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 「この国は、どんどん煙草たばこが吸いづらくなっていきますよね」

 池袋北いけぶくろきた警察署の屋上にある、この署で唯一の喫煙所。冷たい木枯らしが顔をなでる中、同署の刑事課・強行犯捜査係(通称・捜査1係)の海老名忠義えびなただよしは、煙を吐き出しながら不満を口にした。その不満までが煙と一緒に木枯らしに吹き飛ばされて、吸い殻入れにも残らないぐらい寒さは日に日に深まっていく。

 「煙草が身体に悪いんだか何だか知りませんけど、やり過ぎですよ、いくら何でも。甘い物ばかり食ってブクブク太る方がよっぽど身体に悪いのに、何を考えてるんですかね、厚生労働省の馬鹿役人は。みんな甘い物ばかり食って、脳味噌まで砂糖漬けになってるんじゃないんですか? 健康増進法なんて大きなお世話ですよ。煙草の吸い場所まで細かく規制しやがって。これじゃ逆に不健康増進法と言った方がよくないですか? 精神的に不健康になるだけだ。昔は喫煙所も屋内にあったのに、今では屋内で吸っちゃ駄目。外でもここ以外では吸っちゃ駄目。いい加減にしてほしいですよ」

 「ま、ここだけでも煙草が吸える場所があるってだけで、ありがたいと思わなくちゃ。もっと物事を前向きに考えようや」刑事課長代理の戸塚明とつかあきら警部が、吸い殻入れに煙草の灰を落としながら言う。木枯らしできれいに洗浄された青空の下、はげ上がった頭に太陽の光が反射して、まるで太陽が2つあるかのよう。

 「前向きに考えようって言われても……どんどん後ろに退いてく気がするんですけど」海老名の不満は続く。「だいたい受動喫煙って何です? 最近それを口実に俺たちを迫害してるじゃないですか。望まない喫煙をさせないために、なんて避妊具じゃあるまいし」

 「受動喫煙で被害を被ってる人もいるんだろ。よく知らんが」

 「それ、絶対に怪しいと思いますね。どうも異常に煙草を嫌う、おかしな奴らが世の中いるじゃないですか。どうしてそこまで嫌うのかは知りませんが。ちょっと喫煙者の近くに寄っただけで、あ、受動喫煙。相手が煙草吸ってもいないのに少し煙草臭いだけで、あ、受動喫煙。喫煙者を遠くで見かけただけで、今度は目で受動喫煙。煙草って言葉を聞いただけで、耳で受動喫煙……」

 「わかったよ、エビ。おまえの気持ちはよくわかるが、屁理屈言い過ぎだ」

 「受動喫煙の定義がよくわからないから言ってるんですよ。そんなよくわからないこと鵜呑うのみにする役人たちは、本当に腐ってる。この国では金と力さえあれば、どんなに狂った要求でも聞いてくれるみたいですね。あの性転換夫婦の事件の時みたいに」

 「あの事件のことは、もう忘れろ」戸塚が遠くを見るような目で言った。「俺たちに何の処分も下されなかった、ってだけでもありがたいことなんだぞ。少なくとも俺の前では二度と口にしないでくれ」

 前回の事件は、海老名の警官人生最大の屈辱だった。明らかに猟奇的な殺人事件なのに、被害者は自殺、そして猫によって死体が損壊された、ということにされてしまったのだ。この結果に納得のいかない海老名たちは極秘で捜査を続け、2名の犯人のうち1名を逮捕。だが警視庁本庁や検察によるどす黒い手によって、海老名たちによる真の捜査結果は闇に葬り去られてしまった。真実を歪めてしまうような組織の中で、これ以上仕事なんかできるか! 海老名は一時、本気で警官なんか辞めようと思ったぐらい。元々積もりに積もっていた上層部に対する不信感が、ますます厚くなってしまった。

 「わかりましたよ、戸塚さん」海老名はつぶやくように言う。「でもそういった不平不満を少しでも和らげてくれる場所は、守るべきだと思うんですよ。俺たちにとっちゃ、喫煙所がそういう場所なんですからね。でもそれすら取り上げようとしてる奴がいる。それが腹立たしいんですよ」

 「いっそのこと、煙草なんかやめてみたらどうだ、エビ」戸塚が言う。

 「絶対にやめません。煙草やめろと言われると、余計に吸いたくなってくる。もし煙草やめるにしても、それは『煙草やめろ』と言う声が、この世から完全に消えてなくなった時になるんじゃないんですか? 俺にとって喫煙というのは、ある意味でファシズムに対する闘いみたいなもんですよ」

 「ファシズムに対する闘いね……大袈裟おおげさだな。ま、煙草吸うなと言われると、余計に吸いたくなってくるのは俺も同じだけど」


 翌日の早朝、海老名は目覚まし時計ではなく、電話で目を覚まされた。池袋北署の管内で殺人事件が発生したからだ。

 場所は巣鴨すがも6丁目にある有名な仏教寺院。この本堂の入口に通じる階段の上で、男の老人がこの寒い中、下着1枚の状態で事切れていた。身体中に丸い湿布のような物が貼り付けられている。数カ月前に過ぎ去った暑い真夏を、遠くに追い求めるような姿だった。遺体の発見は朝の5時ごろ。この時期は、まだ夜も明けてはいない状態。

 被害者は近所に住む田楽でんがく料理屋の店主・小竹清こたけきよし(76歳)。近所の住人で彼の顔を知らない者はいない。この近所最大の有力者であるのだから。小竹は寺の門前、通称・観音通り商店街で2百年以上続く田楽料理の老舗しにせ竹屋たけや」の主。竹屋の名物である味噌田楽はとても評判がよく、休日には若者を含めて店の前に行列ができるほど。広徳寺こうとくじ前の観音通り商店街=味噌田楽=竹屋、と言われるぐらい。それぐらいの有名な店の経営者ということもあってか、近所の商店会の会長でもあった。小竹が一言何かを言えば、それに逆らう者もいないぐらい。たとえ広徳寺の住職であっても、小竹の言葉には逆らえないほどだった。飛ぶ鳥に対して止まれと命じたら、鳥ですら空中で翼を広げたまま止まってしまうとか。

 海老名もかつてはこの店の常連だった。20年近く前、まだ制服巡査として交番勤務をしていたころ、この近くの交番に勤務していたので、竹屋のことはよく知っている。そしてこの店の主である小竹のことも。海老名の知る小竹は気さくで人懐っこく、明るい人柄で誰からも好かれるような人物だった。

 「おまわりさん、酒好きだろ?」

 小竹は若い海老名を一目で見抜いた。

 「どうしてわかったんですか?」海老名が驚いて言うと、

 「里芋さといもの田楽を好んで食う客は、たいてい酒飲みが多いんだよ。どうだ、田楽だけじゃなく、一杯飲んでかないか? 酒の代金はただにしてやるよ」

 「え……でもまだ勤務中ですよ」海老名は内心うれしかったが、断った。

 「何、構うもんか。ビール1杯程度なら、飲んでもばれやしないって」

 そう言われると海老名も誘惑に勝てなかった。里芋の味噌田楽をつまみに、ついつい昼間から飲み過ぎて、後で上司から酒臭いぞと怒られるほど。

 やがて刑事になり、竹屋からも足が遠のいた。やっと日が昇って明るくなり始めた境内で被害者の遺体を見た時、どこかで見たことがある顔だと思っていたが、まさかあの竹屋の親父おやじだったとは……海老名の感慨は、どこかで聞いたことのある不愉快な声に突然破られた。

 「あーあ、どうせ老い先短いジジイなのに、むごい死に方ですな」

 1年中同じトレンチコートにベレー帽、口には火の点いていないパイプ煙草……丸出為夫まるいでためおが被害者を馬鹿にするように言った。

 「おい、何だその言い方は」海老名が腹を立てて言う。「だいたいどうしてあんたがここにいるんだ? 警官でもあるまいし。さっさとここから出てけ!」

 「私は名探偵ですぞ。せっかくこの事件を解決しようとしてせ参じたのに、出てけなんて言われるのは心外ですな」

 「おい、こいつを中に入れたのは誰だ? 機動隊の人? 本庁の人?」

 海老名が周りにいる刑事たちに聞いた。誰も反応なし。

 「あのな、おっさん、遊びじゃないんだぞ。ホトケの前ではもっと神妙にしろよ。いいか、このホトケさんにも魂があったんだ。心があったんだ。今あんた『どうせ老い先短いジジイ』とか言ったろ? 老い先短くても、まだまだこのじいさんには自分自身で踏みしめて行くはずの人生が残ってたはずなんだよ。それを誰かが衣服ごと奪ってしまったんだ。あんた自身がこのホトケさんだったら、どう思う?」

 「エビちゃん、今日は随分と機嫌が悪いですな。何か悪い物を食べたんですか?」

 「あんたのつらを見たからだよ!」

 確かに今日の海老名は少し感情的になりすぎているのかもしれない。生前によく世話になった人間が殺害されたからだろう。ただでさえ、この丸出には毎回うんざりさせられっぱなし。しかも今日はいつも以上に気が滅入る。

 自称名探偵・丸出為夫。シャーロック・ホームズの生まれ変わりを自称するドン・キホーテ。その仕事は警察の捜査を邪魔して遊ぶこと。役に立ったことは一度もない。はっきり言って迷惑な存在。奴が姿を現わすたびに、海老名はうんざりする。何とかしてこいつを逮捕できないものか? だがこの丸出、バカなことをしてさんざん警察に迷惑をかけるくせに、警視庁本庁には顔が利く。それは色々な刑事の秘密を知っているからだ。海老名の酒気帯び運転の件まで知っている。バカをよそおって、実は別の意味で優秀なのかもしれない。全くわけがわからない存在。あいつはいったい何者なのか?


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