ぼくたちの終末〜地球温暖暖暖化〜
「よその奴らとは付き合うな!」
それが祖父の口癖だった。
ぼくが生まれたのは東北地方の山岳地帯の奥深く、山肌に張り付くような寒村だった。
集落の家の数は、全部で十四。村民は五十八人。全てが親戚だった。言葉に奇妙ななまりがあることから、ある歴史学者は、平家の落人が作った村ではないかと推察したそうだ。別の学者は、村の起源はさらに古く蝦夷にあるといい、また別の学者が遺伝子検査を行ったところ、どういうわけか僅かながら古代レバノン人の痕跡が認められた。ともかくも、ぼくたちの村は、地域のほかの集落とは明らかに異なっていた。
まず、立地がおかしかった。
村は山頂ギリギリにある、猫の額ほどの小さな平地に位置していた。三方向を崖に囲まれ、それぞれの崖際は、城のように石垣で補強されていた。村から山を下って数百メートル下には、耕作しやすそうな平野部広がっており、じっさい、そこも代々の村の耕作地であるのに、住居は山のてっぺんなのだ。ふつうは、一番大きな田んぼの近くに住むものだろう。
しかし、村の人々は、家のそばの恐ろしく急峻な斜面に作った何十段かの棚田をなによりも大切にしていた。
棚田ゆえ、トラクターなどの大型耕作機械は入れられない。田おこし、田植え、稲刈り、あらゆる作業は手でするしかないのだが、文句を言う人間はほとんどいなかった。自給自足の枠外にあるものを忌避する文化があったからだ。
たとえば車、村内には小規模なたたら場があったので、車体はどうにかできたろうが、タイヤやガソリンといった資材は村内で製造できない。ゆえに、車は村長である祖父の持つ、年代ものの軽トラが一台きりだった。
たとえば薬、ぼくたちは病気になると、近所の山裾で取れる野草を原料にした、独自製法の漢方薬を服用した。大手メーカーが作った医薬品などは持ってのほかだ。ただし、ワクチンの類が未接種だったわけではない。親戚の一人は東大理科三類を卒業した秀才で、彼の家には医学書が山と積まれており、ある程度基礎的なワクチンはその家の「薬倉」で製造され、村人たちは接種を受けていた。
電気は、村の裏手に、既に百年ほども稼働している超年代ものの小規模水力発電所があり、そこから各家庭に供給されていた。
一応、どの家にもテレビはあるものの、液晶ではなく昭和中期ごろのブラウン管式だった。デジタルチューナーを備えているのは我が家だけ。祖父が作ったアナログ変換器が、ほかの家庭にアナログ電波を飛ばしていた。
スマホなんてものは、もちろんない。電話は村内の家同士をつなぐ黒電話のみ。
学校は、ぼくの家の大広間で、教師は村人それぞれが得意科目を受け持っていた。みな、世間とは隔絶した生活を送っているわりには学があった。高校に行く年齢になると、みな片道3時間かけて下界の都市にある公立進学校に通うのだが、たいてい学年トップクラスであり、とくに優秀な子弟は東大や京大に進学した。ただし、彼らは一人残らず村に戻ってきて、農業、猟、林業、養蚕といった仕事で、ほそぼそと生きていた。
村人は、誰もが村を愛し、村の不便な生活を受け入れていた。
ぼく以外は。
当時、ぼくは高校一年生になったばかりで、高校生活のなかで、自分とほかの子供たちとの暮らしぶりの差を思い知らされていた。
もちろん、テレビを通して下界の暮らしは把握していた。ただ、テレビのなかの物事は、全てが映画やドラマのような作り物だという感覚があり、じっさいに自分の目で普通の人々の生活を見たショックは大きかった。
他の子どもたちはスマホを持ち歩き、財布の中には常に数千円もの大金を備えーー村は物々交換で成り立っていたので金というものも虚構の存在に等しかったーー、恐ろしく洒落た鞄やリュックを使っていた。ぼくは、戦時中から受け継がれてきた軍用雑嚢だったというのに!
ぼくは村外の子供たちと友人になり、彼らといっしょにカラオケを楽しみ、ゲームセンターにも足を運んだ。ストリートファイター6にのめり込み、村長である祖父の貯金箱から100円玉を相当の枚数拝借もした。
で、当然ながら、すぐにバレた。
五十代ながら筋骨隆々とした祖父は、いつものように「村の外の連中とは付き合うな!」と怒鳴りながら、ぼくを棚田に叩き込んだ。
罰は棚田の虫取りと草むしり一反分。
村では自然農薬しか使わないので、虫と雑草はそれこそウンカのごとく湧いてくる。
真夏のギラギラした太陽に焦がされながら、ぼくは、いつか必ずこんな村、出て行ってやる!と決意した。
幼い頃から、来る日も来る日も米の世話ばかり。
とことん、うんざりだったのだ。
この夏の日差しの強さは尋常ではなかった。
じっさい、9月ごろに発表された統計によれば、世界の平均気温が平年より4度も高かった。
マスコミは地球温暖化が危機的なレベルに達した!と騒ぎ始め、一部の先鋭的な学者や宗教家たちは「世界が終わる」と断言した。
結論から言うと、彼らは正しかった。
日本列島では、エアコンメーカーとビールメーカーは潤ったものの、米が記録的な不作となった。あまりの猛暑に稲が耐えきれず、どうにか実っても、次々と襲来する観測史上最大の台風たちに薙ぎ倒された。
食糧不足は他国も同様だった。
中国、アメリカ、ウクライナ、フランス、オーストラリア。
世界の主要な農産物の輸出国が軒並みに大凶作に陥り、それらの国々は自国民の腹を満たすだけで精一杯だった。いや、中国に関しては餓死者が大量に出たものの、政府が隠蔽しただけという噂もあった。
このとき、日本国の食料自給率は三十三パーセントしかなかった。しかも、主食である米の収量は前年の五割にも満たなかった。
たちまち、米の価格が跳ね上がった。
ほんの数ヶ月前まで、5キロ2000円だったものが、二万円、五万円、十万円と天井知らずの値をつけた。
十二万を超えたあたりで、政府が食糧管理法を緊急に立法化し、すべての農畜産物はいったん政府が買い上げることになった。太平洋戦争直後の世界に逆戻りだ。いや、ある意味それ以上だ。今回は、米だけでなく、あらゆる食糧を政府が管理することになったからだ。
国民に支給される食料は、一人当たりの1日分として、米が一合、サツマイモが半個、ビタミン剤二つ、バター三グラムに過ぎなかった。
政府はあらゆる手を尽くして、世界中から食糧を買い集めた。結果、日本は餓死者をほとんど出さずにこの年を乗り切り、国民はときの総理を声をからさんばかりに誉めそやした。
しかし、世界に目を向ければ、アフリカや中南米、インドといった地域では、政府の統制が遅れた結果、膨大な食料が先進国に買い占められ、何十万という餓死者を出すことになった。
ぼくたちの村も、食管法に従って米を供出したが、かなりの量を地下の隠し蔵に仕舞い込んでいた。もとより、行政側が、棚田、しかも手作業だけで行なっている稲作の収量を正確に見積もれるはずもない。しかも、村で作っているのはコシヒカリや秋田小町ではなく、村独自の改良品種「地羽」だ。これは、実りはいまいちで食味も悪いが、耐寒性・耐熱性に優れるという特性を持っていた。
翌年、世界の平均気温はさらに五度上がった。
おそるべき飢餓が全世界を襲った。
日本では、スーパーの棚からすべての食料が消え去った。政府は配給制を敷いたものの、備蓄もあっという間に底をついた。
人々は畑から直接農作物を盗みはじめた。
もちろん、農家はそれを止めようと試みたが、多勢に無勢、逆に袋叩きにされた。
通報で駆けつけた警察官までが、農家を助けるでもなく、暴徒といっしょにピーマンをもいでいく有様だった。
いまや食料の価値は天井知らずだった。
米の詰まったカントリーエレベーターを巡り、激しい抗争が繰り広げられた。もはや政府機能は停止し、人々はそれぞれに自警団を結成し、その自警団は別の自警団が守る地域を襲って、食糧を奪取しようとした。
ぼくたちの村にも、都会から強盗団がやってきた。
ぼくがいまこうして生きているのは、村が守りやすい立地にあったおかげだ。祖父や父母は親戚たちとともに猟銃を手にし、飢えた都市住民のレクサスやボルボを撃ちまくって、彼らを撃退した。
夜、ずっと遠くの平野部で、何十トンものコメが詰まったカントリーエレベーターが炎に包まれるのが見えた。
テレビの放送は止まっていた。そもそももう何ヶ月も前から停電していたのだ。石油と石炭の輸入が止まっており、発電所は機能していなかった。
情報源はラジオだけ。
一週間に一度か二度だけ、NHKニュースが流れた。
正確な情報ではありません、と前置きがついたが各地で餓死者が続出しているということだった。この時点で既に二千万人以上が亡くなっていると推計されていた。
下界の農業は壊滅していた。石油が入ってこないために、軽油とガソリンを製造できない。つまり、トラクターやコンバインの類は全滅、農作物は全て手作業で作るしかなくなっていた。気温変化に合わせた適正品種の選定は困難を極めるうえ、飢えた都市住民に襲われると、翌年のための種すら喰われてしまう。
農水省は、この冬で、さらに五千万人が亡くなると試算した。
人肉食事件も報道された。
アナウンサーが、女性と子供は決して一人きりで外に出てはならないと警告した。捕まって食肉にされるかもしれないからだ。
また九州地方といっさいの連絡が取れなくなっているが、これは中国もしくは韓国、あるいは北朝鮮が侵攻してきた可能性があるということだった。ただし、大陸はとうの昔に内戦状態に陥っているので、新しく勃興した新国家ということも考えれるそうだ。
翌年、温暖化はさらに進み、平均気温は四度上がった。
ぼくたちの村は東北地方にあったが、この時点でかつての沖縄に匹敵する気温となっていた。
なぜ、ここまで急激に気温が上昇したのか。
ずっと後になってわかったことだが、原因は海にあった。
2010年代、米国ローレンス・パリティ研究所のピーター・グレンが、地球温暖化の速度が想定されるよりも〝遅い〟ことに気づいた。
本来、大気温の上昇として現れるはずの膨大な熱がどこかに消えているというのだ。
答えは海だ。
水をいっぱいに注いだ鍋を想像してほしい。鍋の底はコンロの火に炙られているが、大量の水は熱を吸収してしまうので、なかなか温まらない。
グレンは、「この現象は地球に与えられた猶予に過ぎない」と警告したが、資本主義社会はそんのものは意に介さず、温室効果ガスを積極的に放出し続けた。
そして、鍋もいつかは沸騰する。
海の熱吸収が限界を迎えた。深層海流の流れが変化し、海底に蓄えられていた膨大なメタンが大気中に放出され始めた。これにより、平均気温が上がったことでシベリアの永久凍土が溶け出し、またしても封じられていた大量のメタンが放出された。
最悪のサイクルが回り始めた。
メタンが放出され、気温が上がり、さらにメタンが放出される。メタンの温室効果は二酸化炭素の二十五倍だ。もう誰にも止められない。
じっさい、アメリカとロシアは世界を救うためになんらかの共同プロジェクトを立ち上げたようだったが、すべては手遅れだった。
北極と南極の氷が溶け出し、海水面が信じ難い速度で上昇した。
台風シーズンの到来と共に、東京、大阪、名古屋といった大都市が、記録的な高波に襲われた。東京東部の低標高地帯はとくに被害が酷く、何十万という家屋が海水の下に沈んだ。
最終的に、北極と南極からは氷が全て消え、海水面は六十メートル上昇した。
日本の平野部は全て海の下に没した。
ぼくたちの村からも、遠くの平野部の街が高波に飲み込まれるのが見えた。
強盗団や避難民の襲撃は散発的に続いていた。
十八になっていたぼくも、銃を手に戦った。彼らは幽鬼のようにやせ細り、爪が剥がれることも気にせずに石垣に張り付き、登ってくる。ぼくは淡々と銃に弾を込め、淡々と引き金を引いた。
ぼくは罪の意識に苦しめられたが、ほとんどの村人は、とくに何とも感じていないようだった。彼らにとって、村外の人間はもとより警戒すべき敵だったからだ。
ある日、ぼくは石垣を這い上がってくる連中のなかに、高校の同級生を見つけた。向こうもぼくを認めたと思う。落ち窪んだ眼窩の奥で、瞳に希望が宿るのが見えた。
ぼくは引き金を引いた。
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平均気温の上昇は、翌々年に止まった。
膨大な氷が海に溶け込んだことで、海水量が増え、それだけ大気の熱を吸収できるようになったからだ。
気候は高止まりの状態ながら、数年かけてゆっくりと安定した。
日本本土はかつての区分における「熱帯」に位置するようになり、植生は劇的に変化した。
ぼくたちの村の下の谷にまで、海水が入り込み、マングローブの小さな森が出来始めていた。
村人は狩りに加えて漁業にも取り組むようになった。朝、日が登ると、子どもたちは手製の釣り竿とびくを手に山を駆け降りていく。
ぼくたち大人は、畑仕事だ。棚田で育てるのは米ではなくバナナとキャッサバだ。
ぼくは強烈な南国の日差しを浴びながら、バナナの木によじ登り、熟したふさを小刀で切り落とす。断面から汁がほとばしり、顔や服を汚す。
大変な作業だが、ぼくは苦に思わない。