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その日の昼過ぎ、海老名は聞き込みのために外出した。新聞配達所へ聞き込みに出掛けた三橋と広徳寺の境内で合流することになっているが、まだ三橋は到着していない。
空は透き通るほど晴れてはいたが、強い空っ風が境内を忙しそうに通り過ぎて行く。観音通り商店街も、店がちらほらと開きつつある。師走の今が稼ぎ時だから、いつまでも閉めておくわけにもいかないのだろう。だが客足はいつもと比べても、まばら。鉄筋コンクリートで改装された本堂は、立ち入り禁止の黄色い規制線が取り囲んで、中には入れない。海老名の目の前は、竹屋の主が無残な姿で発見された本堂の入口。「厄を除いて健康長寿」と大きく書かれた垂れ幕が、入り口の脇に掛けられていた。大きく「タバコ」とルビを振られた「厄」の左隣りには大きな禁煙マーク。さらには至る所に禁煙マークや「禁煙」と書かれた張り紙が、所狭しと境内を取り囲んでいる。まるで今でも学生運動が盛んな大学のキャンパス。仏教寺院としての風情が台無しだった。
そういえば昔は、ここら辺に喫煙所があったよな? 海老名は急に思い出した。前の住職は愛煙家で、しかも息子同様に医師だった。前の住職の口から喫煙の害について聞いたことがない。それに比べて今の住職ときたら……対照的な親子である。
本堂の横、奥の墓場に通じる細い通路の脇には大きなイチョウの木がある。ここ数日ほど、清掃はしていないのだろう。周り一面には分厚く葉が降り積もり、まるで黄色い絨毯のようになっている。その黄色い絨毯の上で、鳩が楽しそうにその上を踏みしめながら歩き回り、その柔らかさを堪能しているようだったが、突然何かが転がるような鈍い大きな音が聞こえると、急に翼を広げて飛び立ってしまった。
鳩ですら相手にしたくないような鬱陶しい人物が、海老名に近づいてきた。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草……
「まったく、こんな所に変な物を置いておくなんて……つまずいたじゃないですか」丸出為夫が不平を言いながら、横倒しになった赤い三角コーンを立て直した。この三角コーンにも「禁煙」の貼り紙が。「やあエビちゃん、今日も寒いですな」
「何だよ、あんた、何しにここへ来たんだ?」海老名が不機嫌に言う。
「それよりエビちゃん、その顔の絆創膏、どうしたんですか?」
「名誉の負傷だよ。俺には女難の相が出てるんだ。あのワトソン君とラブラブのあんたにはわからないだろうが」
実は海老名が顔に絆創膏を張っているのは、先ほど新田に爪で顔を引っ掻かれたからである。海老名としてはいつもの軽口のつもりだったのだが、最近は妙に新田の機嫌が悪い。それを察することができなかったのが、命取りになってしまったようだ。
「ところでエビちゃん、あれからこの呪わしい寺でどんな話をしたんです?」丸出の口調が急に険しくなった。「まったく、あのクソ坊主、よくもこの名探偵に大恥をかかせやがって。今に見てなさい、絶対に逮捕してやる。もう証拠もつかんでるんですからな」
「ほう、どんな証拠?」
「それは後ほどのお楽しみといたしましょう。それよりエビちゃん、あれからここのムカつく坊主どもから、どんな話を聞き込んできたんです?」
「あんたみたいにパイプの吸い口を四六時中嚙んでると、名推理が思い浮かぶどころか、どんどん脳味噌が退化してバカになっていくという、ありがたい説法だったよ。おかげで俺もまた一つ、お利巧さんになったってもんだ」
「うー、ますます腹が立つ! 八つ裂きにしてもまだ足りぬわ、あのバカ坊主。この丸出為夫が血祭りにしてやるから、覚悟しておれ……げ、嫌な奴がやって来た。あいつは大の苦手だ……じゃあエビちゃん、私は退散しますが、夕方の捜査会議でみんなをあっと言わせてやるんで、期待しててくださいな」そう言いながら、丸出はそそくさとどこかへ逃げてしまった。先ほど蹴つまずいた三角コーンに、またつまずきながら。「ああ! もう! 何だこのちっぽけな東京タワーは!」
入れ違いに三橋が広徳寺の境内にやって来た。
「よ、三橋、新聞屋はどうだった?」海老名が言う。
「あまり目ぼしい目撃証言は手に入りませんでしたね」と三橋は相変わらず無表情で話す。「今、海老名さんと話をしてたのは丸出ですか?」
「そ。この寺の住職が犯人だという証拠をつかんだから、夕方の会議で披露してやる、って大見得を切ってたけど、あいつのことだから別に期待はしてない。あいつ、おまえを見て逃げてったぞ。おまえのことを嫌な奴とか大の苦手とか言ってたけど、おまえ、あのおっさんにシャープペンシル使って拷問でもしたらしいな」
「別にそんなことをした覚えはありませんがね。私は嫌な奴ですか」
「ま、丸出から嫌な奴って呼ばれるということは、おまえはいい奴なんだよ。胸張って堂々と歩けるじゃないか。羨ましいな」
「はあ」三橋は気のなさそうな返事をした。「ところで海老名さん、その顔の絆創膏、どうしたんですか?」
海老名と三橋は七味唐辛子専門店「門前堂」を訪れた。門前堂は殺害された小竹清の孫で、広徳寺の住み込み僧侶である宮原健の実家。扉を開けっぱなしにした狭い店内で、小さな石油ストーブのそばに木の腰掛が5つ。海老名と三橋、店主で健の父親である宮原佑馬(56歳)、その妻で健の母親、そして小竹清の実の娘である百合(47歳)、佑馬の母親で健の祖母である伸江(81歳)が聞き込みに応じた。
「あいつ……健の将来のことは、正直に言って不安だらけなんですよ」佑馬がよく張りのある声で話をする。「どっちに似たのかわからないんですけど、昔から陰気というか暗い奴でして……しかも向こう見ずなところもあるんです。俺が煙草吸ってると、いきなり『煙草吸うな!』とか言って殴りかかってくるぐらいですからね。父親たるこの俺に向かってですよ。まったく、何考えてるんだか。明るくなれとまでは言いません。ただうちの店、口がうまくなきゃ勤まらない商売でして。七味唐辛子ってのは、昔は薬として売られてたものなんです。今でも七味の効能をお客さんの前で並べ立てて、そりゃもう評判なんですよ。おしゃべりで成り立ってるような商売ですから、口下手ではやってけませんね。まったく、この店もあいつの将来もどうなることやら……」
「でも健はお父さんを殺してませんよ」と百合が沈鬱な表情で言った。「あの子、ちょっと衝動的なところがありますが、心は素直なんです。嘘を吐くような子じゃありませんから」
「嘘は吐かないけど正直すぎるんだよな。あいつは気持ちがすぐ表に出やすいたちでして。本当に竹屋の義父さんをあいつが殺したんなら、すぐに自首するはずです。子供のころからさんざんかわいがってくれた方に、そんな恩を仇で返すような真似だけは、あいつは絶対にしません。これは俺も断言できますよ」
「竹屋の親父さんは広徳寺の住職とは仲が悪かったそうですが、そこのところはどうお考えですか?」と海老名が質問する。
「あの住職はみんなに嫌われてますからね」と佑馬が茶を一口飲みながら言う。「大声で禁煙を訴えるにしても、あのやり方はひどすぎます。前の住職とは大違いですよ。あの住職が竹屋の義父さんを殺したとしても、俺は驚きませんね。ただ……あの住職には恩があるんですよ。逮捕された健を救ってくれたんだし。もっとも煙草が嫌いだから、という理由だけで健を助けてくれたんですけどね。健が煙草嫌いじゃなかったら、興味も持たなかったんじゃないんですか?」
「そういえば今の住職、昔はヘビースモーカーだったんですよ」と伸江が言った。息子と同様に威勢のいい声。80を過ぎた老婆とは、とても思えないほど。「でもそれが原因かどうか知りませんけど、のどの病気を患いましてね。それ以来、熱心に禁煙、禁煙ってうるさいんですよ」
「ほう、ヘビースモーカーから禁煙運動家ですか」と海老名。
「そうなんですよ。あの住職、何事にもやることが極端でして」と佑馬。「本当は煙草が吸いたくてたまらないから、禁煙を訴えかけてるんでしょうな。困ったもんですよ」
「そうですか……わかりました。あと、竹屋の親父さんの身の回りで最近、変わったことはありませんか? 例えば1カ月ほど前に『まるくま』って饅頭屋の女将さんが、首を吊って亡くなったそうですが」
「まるくまの旦那さんが癌で死んだのは、去年の今ごろじゃなかったかな? 旦那さんが死んでから、まるくまの女将さんもすっかり塞ぎ込んじゃいましたからね。上の息子さんは教師やってて跡を継ぐ気はないみたいだし、下の息子は3年前に赤羽で女の子が殺された犯人じゃないかって疑われて、みんなから白い目で見られるしで、心労がたたったんでしょう。竹屋の義父さんも気を揉んでましたよ」
「そういえば佑馬、おまえ知ってるかい? 昔まるくまさん家の小夜ちゃんと竹屋さんが恋仲だったってことを」と伸江。
「……だったらしいな。でも若いころの話だろ? お互い所帯を持ってからは完全に縁を切ったって話だぜ」
「え? あたし、そんな話、初耳」と百合。「父さんからも聞いたことがない」
伸江と佑馬の話によると、「まるくま」の女将つまり大熊勇介の母親である大熊小夜(享年74歳)は、小竹清とは若いころに恋人同士であり、当時その話は誰もが知っていることだった。お互い将来は結婚することまで約束し合い、双方の両親に反対されて駆け落ちまでしたほどだったとか。当時、竹屋とまるくまは理由は不明だが仲が悪く、最終的には結婚まで至らなかった。その後はお互い恋愛絡みの噂も臭いすら漂わず、同じ商店街の商売仲間として付き合っていたらしい。小夜の死の直前まで、小竹は商店会の会長としてまるくまの将来を案じており、頻繁にまるくまを訪れたり、小夜と資金繰りの相談にまで乗っていたという。小夜の葬儀でも小竹は毅然としていて、落ち込んだ様子もなかったとか。昔の恋愛感情など、地面の奥深くに埋めたまま忘れてしまったかのように……
大熊勇介の兄で小夜の長男・北斗(48歳)は、文京区内の高校で英語の教師をしている。門前堂での聞き込みの後、海老名と三橋は直接この高校を訪れた。
「へえ、大熊北斗って、おまえの担任だったんだ」覆面パトカーの助手席で海老名が話しかけた。
「そうなんです。私の恩師ですよ」隣で車を運転しながら、三橋が言った。「あの人にはものすごく世話になりました。担任と言うだけでなく、当時所属してたサッカー部の顧問だったんですよ。彼とは色々な話をしましたし、趣味も合いましたからね。あの当時、私は英語の成績があまり良くなかったのですが、彼の指導で一番の得意科目になったぐらいですから。彼には感謝しても、し足りないぐらいです」
「へえ。それで弟の勇介が例の赤羽の事件で疑われた時にも、兄貴の北斗に聞き込んでるんだろ? それ以来、北斗とは会ってるのか?」
「いえ、あの事件以来3年ぶりですね。もっとも3年前に会った時も10年以上会ってませんでしたが、私の高校時代と全く変わってませんでしたよ」
「大熊北斗ってどんな奴なんだ?」
「非常に教育熱心な教師ですよ。明るくてきさくで、みんなから人気がありました。もし今も変わってなければ、海老名さんだって好感を持つと思います」
車は目指す学校の駐車場内に入った。今の時期は、ちょうど期末試験の最中。校内を出入りする高校生たちも数が少ない。冷たい風が校内を駆け抜ける中、女子生徒たちが楽しそうにおしゃべりをしながら通り過ぎる。
海老名と三橋が学校の職員室の入口で待っていると、大熊北斗が現れた。北斗の顔を一目見た時、どことなく小竹清に似ているな、と海老名は思った。血のつながりはないはずだが、なぜだろう? 気のせいかな? あの商店街の住人はみんな、小竹を尊敬しているうちに自然と似たような顔になってしまうのだろう、きっと。
「やあ三橋、久しぶりだな」と大熊は満面の笑みを湛えて言った。
「先生こそ、お変わりありませんね」三橋は表情こそ変えなかったものの、その無表情が妙に輝いていた。
3人は会議室に場所を移動した。大熊北斗は三橋の言うとおり、多弁で明るい印象を持つ男だった。彼の話を聞いていると信頼できそうで、安心感が芽生えてくるほど。広い会議室に大熊と海老名そして三橋の3人だけで、暖房はあまり効いてはいなかったものの、その大熊の話術だけで寒いとは感じさせないほどだった。
「竹屋のご主人には生前、大変お世話になりました。誰の仕業だかわかりませんが、あのような亡くなり方をして、とても残念です」大熊は先ほどまでの三橋との打ち解けた会話から気持ちを切り替えて、神妙な口調でそう言った。
「大熊先生のお母様も生前、竹屋の親父さんには大変お世話になっていたとか」と海老名は聞く。
「ええ、あの方は誰にでも親切でしたから。特におふくろとは幼馴染みだったそうで、そりゃもう人一倍心配をかけてくださいました」
「先生のお母様と竹屋の親父さんは、若いころは恋人同士だったなんて噂を耳にしましたけど、どう思います?」
「その噂なら僕も耳にしたことがありますよ。ま、噂は噂ですからね。あの2人が本当に恋人同士だったなんて信じられないですよ。竹屋のご主人、女性には誰にでも少し馴れ馴れしく接してましたからね。年輩の女性にも『お嬢さん』なんて言ったりして。彼なりのスキンシップだったんでしょう。それで色んな方面で色んな噂が出てくるんじゃないんですか? 僕は特に気にしてませんね」
「そのお母様は首を吊ったそうで。1年前にはお父様も亡くなられて落ち込んでたそうですね。お父様の死がそんなにショックだったんですか?」
「わかりません。僕もおふくろの住む実家の近くではありますが、別の場所に住んでますからね。おふくろが1人になったことで僕も気にはかけてたんですが、気づくのが遅かったみたいです。それがとても心残りでしてね……親父は婿養子で気の弱い男でして。近所からは甲斐性なしなんて嘲られてましたが、彼は彼なりによく頑張りましたよ。2人ともこの1年で急に相次いでバタバタと亡くなりまして、僕もちょっとばかり疲れました」
「バタバタ亡くなったといえば、弟の勇介さんの彼女が3年前に殺されてます。この3年の間に勇介さんの周りで4人もの方が亡くなってることについては、どうお考えですか?」
「たまたま偶然が重なっただけでしょう。弟はちょっとしたことですぐ傷つきやすい、ナイーブなところがありましてね。彼女が煙草を吸ってたと知ってビンタされた、なんて彼女が言ってましたけど、でもすぐにごめんって謝ったりして。ナイーブ過ぎるところが玉に瑕なんですけど、根は素直でいい奴なんです。もし弟を疑ってるのなら、僕は弟の身の潔白を信じてます」
「そうですか。それからすぐに、弟さんは広徳寺の住職の下で出家してますね。あの住職についてはどう思いになります?」
「あの住職はあまり虫が好かないですね。僕だけじゃなく、近所の人たちはみんなそう思ってますよ。とにかく性格の歪んだ人ですから。ただ弟を救ってくれたことでは恩があります。僕も一時期は、あの住職や弟に説得されて禁煙をしてみたんですが、なかなかうまくいきませんね。未だに煙草はやめられませんよ」
大熊との話は延々と続く。その話しぶりには曇りもなく、外の頭上に広がる青空をそのまま室内に持ってきたかのよう。海老名も思わず引き込まれていた。