幼き日の恋
私も自分自身の思い出に会いたくなり、はるか昔、小学校5年生に帰りたくなり、「思い出カード」の2二段目に書き込む。「昭和45年のあれこれ」と。
昭和45年は1970年。日本で初めて万国博覧会が開催された年だ。会場が近いこともあり、家族でも3回は行ったし、仲の良いお隣の家族とも行ったことがある。3月15日に始まり半年間続いたと記憶している。
夏休みに入った8月のある日。私と母とお隣のおばさんとその子供であるお姉ちゃんとお兄ちゃんとで、万博会場に出掛けた。一人っ子の私には本当の姉と兄のようで、三人きょうだいの末っ子みたいに可愛がって貰っていた。
その日も二人に手を繋いでもらい、広い会場を見て回った。沢山の見たこともないような面白いデザインの建築物に驚きつつ、現実ではない、ふしぎの国に迷い混んだアリスのような気分だった。どのパビリオンも長蛇の列。特にアメリカ館の月の石は大人気で待っても待っても順番が来ない状態。やっと入れても、人が多すぎて、どこに月の石があるのかも分からない。小さい子供の私には戸惑っている間に人の流れに押されて外に出てしまった感じだった。結局よく覚えていない。
しかし、最新の技術による映像とか、珍しいものが色々とあって面白かった。
各パビリオンにはその国から来られたスタッフさんたちがいて、カウンター席の人が、差し出すサイン帳に名前や国名を母国語で書いてくれる。初めて見る、アフリカの人の黒光りするとても綺麗なお肌の色に驚いたり、いろいろな外国の人々を間近に見るのも初めてだった。恐る恐るサイン帳を出すと、大勢の人にサインして疲れているだろうに笑顔で書いてくれるのが嬉しかった。沢山の人のサインが記されたそのサイン帳は宝物だった。
「澪ちゃん、迷子になったら駄目だから」と優しいお兄ちゃんがいつも側に居てくれることが嬉しかった。迷子って一つしか違わないのに、お兄ちゃんだって子供じゃんと今は思う。
プールに行った時も、お兄ちゃんは泳ぎを教えてくれる。運動神経の良くない私はなかなかお兄ちゃんの言うように出来ない。
「こうやってさ。力を抜いて」とか「僕が手を持ってるから怖くないから」とか言っている。
背が高くて顔も可愛く、何より頭がすごく良くて、通知表は5段階の最高の5しかない、つまりオール5の秀才だった。リーダーシップもあり生徒会の会長をしていたし、私も入っていた学校の鼓笛隊では大柄なので大太鼓の担当。私には格好良い憧れのお兄ちゃんだった。
そんな、秋の夕暮れのこと。私が家の前でボール遊びをしていると、お兄ちゃんが帰ってきた。私が「お帰り」と言うとお兄ちゃんは「ただいま」と言ったが何か言いたそうだ。黙って立っていると近くに来たお兄ちゃんが私の眼を見て「澪ちゃん、大きくなったら僕のお嫁さんになって」と言ったのだ。「えっ?」私はお兄ちゃんの言ったことがすぐには理解出来なくてそのまま動けない。お兄ちゃんは急に恥ずかしくなったのか自分の家に入ってしまう。
しばらくして、よく考えると「今のってプロポーズなの?」私も恥ずかしくなり、慌てて家に入ろうとして、振り向いた空は茜雲の浮く綺麗な夕空。明日は晴れと告げるように。
リクライニングシートを戻して、横に置いていたお茶を一口飲む。本当に懐かしい思い出だ。あれから、お兄ちゃんは変わらずやさしくしてくれたが、私は恥ずかしくてならなかった。変な事をしてお兄ちゃんをがっかりさせないようにとか考えていた。
大学を卒業して、就職した頃、お兄ちゃんのお母さんから「そろそろどうかな?」と話がくる。
つまり、あの子供の時のプロポーズが生きているのだ。とっくに終わったことと思っていたのに。お兄ちゃんは長い間ずっと待っていてくれたのだ。それは嬉しいが、今更、言われても困る。
その理由は、大人になったお兄ちゃんは凄く太っていたのだ。身長もあるので、お相撲さんくらいの体型。至って小柄な私から見れば「デカすぎる」し、背が高いのは良いけれど細身の人が好きなので困った。
結局、正直に話したし、今社会人になったばかりだし、仕事もがんばりたいし、多くの人にも会いたいから、まだ結婚はしたくないとお兄ちゃんに告げた。
その後、通勤電車を待つ駅のホームで出会ったとき、「お互いもう学生ではないから、仕事もしっかりして、頑張って行こう」と励ましてくれた。昔から変わらない優しい微笑みを見せるお兄ちゃんだった。
まもなく、お兄ちゃんは得意の英語を活かして、海外勤務になり、その後大学時代の同級生と結婚した。