1-8 初めての授業
アンはラルフとともに貴族科の教室までフローリアを送り届けると、自分達の教室に向かった。
「シュナイザー様……」
「あ、ラルフでお願いします」
「分かりました、私のこともアンと呼んでください。ローレンヌは生まれ故郷の村の名前なので、呼ばれ慣れていなくて……」
平民には家名が無いので、生まれ故郷の村や地名を名字として使っている。村の中では全員が同じ名字になるため呼ばれることはないが、他領や王都に来たときは名字として名乗ることになる。
「あ、そうですよね、それじゃあ、アン様と呼びますね!」
「いえ、様は辞めてください……」
「それじゃあ、アンさんですね。僕のことも様は辞めてくださいね」
お返しとばかりに様づけを禁止されてしまった。アンは平民で、ラルフとはほぼ初対面なのに、貴族を親しげに呼ばなければいけないことに今後を思うと頭が痛くなりそうだった。
教室に入ると、教室中の視線がアンに一斉に向いた。口元が引き攣ったが、視線の中に険のあるものが混ざっていることに気付き、視線の元に目を向けたら、ステファンと二人の男子学生達だった。おそらく昨日絡んできたクラスメイトの残りだろう。
アンとは視線が合わなかったので、隣で小さくなっているラルフを見ているようだ。ステファンは怒りで目が吊り上がっているが、二人の男子学生はどちらかというと戸惑いの目だ。
アンは、ステファンの視線から隠すようにラルフの前に立った。後ろのラルフにだけ聞こえるように小さく問い掛けた。
「グロリア様でしたか、私と一緒に居て大丈夫なんですか?」
「……大丈夫です」
消え入りそうな声で答えられ、きっとそれは嘘に近いのだろうと思った。アンには貴族同士のつながりが分からないが、あれだけの視線を向けられているのだから、また何かするかもしれない。アンが気付ける範囲でなら助けたいが、それ以外ではどうしようもない。フローリアに相談しようと決めたところで、ライノルドが入室してきたので、ラルフにはそれ以上は何も言えなかった。
席に座ると、右隣のクラスメイトが「おはよう」と声を掛けてくれた。アンも「おはようございます」と返した。昨日のステファンの取り巻きが教えてくれた席順の序列でいうとクラス一位の学生だ。
額を覆う濃い水色の髪はサラサラで、瞳は冬空に輝く星のような銀色。肌も白く、全体的に淡い色彩で涼しげな整った容貌をしている。確か侯爵家出身で、魔法適性持ちにしか表れない髪色をしているので、おそらく水魔法適性があるのだろう。
アンに向けた表情は苦笑で、先ほどのやりとりから察してくれたのだろう。アンは苦笑いを返しておいた。
ライノルドから、朝礼で今日の授業について連絡をされる。昨日のうちに時間割を渡されていたが、今日の午後は全て身体測定に変更だと告げられた。教室に緊張が走ったが、一番前の席のアンはそれが何かを知らなかったので分かっていなかった。
騎士科一年生の毎年恒例の身体測定では、握力や投擲力といった騎士に必要な身体能力の測定を行う他に、持久力と忍耐力を見るために演習場のトラックをひたすらぐるぐる走り続ける種目「持久走」がある。一応、最後に行われるが、昼食後に走らなければいけないため、知らずに昼食を満腹まで食べると地獄を見ることになる。かといって、成績に反映されるため、限界まで走らないわけにはいかない。この持久走を知っている騎士科の学生は、初日の昼食は食べないか軽食に抑えることが多い。
朝礼が終わると、ライノルドと入れ替わるように初老の教師が入ってきた。背丈は成人男性にしては低く、背中が曲がっている。
一限目は歴史の授業だ。教師は簡単な自己紹介をすると、早速授業を始めた。静まり返った教室に、教師の穏やかな声が響く。
グスターヴ王国が建国するより遥か昔の、伝説から話は始まった。
グスターヴ王国は大陸の西側に位置する。その大陸は母なる神が生み出し、人間を創造したとされる。人間を育てるため、母なる神は度々手を貸していた。しばらくすると人間の数が増え、人間たちだけで生きていけるようになると、母なる神は見守るようになった。しかし、大部分の人間は母なる神の存在を忘れ、人間同士で争うようになる。
母なる神はそれを憂いた。そこで、神の存在をずっと信仰し、祈り続けていた人間たちの元に精霊を遣わし、安寧の地へと導いた。その地に辿り着いた人間が国を作り、それがグスターヴ王国になったとされている。
グスターヴ王国の教会では、その建国伝説の母なる神と精霊を祀っている。王国民の教会への信仰は厚いものの、教会は王政へ介入はしない。しかし、代々の国王は建国の伝説に則り、他国へ侵攻しないことを誓っている。周辺国はグスターヴ王国建国以後に建国した国ばかりで、帝国以外はグスターヴ王国と条約を結び、友好な関係を築いている。
「伝説に出てきた精霊とは一体どういった存在なのか……。伝説以外で全く記述が無く、本当に精霊だったのか、母なる神が遣わしたとは本当なのか。これは未だによく分かっていない」
教師がそう話を締めたところで、授業終了のチャイムが鳴った。
「今日はここまで。周辺国の歴史については、この授業で行うが、地理の授業でも行う」
そう言うと教師は教室から出ていった。
午前中の授業が終わり、アンは一人でフローリアのいる貴族科の教室に向かっていた。貴族科と騎士科の教室棟は渡り廊下で繋がっている。
貴族科の教室棟に入ると、興味深そうな学生たちの視線にアンは居心地が悪くなった。ひそひそと話している女子学生もいる。悪い噂をされていないと良いんだけれど……、と不安になりながら、フローリアの教室まで真っ直ぐ向かう。
該当の教室の外から中を覗く。教室の前方の席に座ったフローリアが、周りを囲む女子学生と談笑していた。声を掛けていいものか迷っていると、フローリアがこちらに気付いて手を振ってくれた。
「アン、迎えに来て下さったのね」
フローリアの声に、周りで談笑していた女子学生たちもアンを振り返った。
「あら、あちらが……」
「エヴァンス様の契約なさったお相手ね」
「子犬のようでお可愛らしいわね」
女子学生もとい令嬢たちは微笑ましそうにアンを見ている。アンは居た堪れなくなったが、フローリアが手招きしたので教室に入って行った。
「皆さま、この方はわたくしの護衛騎士をお願い致しました、騎士科のアン・ローレンヌ嬢ですわ」
「は、はじめまして。アン・ローレンヌです」
固くなったアンに、令嬢たちはにっこりと挨拶を返した。
「わたくしたちはランチに行きますので、失礼致しますわね」
フローリアが「ごきげんよう」と言って教室を出たので、ほっとしながら後を追った。
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