母の思い出
「早くしなきゃ、間に合わない」姿見の前で若い娘が叫んでいる。小柄で細身、色白でまん丸い顔。ぱっちりした二重瞼、高い鼻、少し顔の割に大きめの口、誰が見ても美人で通る可愛い顔でもある。自分で着付けた振り袖の点検をしているのだ。見慣れた家の壁に掛けられた日めくりカレンダーの日付は「昭和32年1月3日」とある。母が父と見合い結婚する約一年前だ。
私が知っている一番若い母よりまだ更に若いというか幼ささえ残る母に間違いない。
彼女は慌てて玄関で佐賀錦の草履をはくと、薄紅色のショールを肩に掛け、駅に向かう道を歩いて行く。まだ車自体が少ない時代。私鉄の最寄り駅から終点のターミナル駅まで急行電車で行く。改札口を出る前にお手洗いに入ると、コンパクトを取り出し化粧くずれしていないか、念入りにチェックする。アップに結い上げた髪も整え、可愛い桃の花のかんざしをもう一度髪に差し直すと改札口を出る。少し進むと彼女の眼が輝く。その視線の先には彼女を待っていたらしい青年の姿がある。背が高く、振り向いた顔は今で言うかなりのイケメン。やや、顔は浅黒いが大きな黒目がちな瞳と整った顔立ちが人目を引く。彼は彼女を認めると優しい笑顔を向ける。「すみません。お待たせしました」「大丈夫ですよ。僕も今来たばかりですから」彼女ははにかむように微笑む。「折角ですからタクシーで行きましょうか」二人を乗せたタクシーは人波を縫うように正月の街を過ぎてゆく。
目的地は母とイケメン青年が勤める会社の社長さん宅。10分程で到着する。青年が先にタクシーを降り、さりげなく彼女の手を取ってくれる。なかなかあの時代の青年にしては気が利いている。
年始の挨拶のあと、社長さん宅を出た二人は「もし、時間があれば、映画でも見ませんか?」「はい」気の利いた言葉も言えない母は小さく答える。
しかし、母の顔は嬉しくてならないと書いてあるように喜んでいる。すぐに顔に出てしまうのは私も同じ。やはり親子だとつくづく思う。
当たり障りのないディズニーの映画を見たあと、近くのレストランに入り、お雑煮を注文する。スポーツが得意な彼はその話をして、母は仕事や趣味の和裁の話などをしている。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、彼にターミナル駅まで送ってもらう。「今日はとても楽しかったです。また、会社で会いましょう。気を付けて」「私も楽しかったです。有り難うございました」頭を下げて背を向けようとする母に青年が言う。「彩木さん、とても綺麗ですよ」と。母は振り返り、頬を赤らめると笑顔を見せる。右手を上げる彼に答えて母も右手を上げる。母、21才、彼23才の新春だった。
それから一年後の3月。母は愛しいあのイケメン青年に手紙を書いている。内容は彼への秘めた恋心の告白と近く結婚することの報告。
あの正月の楽しいひとときから、いやその前から母はずっとあの青年が好きだった。
しかし、彼には裕福な家庭の美しい婚約者がいた。母の勤めた会社で彼に出会ったときから、すでに彼女がいたのだ。片想いのままときが過ぎ、最初で最後の好きな人とのデートの思い出を大切に胸にしまい、母は父と見合い結婚することになったのだ。
私の父親だから言うが、父はお世辞にも男前とは言えない、不細工とまでは言わないが痩せて眼ばかり大きい、背の低い人だった。片想いだった彼は大学も出たインテリだったが、父はいなか育ちの学歴もない、小さな工場の事務職。二人姉妹だったので、婿養子に来てくれる人でなければと言う理由で、好きでもない父と結婚したのだ。
でも、最後に好きだった人に大切にしてきた恋の想いを告げたかったのだろう。
そして、結婚式の日。文金高島田に黒留袖の花嫁衣裳を纏った母は市松人形のように愛らしい。近所の人たちからそのあまりの可愛らしさに
感嘆の声が上がった。近くの神社で式を上げた母の胸元には、片想いの彼からの結婚を祝うあの電報が大事に納められていた。