4 女神の歌
「ビリーはさ、一目惚れってあると思うかい?」
唐突に切り出された内容に、僕はコーヒーのカップを取り落としそうになった。
休日のカフェには人が溢れていて、僕たちの雑談も緩やかな喧噪の中に紛れている。
レナートは自分から投げかけた質問だというのに、もう答えを知っているような目で僕の返答を待っていた。
「……さぁ、どうだろう。話には聞くけれど、よく分からないな」
そう言いながらもひとりの女性を思い浮かべる僕は、少し冷静でなくなっていた気がする。
一目惚れ? まさか、そんなことあるはずがない。
「笑うなよ。舞台で歌っている彼女を見た瞬間に、この人だ! って思ったんだ。理屈じゃなくて、魂でひかれたっていうか……とにかくそれ以来、彼女以外見えなくなってしまったんだ」
その説明でいくと、やはり僕のは違うのだろう。
レナートの話はあらゆる前置きをすっ飛ばした、まるで夢見る乙女のものだった。先日彼が話していた歌手のことだろうと自然に解釈した僕は、「運命の出会いってやつかな」と茶化した。
「運命、そう、そんな感じだよ。僕は彼女に出会うために今日まで生きてきたとさえ思えるんだ。でもまだ仕事上で数回しか会ったことのない相手なんだよ。ぼくはおかしいのかな」
茶化されたことも気づかないほど、舞い上がっているようだ。
僕が知る限り、彼にとっては2度目の恋だから、無理はないのかもしれないが……。
保護者のような気持ちで微笑ましく思うのは、失礼だろうか。
「はじめて会った女性と、すぐに深い関係になれる男よりは正常だと思うよ」
「またそんなことしてたのかい? ビリーはそのうち女性に刺されるよ」
「僕のことだとは言ってないだろう。あと、誘ったのは向こうだ」
「ああー、ほら、自分のことだって言ってるじゃないか……無駄に容姿が優れてるのは認めるけど、誘われたらいいってもんじゃないだろう。君のそういうところだけは困ったもんだよ。もう治らないのかなぁ」
「不治の病だからな」
冗談で返すと、レナートは何故か暗い顔になった。
気を悪くしてしまっただろうか。
「いや、すまない。タチの悪い冗談だったかな……」
謝罪の言葉を付け足すと、レナートは「違うんだ」と苦く笑った。
「彼女がね、治らない病気らしいんだ」
「え?」
「珍しい病気なんだって。遺伝性で、大体が40歳になるまでに亡くなるらしい」
「……どこの病院にかかってるんだ?」
「国立だ。もう全部分かってて……医学の力じゃどうにもならないみたいだ。実はつい昨日、交際を申し込んだんだよ。そうしたら病気のこと話してくれて……だから、無理だって断られた」
「レン……」
無理矢理に笑う友人の顔が痛々しかった。
どうして彼のような幸せにならなきゃいけない人間が、そんな先のない相手に本気になってしまったのか。
そんな理不尽な思いが頭をもたげた。
「じゃあ、あきらめるのか」
「まさか」
意外なほどあっさりと、彼は否定した。
「彼女の余命がどうとか、関係ないんだ。だって人はいつか死ぬだろう? どこで終わるか分からない未来におびえて、今一番大切にしたいものを手放したくないんだ。だから、あきらめないよ」
「……そうか」
それが良い選択なのか、悪い選択なのか、僕には判断出来ない。
レナートがいいと言っても、相手がそれをよしとするかは別問題だ。
ただ、どんな結果に終わっても、この友人は後悔しないんだろう。そう思った。
(今一番大切にしたいもの……か)
そんなものが手に入るのなら。
たとえ制限時間がついていたとしても、手放したくない。
その気持ちは少しだけ、分かる気がした。
◇ ◆ ◇
来てしまった。
街中から少し離れた南10番街の、2軒の家がくっついた集合住宅。
同じ形の家が並ぶ中、その一番隅に彼女の家はあった。
ミレニアが退院して、1週間。
定期検診は、かかりつけの病院のほうが近いからと断られて、彼女との接点はなくなった。
ひとりの医者としても、行きずりの知り合いとしても、僕が自宅を訪ねることはおかしい。
玄関前まで行ったものの、自分の行動の怪しさを思うとインターホンを押す気にならず、結局引き返した。なんとも馬鹿馬鹿しい限りだ。
帰り道、小さな公園の前にさしかかって、ふと足を止めた。
歌だ。
青空に吸い込まれていくような、高いソプラノが聞こえる。
音楽が好きだといっても、僕が弾けるのはドラムだけ。歌のことは分からない。
それでもすぐに分かった。
これが普通でないことは。
引き寄せられるように公園の中に足を踏み入れた。
ブランコに腰かけて、若葉色のゆったりしたワンピースを着た女性が歌っていた。
郷愁を思わせるメロディ。
大気に溶ける透き通った声が胸を貫いた。
人のものとは思えない。これは女神の歌声だ。
(ビリーは、一目惚れって、あると思うかい?)
レナートの言葉が脳裏に浮かんだ。
(ああ……)
2度目だ。
僕はきっとこの人に、2度、一目惚れをしたんだ。
理由なんて分からなくても、魂がそうだと言っている。
自分の中にある愛おしい気持ちがすべて、彼女に向かっていた。
「ミレニア……」
離れた場所から、彼女の名を呟いた。
視線の先にいるミレニアは、視力がないことを感じさせないほど自由だった。
どこまでも自由に歌うその姿を見て、彼女の存在そのものが幸せの象徴のように感じた。