに、と言うとすぐにまた東屋まで往復した。冷たい水を喜んだ彼女も、優しい笑顔で月明かりに濡れ光る銀色の頭を撫でた。
幼子は己が受けた愛情と祝福を何倍にもして、小さな身体で周囲を明るく照らしている。空の月だけが静かに家族の団欒を見ていた。