7 嘘を重ねよう
コンサート終了後、僕はひどく憂鬱な気持ちで楽屋の前にいた。
あらかじめレナートに、「終わったら彼女を紹介するから来てくれ」と言われていたからだ。
帰ろうかどうしようか迷った。
だが今日、ここで帰ったところで同じことだ。
僕のすべきことは最初から決まっているのに、逃げてどうする。
そう自分を奮い立たせてここまで来た。
完璧に取り繕うことが出来るだろうか。
いや、やるしかない。
意を決して、扉を叩いた。
「ビリー! 来てくれたか、遅いぞ!」
笑顔で扉を開けてくれたレナートに、「すまない、トイレが混んでたんだ」とどうでもいい嘘をひとつつく。
「紹介するよ、彼女が僕の歌姫、ミレニア・グレンジャーさんだ」
楽屋に引っ張り込まれると、椅子に座っていた彼女は挨拶しようと腰を上げ、驚いた顔をした。
「……先生?」
「こんにちは、ミレニア」
僕とミレニアの間に流れた空気を見て、今度はレナートが驚いた顔を作った。
「……あれ? 知り合い?」
「ああ」
彼女がなにか言うより前に、僕は言った。
「彼女は僕の患者だよ、レン」
(彼女は僕の好きな人だよ――)
不要な言葉は飲み込んで。
必要なことだけを言えばいい。
「ビリーの患者? 驚いたなぁ、世間は狭い」
「本当だな、僕もまさか彼女が本職の歌手だとは思ってなかった」
(まさか彼女が君の思い人だなんて、思ってなかった――)
本当の気持ちは隠して。
彼と、彼女が幸せになる方法だけを考えればいい。
「先生……」
「ああミレニア、今日は顔色がいいみたいだね。何よりだ。レンとの共演も素晴らしかったよ」
ミレニアが先日の話の続きをはじめないように、それとなく話題をそらした。
「あの、先生」
「ここでは先生ではなく、レナートの友人でいいよ。ウィリアム・ヒッズバーグだ。今後とも僕の親友をよろしく」
無理に笑ってそう言えば、彼女はそれ以上なにかを聞いてこようとはしなかった。
それから何を話したのか、よく覚えていない。
全部嘘っぱちで、くだらない世間話で取り繕って、帰った。
夜、ミレニアから電話があった。
『先生。いえ、ビリー、今日は本当に驚いたわ』
「……先生でいいよ」
君にとって僕の立場はそうあるべきだ。
医者と患者。親友の友人と親友の思い人。
それ以外を望んだら、きっと。僕の大切なふたりが不幸になる。
『レナートがどうしても会ってほしい友人がいるって言うからどんな方かと思えば……まさか先生だとは思わなかったわ。とても仲がいいのね』
「ああ、学生の頃からずっと友達なんだ……僕にとって親友と呼べるのは彼だけだ」
『素敵ね。あなたたち、あまり似ているように見えないけれど、お互いをすごく尊重して大切にしてるのが分かるの。そういう関係って、望んでもなかなか手に入らないものよ』
「……ミレニア、君の病気について、今日国立病院に問い合わせたんだ」
わずかな沈黙があった。
『……バレちゃったのね』
「どうして黙ってたんだい?」
『話しても、どうにもならないから』
「……確かに、医者は万能じゃない。でも、僕にも出来ることが――」
『ないわ。発症したら、半年以内って言われてるの』
「……っ聞い、たよ。だが、それで、君は……」
『私は大丈夫よ、先生。ただ、やっぱり……』
先ほどより長い沈黙があって、ミレニアは続けた。
『自分が死んだあとの……この子のことが、心配だわ』
今となっては、ということなのか。
「そうだね……それに、出産は君の体にとって大きなリスクになる。それでも産むのかい?」
何度尋ねても、ミレニアの中には「産む」以外の選択肢がなかった。
今回も迷わずに「産むわ」と答えた彼女は、通話口の向こうでいつものように微笑んでいるのだろう。
『ねえ、先生。生の価値は長さで決まらないの。私の母も、その母も、ずっと続いてきてみんながそれを知っていた。だから私が産まれたの。私は産まれてきて良かったわ。この子にもそう思って欲しい』
そんなことを言われてしまっては、止める言葉が見つからないじゃないか。
僕だって君が産まれてきて良かったと、心から言える。
だから――。
『ひどいと思う?』
「いや、好きだよ」
(君の、そういうところが――)
違う。
「君の、そういう考え方――好きだな」
『ありがとう、先生』
きっとこれでいい。
受け取った感謝の言葉を噛みしめながら、僕は用意していた言葉を口にした。
「ミレニア、子どもには母親だけじゃなく、父親も必要だ」
通話口の向こうで、ミレニアが息を飲んだのが分かった。
少し前の自分なら、きっと「僕が父親になってもいいか」と聞いていたことだろう。
だが今はもう、そんなことは言えない。
レナートはきっと、彼女のお腹に子がいると知っても気持ちを変えない。彼女ごと、お腹の子も背負うと言うだろう。そういう男だ。
「レンはいいやつだよ。人柄は僕が保証する。彼の両親も姉も、とてもいい人たちだ。みんな君を大切にしてくれるだろう。なにより、彼には君の生を共に生きる覚悟がある。もう一度、真剣に考えてやってくれないか。お腹の子のためにも」
彼女からの返答を待ったが、反応がない。
空白に耐えかねて「ミレニア?」と呼びかけた。
『……先生は、そうしたほうがいいと思う?』
ほんの一瞬、答えに詰まった。
ここは、なんの迷いもなく、もちろんだと言わなくてはならなかったのに。
僕はのどの奥から絞り出すように「ああ」と答えた。
「あいつ以上の男はいない。レンになら、安心して君を任せられる」
それが本心でも、そうでない未来を選べたら良かったと思う自分がいる。
一瞬想像した。ミレニアがこのヒッズバーグ家に嫁いできた姿を。
それだけで答えは簡単だった。
僕が父親になるよりも、レンが父親になったほうがいいに決まっている。彼の家は僕の家と違い、温かい人ばかりだ。
なにより、この冷たい家にミレニアは似合わない。
だから。僕はこれからも、僕の大事な人たちに嘘を重ねていくのだろう。
『……そう。分かったわ……よく、考えてみる』
愛してる。
ふたをしようとする度に、言葉が、気持ちが溢れそうになる。
この愛しさに溺れるわけにはいかない。
ミレニアと、レナート。僕にとって、かけがえのない人たち。
ふたりの幸せを願うなら、この気持ちは決して表に出してはならない。
『今日は疲れたから、もう寝るわね。おやすみなさい、先生』
間違っていない。
これが、最善だ。
「おやすみ、ミレニア。良い夢を」
愛してる、君を――。
この気持ちが伝えられなくてもかまわない。
ふたをして、鍵をかけよう。
最後まで隠し通せば、それが真実になるから。