化粧する鏡
それは、祖母の部屋の片隅に置かれていた。
「ねぇ、これ、どうするの」
バタバタと忙しなく動き回る母の背に問いかけると、「捨てるわよ」と疲れの滲んだ声が返ってきた。
飴色の、年季の入った鏡台。
聞くと、祖母が少女の頃に買ってもらい、嫁入り道具の一つとして持ってきた物らしい。
薄ぼんやりとした記憶の中、この鏡台の前に座って化粧をしていた祖母の姿が浮かぶ。
――何故だか、無性にそれが欲しくなった。
一人暮らしのワンルームの部屋に置いてみると、想像以上に鏡台は異彩を放っていた。けれど特に気にすることなく、持っているコスメを全部しまって、祖母と同じように鏡の前に座る。曇り一つ無いそこに映るのは、見慣れた自分の顔。
少し興奮しながら、私は自分の唇に口紅を引いた。
――と、そんな高揚感を抱いたのもほんの数日のこと。
日々の暮らしに追われ、朝の準備は時間との戦いだと、じっくり自分の顔に向き合う余裕も無く。
仕事も忙しくなって、休日返上もザラになる日が続く。付き合って三年になる彼とのたまのデートの日でも、疲れとマンネリが重なって、気合を入れることも少ない。
こんなんじゃダメだ……そう自覚しながらも、日常に沈んでいたある日。
夜中、微かな人の声と物音に目が覚めた。
不審者? と恐る恐る、布団の隙間から音の方を覗くと、鏡台が、青白くぼんやりとした光を放っていた。
――そして。
『この口紅、気づいてくれるかしら』
記憶より若い、聞き覚えのある声に耳を疑う。
『私にしては、色が濃すぎる気がするけれど……』
光が、段々と人の形を取る。頬に手を当てて鏡を覗く――若い頃の、祖母の姿へ。
『でも、あの人が選んでくれた色だから』
そう言って微笑んだ瞬間、フッと、音も光も消えてしまった。
「今の……何」
部屋の明かりを付けて鏡台に近づく。鏡の中には、疲れが抜けきらないいつもの自分の顔。
さっきのは疲れが見せた幻かと思ってふと視線を下げると、鏡台を手に入れた時に使った口紅が、転がっていた。
(……おばあちゃん、いつも楽しそうにお化粧してたっけ)
そして、はにかみながら、祖父に感想を求めていたことを思い出す。
――明日は、久し振りのデートだ。
鏡台に最初に座った時の高揚感を思い出しながらめいいっぱい着飾って。
彼の前で微笑んでみようと、そう、決めた。