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池袋北署の鑑識係員である大原拓也の説明によると、小竹清の身体中に貼り付けられていた丸い湿布のような物は、禁煙用のニコチンパッチであることが判明した。
「ニコチンパッチにはニコチンが含まれてます」と大原は説明する。「それを身体に貼り付けることによって、煙草を吸うのと同じ効果があるんですよ。1日1回1枚ずつ貼り付けることを繰り返すことで、少しずつ身体を煙草から遠ざけて、最終的には煙草をやめるように促していくという、いわば毒をもって毒を制すってやつですね。ただ1枚あたりのパッチには大量のニコチンが含まれてます。1度に何枚も身体に貼り付けたりすると、煙草をたくさん吸い過ぎるのと同じことになってしまうんですよ。それで呼吸困難に陥ったり心臓発作を起こしたりして、死に至ることもあるんです」
「ということは竹屋の親父の死因は、ニコチンパッチを身体中に貼り付けられたことによる呼吸困難、もしくは心臓発作ということか」海老名は朝食代わりのコーヒーを飲みながら言った。何だか今日は食欲がない。「間違いなく他殺だな。あんなもんを身体中に貼られたら、老人ならイチコロだ。手が届きにくい背中にも、しわ1つなくきれいに貼られてたからな」
「ただ僕は、死因はニコチンパッチじゃないんじゃないかと思ってます」大原が眼鏡を指先でずり上げながら言う。「身体を押さえつけたり何かで縛ったりしないと、短時間であんなに何枚もたくさん貼れませんよ。少なくとも紐で縛られた痕跡はありませんでした。仮に死因があのパッチだったとしても、貼られる前にはガイシャには既に意識がなかったんじゃないか、と思ってます」
「なるほど。いずれにしても犯人は竹屋の親父に強い憎しみを持ってたようだな。そうじゃなきゃ、ニコチンパッチを身体中に貼り付けるなんてことはしないだろうし、ましてやあの寺の入口に置き去りにはしないだろう。犯人はどんな意図を持ってたんだろうな?」
同居している小竹清の妻によると、小竹はいつも通りに先日の夜10時には床に着き、朝方に起きた時にはいなくなっていたと言う。自宅は竹屋の2階。家族は他に息子夫婦とその子供たちが、すぐ近くのマンションに住んでいる。竹屋で働いている息子夫婦も夜の8時に店を閉めた後、1時間後の9時には帰宅の途に着いていた。やはり父親が夜中に外出していたのを知らなかったらしい。小竹の家族に清を憎む理由は全く見当たらず、関係は良好だった。
殺害される理由には、いくつか心当たりがある。まずは小竹清と広徳寺との関係。この両者の関係は険悪で、いつ雷鳴を伴って木が倒れるかというぐらい、ただならぬものがあった。
広徳寺の創建はかなり古い。この寺の本尊である観音像は霊験あらたかで、この観音像の前で手を合わせると、必ず厄が払われるとか。以来、厄除け観音として多くの参拝者を集めてきた。場所は旧中山道から少し離れた所。「おばあちゃんの原宿」として有名な巣鴨の地蔵通り商店街から、道を曲がって百メートルほど。車1台がかろうじて通れる程度の細い道の両脇に、竹屋のある観音通り商店街が続く。寺そのものは鉄筋コンクリート製の比較的新しい本堂に、住職たちの住まいがある管理事務所。後は裏側に小さな墓地がある程度で、あまり大きな寺とは言えない。だが連日、老人たちを中心に多くの参拝者で賑わっている。
昔はこの広徳寺と小竹清とは関係も良好で、鳩や雀が落ち着いて羽を休めるほどの平和な雰囲気だった。20年近く前、前の住職が存命だったころは。そして海老名がこの近所で交番勤務をしていたころは。
前の住職のことは海老名もよく覚えている。実際に会って話をしたこともあるからだ。あの当時はもう80を過ぎた老人。いつあの世からお迎えが来てもおかしくはない年齢だったが、足腰もしっかりしていて、声にも張りのある元気な老人だった。性格も温和で誰からも慕われていた存在。しかも悟り澄ましたような曇りのない表情は、さながら生きた仏と呼んでもおかしくはなく、暗い雨の日でも後光が差していて妙に明るかった……海老名の錯覚かもしれないが。小竹も前の住職のことを慕っていた。
やがて前の住職が安らかに涅槃の世界へと旅立って行き、前の住職の息子である現在の住職が後を継いだ。名前は佐藤節夫(62歳)。この節夫が後を継いでから、観音通り商店街に暗雲が立ち込め始めた。
この佐藤節夫、前の住職である実の父親と顔はよく似ているが、性格が全く対照的である。自分勝手で威圧的。常に商店街の住人を寄生虫を見るような目で軽蔑し、暴君のように振舞っているらしい。
「誰のおかげで食べていけると思ってるんですか? 千年もの歴史がある、うちの寺があるおかげなんだってことを忘れないでいただきたい!」
何か催し物や祭りがある時にも、商店会で決めたことを引っ繰り返さないことには気が済まないらしい。逆らう者には神経質に激怒。そんなことの繰り返しであるから、自然と商店会との間に溝が出来上がってしまい、人心は離れていく。
「昔の住職はいい人だったんだけどね。それに比べて今の住職ときたら……」
佐藤は禁煙運動の活動家でもある。商店街周辺を全面禁煙にし、喫煙所を全て撤去させただけでは気が済まず、住人にまで禁煙を強要しようとしているぐらい。煙草屋は廃業。コンビニエンスストアでは煙草の販売も禁止させられてしまった。飲食店内での喫煙も完全に禁止させようと画策中ではあるが……
その真正面に立ちはだかったのが、商店会会長の小竹清だった。小竹は愛煙家でもある。
「冗談じゃねぇや。煙草がそんなに身体に悪いってんなら、寺で焚く線香だって身体に悪いだろうが。だいたいガキの頃、さんざん猫や鳩をいじめてた性格のねじくれた坊主になんか、俺らのことをとやかく言う筋合いはないね。煙草やめろなんて、俺にとっちゃ死ねって言うのと同じことだ。少なくとも俺の店では、禁煙を押し付けるような真似はさせんぞ!」
他の商店会の住人も小竹の意見に従い出した。小竹は他人の意見もよく聞き、面倒見もいい。その人望だけで商店街全体の権力を握ってしまった。というより、佐藤の歪んだ性格が足を大きく引っ張ってしまった、と言った方が正確ではあるが。かくして広徳寺の住職である佐藤節夫と竹屋の主である小竹清とは、泥沼の対立関係になってしまった。
その小竹を殺害した容疑者として、佐藤節夫は早速その第一候補として浮上してきた。だが佐藤にはアリバイがある。事件前日の夜、佐藤は講演会のために新潟にいたのだ。その後、新潟市内のホテルに1泊し、新幹線で東京に戻ってきた。
小竹が殺される心当たりとしてはもう1つ、義理の親戚の存在がある。辻浩太(37歳)。この男がまたどうしようもない山師であるらしい。あまり深く考え事もせずに思い付きで事業を始めては、常に失敗して多額の借金を抱えることの繰り返しで、小竹にとっては悩みの種になっていた。つい最近もある事業に失敗したばかり。飲食店を開業したのはいいものの、評判が悪くて数カ月で閉店に追い込まれたとか。
「ブー、飲食店って、どんな料理を出してたんだ?」
海老名が部下の高木友之助(あだ名はブー)という、まだ20代の若い刑事に聞いた。
「まだ裏が取れたわけじゃないんで、あくまでも団子屋の主人から聞いた話なんですが」と高木は前置きをしながら続ける。「カレー屋みたいなんですよ。それもウンコ味のカレーライスを出してたそうで」
「あああ? 何だそりゃ?」
「ほら、よくあるじゃないですか。ウンコ味のカレーとカレー味のウンコ、必ずどちらかを食べなきゃならないとしたら、どっちを食べたい?ってやつです。で、そのウンコ味のカレーを看板にして話題を集めようとしてたとか。カレーを盛る皿も便器を象った物で、しかも臭いや味も限りなくウンコに近づけたそうです。そのカレーを作るのに、かなりの試行錯誤を続けたそうですよ」
「そりゃ、すぐつぶれるわ。バカだ、そいつ。丸出為夫並みのバカだ。頭ん中、脳味噌の代わりにウンコでも詰まってるんだろう。ということはそいつ、実際にウンコを食ったことがあるんだろうな。竹屋の親父も、そんなバカによく付き合ってこれたもんだよ」
辻浩太はそんな人間の屑ではあるが、小竹にとっては義理の親戚である。小竹は義理人情に篤い性格なものだから、ついつい辻に金を貸したり、連帯保証人を引き受けたりしてしまう。その結果は常に裏切られてきた。特にこのカレー屋の件では、小竹もついに堪忍袋の緒が切れて、辻との関係をほんのつい最近、断絶してしまったらしい。
「本当に不甲斐ない弟でして……色々な方にご迷惑をかけて申し訳ないと思ってるんですよ。でもお義父さんを殺すなんて、あいつには絶対できません。すぐ向こう見ずな行動に走っちゃうところがありますが、心は優しい子なんです」辻浩太の姉、つまり小竹清の息子の妻は暗い表情でそう言った。
その辻浩太は足立区在住。警視庁捜査1課の方で聞き込みをしているところ。