影を抱く土地
巨大なビル群が立ち並ぶ都市の真ん中にも、ふと不思議な「空白」が口を開けていることがあります。
高層ビルに挟まれた狭い路地、用途も定まらずに放置された雑草の生い茂る空き地、あるいは幾度となく開発が噂されながら、なぜか立ち消えになっていく不思議な物件…
不動産業界の片隅では、そうした土地にまつわる不気味な噂話が、まるで都市の澱のようにひそやかに語り継がれています。
ここに綴られているのは、ある不動産会社に勤める人物が体験した、説明のつかない一夜の出来事です。
地図の通りに進んでいるはずなのに目的地にたどり着けない戸惑い、都市の真ん中に突如として現れる見覚えのない景観、そして理由もなくこちらを嘲笑う影。
それは、私たちが普段踏みしめている現実のアスファルトのすぐすぐ隣に、いつでも異界への入口が潜んでいることを示しているのかもしれません。
日常の風景が静かに歪んでいく感覚が忍び寄る。
こんな話を人にすると、たいていは『大丈夫ですか?』と呆れ顔で苦笑されるか、あるいは気遣わしげな視線を向けられる。
だから普段は滅多に口にしない。
けれど、あの日の出来事は確かに私の皮膚に刻まれていて、今でも都心の静かな角を曲がるたびに、あのアスファルトの冷たさが思い返されるのだ。
不動産業界に身を置いていると、理由もなく手がつけられない【隙間】のような土地に巡り会うことがある。
それも都心の好立地で、周辺の地価を考えれば手に入れるだけで莫大な利益を生むはずの場所だ。
それなのに、過去にいくつもの業者が参入を試みては、なぜか途中で立ち消えになり、手出しができないまま放置されている。
その物件の視察が命じられたのは、まだ陽が傾きかけた夕暮れ時のことだった。
男性スタッフがみな出払っていたため、デスクで暇そうに書類を眺めていた後輩の女子社員を誘うことにした。
「持ち込み物件、見に行くけれど…一緒に行くか?」
「あ、行きます! 私、運転しますね」
「道、わかるか?」
「大丈夫です、ナビがありますから!」
都内の複雑な道も、私よりずっと運転の巧みな彼女に任せれば安心だった。
助手席に乗り込み、夕闇が静かに街を呑み込み始める中、車を出した。
「例の物件ですか?」
彼女がハンドルを握ったまま尋ねてきた。
彼女の言う『例の物件』とは、バブルの熱狂の中にあった頃、ある官庁が買い取ったきり、用途も定まらないまま放置されてきた広大な空き地のことだった。
「そう…もう時間も遅いし、気をつけて運転してくれよ」
「大丈夫ですよ!迷うような場所じゃないですから」
彼女は明るく笑っていた。
しかし、目的地周辺の細い路地に入り込んだあたりから、妙な違和感が混ざり始め、私たちは車ごと静かに路頭に迷うことになった。
「ずいぶん走っているけれど…ナビはどうなっている?」
問いかけると、彼女は戸惑った顔でダッシュボードの画面を指さした。
「変なんです…急に画面が落ちちゃって、電源が入らないんです」
暗転した液晶画面は、ただの黒いガラスの塊になっていた。
周辺のビル群は静まり返り、どこをどう走っているのか、見覚えのある景色にたどり着かない。
車をゆっくり止め、路肩を歩いていた一人の女性に声をかけることにした。
薄暗い街灯の下、コートを着た女が一人、ゆっくりとした足取りで歩いていた。
窓を開け、手元にある紙の地図を見せる。
「すみません、ここに行きたいのですが…道をご存じですか?」
女は足を止め、ジッと地図を見つめた。
顔に影が落ちていて、表情がよく読み取れない。
「そう…ねぇ…そこの角を、右に行ってぇ…」
粘りつくような、少し間延びした声だった。
お礼を言って車を発進させる。
「あの角を曲がって、真っ直ぐですね」
彼女が言われた通りにハンドルを切る。
角を曲がった瞬間、私は息をのんだ。
そこには、信じられないほど長く、どこまでも果てしなく続く直線道路が伸びていた。
両脇には建物の影が均等に並んでいるが、明かりはひとつもない。
都心の真ん中に、これほど遮るもののない長い直線が存在するはずがなかった。
空間そのものが伸び縮みしたような、強烈な不気味さが込み上げる。
何かおかしい…直感が警告を発していた。
「引き返そう。戻ってくれ」
車をUターンさせ、先ほどの角を目指して走らせた。
すると、道路の脇に先ほどの女がぽつんと立っているのが見えた。
私たちは車でかなりの距離を走ってきたはずなのに、なぜ彼女がそこにいるのか。
車が女の横を通り過ぎる一瞬、車内に向けて向けられた顔が見えた。
女は、口元をニヤリと歪めて笑っていた。
声が出なかった…
触れてはいけないものに触れてしまった感覚が背筋を駆け抜ける。
何も聞かず、車を止めず、ただアクセルを踏み込んで走り去った。
しかし、どれほど走っても、どれほど角を曲がっても、気がつくとあの果てしない直線道路の入り口へと戻ってきてしまうのだった。
街灯の光は届かず、世界の端っこに閉じ込められたかのように、同じ景色がただ何度も繰り返される。
1時間ほどが過ぎていただろうか。
ドライバーの彼女はもう言葉を失い、蒼白な顔で、どこか魂が抜けたように無言でハンドルを握り続けていた。
パニックの限界が近づいているのが分かった。
「ちょっと…車を止めてくれ…」
静かに声をかけ、停車させた。
ナビも利かず、標識もない。
頼れるのは己の感覚だけだった。
思考を捨て、頭の中に浮かぶ違和感のノイズを削ぎ落としていく。
「この先…この先の左の角を曲がったら…抜けられると思う」
「次の角って…えっ?…あの…直線道路ですよ?」
彼女が震える声で言った。
「いいから!はい、左!」
彼女が意を決してハンドルを左に切った。
すると視界が唐突に開け、目の前に、本来探していた目的地のビルがヌッと現れた。
「えっ……? どういうこと……?」
彼女は呆然としてゆっくりと車を止めた。
エンジンを切り、車から降りて自分たちが、さっきまで通って来ていた道を呆然と眺めた。
そこに通り抜けてきたはずの『角』は無く、道路など存在しなかった。
目の前に広がっていたのは、深い闇に包まれた巨大な空き地だった。雑草が生い茂り、ロープで囲われた荒れ地。
私たちは、道路を走っていたのではなかった。
あの直線道路だと思い込んでいた幻想の中で、実際はこの狭い空き地の中を、何度も、何度も…
ぐるぐると円を描いて走り続けていたのだ。
「ここが手を出せないのは…こういうことかもしれないな」
ポツリと呟いた私の声は、夜の静寂に吸い込まれて消えた。
後から分かったことだが、その空き地はかつて大きなホテルが建っていた場所だったという。
昭和の終わりに火災を起こし、多くの犠牲者を出して全焼した。
解体されて以降、幾度も再開発の計画が持ち上がっては、事故や不審なトラブルが相次ぎ、白紙に戻され続けてきたそうだ。
土地には時折、そこに集まった記憶や影のようなものが留まり、迷い込んできた人間を捉えて離さない【穴】のような場所ができるのかもしれない。
今でもあの空き地の横を通るたび、私はあの直線道路の闇と、道端でニヤリと笑っていた女の顔を思い出すのだ。
効率と合理性が突き詰められた現代の都市において、説明のつかない現象は「勘違い」や「迷信」として片付けられがちです。
しかし、過去に凄惨な事故や災厄があった場所、あるいは人々の強い念が残された土地には、時に物理的な空間の歪みすら引き起こすような「穴」が生じるのかもしれません。
私たちが車を走らせている道路、あるいは毎日通勤で歩いている道。
その一歩先が、もしも現実ではなく「土地が見せる幻想」だったとしたら…
今度あなたが街を歩く際、ふと見かけた理由のない空き地や、誰も立ち入らない角を目にしたときは、どうぞご注意ください。
もしかするとそこは、通りかかる人間をそっと引きずり込もうと待っている「影の土地」なのかもしれません。




