6 至宝の歌姫
ミレニアの怪我は軽いものだった。3~4日もすれば普通に歩行できるだろう。
ただ家族がいない彼女にとって、その間に苦労することが想像できた。
僕はどうしても彼女の助けになりたかった。
とはいえ、仕事を放置して彼女の世話をしにいくわけにはいかない。
悩んだ末に家事用のレンタルヒューマノイドを雇い、ミレニアの家に送り込んだ。
(やり過ぎだったろうか……)
直接聞けば遠慮して断られるだろうと思い、許可を取らずにおせっかいを焼いた。余計なことを、と言われる不安もあったが強行してしまった。
仕事づくめで彼女からの電話にも出られないでいたら、4日目にお礼の手紙が届いた。目の不自由な人が使う道具を使って、印刷されたものだった。
真夜中、コーヒーを飲みながら手紙を読んだ。機械の出力した文字とはいえ、ありがとうの文字に疲労が吹き飛んだ。
些細な言葉のひとつひとつが心に沁みわたる。好きな人からもらう手紙というのが、こんなにもうれしいものだとは知らなかった。
彼女と会って、僕の世界は色づきはじめていた。これが僕にとって本当の愛と呼べるものなのかもしれない。そう思うようになっていた。
5日目。ようやく昼間に時間が取れて、ミレニアの家に電話をかけた。
開口一番、電話を取れなかったことを謝罪すると、「先生、謝られたら私が困ります。こんなによくしてもらっているのに、おかしいわ」と笑われた。
家事用ヒューマノイドについては、やんわりとお小言を食らった。
お金のかかることだから、もうしないで欲しいと言われた。
『私だけ特別扱いされたら、他の患者さんがお気の毒だわ。それとも先生は、私の目が見えないから、同情しているの?』
通話口の向こうから聞こえてくる、穏やかな声。
怒っているのでもなじっているのでもなくて、彼女はただそうなのかと尋ねている。
「いや……」
患者として特別扱いしているわけではない。それは本心だった。
「本当なら、僕が直接行って手伝ってあげたかったんだ。でも、それは出来ないから――機械の手を借りたんだ」
『え……?』
「君が困るだろうと思ったら、助けたかった。そういうのは、医者と患者としてじゃなければ、してもいいのかな」
『それは……どういう――』
会話の途中で、「若先生、急患です」と飛び込んできた声があった。
ミレニアにも聞こえたらしい。
「すまない、また連絡する」
『はい、あの、お仕事頑張って』
「ありがとう」
短い時間だったが、彼女と同じ時間を共有出来た。
もうそれだけでいいとすら思えるのだから、不思議でならない。
次にレナートに会ったら、「僕にも運命の人が見つかったかもしれない」と言ってやろうか。
彼の驚く顔と、本気で喜んでくれる顔が同時に浮かんで、また僕の心を温かくした。
◇ ◆ ◇
レナートに会う機会はそれなりに早くやってきた。
僕の手の中には、先月からもらっていた音楽会のチケットがあった。
休みは取ってある。朝から支度をすると、南8番街にあるコンサートホールへ出かけた。
彼主催の音楽会は、ローラシア随一の音響設備を備えた劇場で行われる。
いつだかの電話で、レナートが声を弾ませていたことを思い出した。
『彼女の体調が少し良いってことで、今回特別に出てくれることになったんだよ! オケとの共演よりも僕のピアノ伴奏がいいって言ってくれて、ふたりでやることになったんだ。夢みたいだろう?』
興奮気味に教えてくれた、意中の彼女との共演。今日はその顔が拝めるというわけだ。
恰幅のいい女性歌手らしき人がとなりを通っていくのを、思わず目で追ってしまった。
ああいう感じの人だったとしても、祝福してやろうと心に誓った。
今回のコンサートは、演奏に機械を使わない、クラシックなコンサート形式になっている。
ソロとオーケストラとの2部制になっていて、開演直後からかなり楽しめた。
2部も終わりに近付いた頃。アナウンスとともにレナートが紹介され、舞台上に進み出てきた。
彼のあまりうまくない挨拶と、自身の最近の活動の話をふまえて、歌の話になった。
『思いがけず素晴らしい歌姫を見つけてしまい、今日は無理を言って来ていただきました』
超一流と名高い彼にこんな紹介のされ方をしたら、相手は腰が引けてしまうのではないだろうか。
思わずそんな心配をしてしまった。
レナートは気にすることなく、マイクを持ったまま舞台の端まで歩いて行くと、手を差し出した。
薄紅色のふわりとしたドレスをまとった女性が、進み出て手を乗せた。
レナートにエスコートされて歩く女性は、僕が想像していた姿よりもずっと細身で、小柄で、意外に思った。
(……?)
なにか、引っかかった。
大舞台に臆することなく歩く、しっかりとした足取りの金髪の女性。
舞台上のふたりを見ていると、心臓の辺りが苦しくて、普通に息をするのが難しくなってくる。
中央まで歩み出てくると、レナートは再びマイクに向かって言った。
『――ご紹介します。至宝の歌姫、ミレニア・グレンジャー!』
上げた顔の閉じられた瞳に、拍手が降り注ぐ。
今度こそ心臓がどくん、と強く脈打った。
ミレニア。ミレニアだ。
嘘だろう、なんの冗談なんだ? 彼女が、歌手?
彼女が、レナートの思い人?
嫌な汗が額から流れ落ちる。
膝の上の手がカタカタと震えた。
舞台正面のここに座る僕の顔を、誰も見てはいけない。動揺を、知られてはいけない。
そんな焦燥感にかられて、必死に平静を装った。
現実のひとかけらも受け入れられないような息苦しさの中、うっとりするようなピアノの音色が流れて――。
ミレニアは歌い出した。
高らかに。あの女神のような声で。
間違いない、彼女だ。
彼女が、ミレニアが、レナートの言っていた歌手だったのか――。
ショックで頭が回らなかった。
そして、思い出した。
レナートは、なんて言ってた……?
(珍しい病気なんだって。遺伝性で、大体が40歳になるまでに亡くなるらしい)
ふいに叫びそうになって、口を手で覆うと嗚咽をもらした。
こんなもの、全部夢だったらいい。
そう、全部夢だったら――――――――――どんなにいいか。