3 再会
何故だか、あの盲目の女性のことが頭から離れなくて。
しばらく経ったある日のことだった。
運河で水に落ちていたところを助けられ、救急で20代の女性が搬送されてきた。
意識がないらしく、検査の途中で呼び出された。
「手術が終わったばかりなのにすみません、若先生。他に手の空いている医師がいませんで」
若い検査技師と看護師が、揃って頭を下げた。
「かまわない。患者は?」
「身につけているものから身元が分からない状況です。SZ5が必要な処置を施して、あとは目が覚めるのを待つばかりかと思ったんですが……これを」
救命にあたった医療用ヒューマノイド、SZ5の処置は的確で問題なかった。だが……
カルテを見て、眉をひそめる。
「妊娠3か月……初期か」
「危険な状態なのかどうか、診察をお願い出来ますか」
産科は完全に専門外だが、机上の知識はある。
他に診る人間がいないのなら、答えはひとつだ。
「すぐに診よう」
早足で階段を下り、検査室に向かった。
到着した部屋に入り、ベッドに寝かされた患者を見て言葉を失った。
まさか、こんな形で再会するとは――。
そこに横たわるのは間違いなく、先日出会った盲目の彼女だった。
「若先生?」
看護師が動きを止めたままの僕をいぶかしげに見て、声をかけてきた。
はっと我に返る。
そうだ、今は相手が誰だろうと関係ない。仕事を、しなくては。
「彼女を助けるぞ」
動揺を抑えて、そう声に出した。
脈が弱い。依然として危険な状況を抜けていないことが分かった。
(私の目が見えていても、きっと同じように手当てしてくれたでしょう?)
あの日の彼女の質問が、頭の中でくり返し再生された。
当たり前だ。誰だろうと、患者を投げ出したりしない。
医者は傷ついた人間を助けるのが仕事だ。それが誰だろうと関係ない。
だがこの時の僕は、明らかに「彼女を」死なせたくないと思っていた。
母子ともに危ないかと思われた状況も、足りない知識をフル稼働させて対処した。必死だった。
途中から加わってくれた産婦人科医とあわせて、なんとか持ち直すことに成功したときは、安堵と疲労からその場に座り込んでしまった。
その夜――。
仕事を終えて、帰宅する前に彼女の病室へやってきた。
意識は戻ったと聞いていた。後遺症も今のところ見られず、状況説明は産婦人科医からすでに行われているはずだ。
少し話が出来るかと思ったが、彼女は静かな寝息を立てていた。
そっとバイタルをチェックして、正常値を確認すると、去ろうと思った。
「――誰?」
出入口をくぐろうとしたところで、背後から呼び止められた。
薄暗い部屋の中、彼女は横たわったまま薄く目を開けて微笑んだ。
「ブルーグリーンの人」
「え……」
「あなたね、先日は指を手当てしてくれてありがとう。それから……今日も」
「……どうして僕だって……誰かから、聞きましたか?」
いや、誰からなにを聞いたら、あのときの医者だと分かるんだろう。
自分でも説明のつかない事態に、彼女は「いいえ」と答えた。
「私ね、目は見えないけれど、人の持つ色は見えるのよ。あなたのは、濃い綺麗なブルーグリーンなの」
予想していなかった答えに、返す言葉を失った。
そういう人がいることは知っている。ただ、自分の生活する範囲で出会ったことはなかった。
魔法の力。
世の中には科学の力で説明できない能力を持った人間が、確かに存在する。
この腐敗した世界の環境に、適応した人たち。
そう理解はしていても、飲み込むには少し時間がかかった。
「目が覚めたとき、少し腹が立ったわ」
「……えっ?」
「どうして死なせてくれなかったのかしらって思ったの。だって、寒かったのよ、すごく。あんな思いまでして水に浸かって、でも眠るように死ねるかもしれないと思ったのに、助かってしまって」
「なにを……」
「でも、ありがとう。助けてくれて――」
状況から、自殺未遂じゃないかという疑いがあった。
それでも本人から直接聞くと、ひどく胃が重くなった。
死のうと思っていて。助けられたと知って腹が立って。
それでも感謝の言葉を口にできるのは……
「お腹に子どもがいるって、知らなかったんですか……?」
思い当たったことを尋ねると、彼女は「ええ」とさみしげに微笑んだ。
「失礼ですが、ご結婚は?」
「してないわ。恋人かどうかも分からない人なの」
父親は――ということだろう。
その説明に、ずきりと胸の奥が傷んだ。
「本当に人だったのかも、分からないの――もしかしたら、死神だったかもしれない……でもまさか、子どもが出来るなんて思ってなかった」
なんと声をかけていいか分からなかった。
遊ばれたのだろうか。目の不自由な女性を相手に、不誠実すぎるだろう。
無性に相手に腹が立った。だから、彼女が続けた言葉は理解しがたいものだった。
「――赤ちゃん、うれしいわ」
思わず声を失った。
うれしい? そんな男の子どもを授かって?
柔らかな表情から本心だと分かったものの、僕の心はなにかを拒否していた。
「お別れを言いに来たあの人を、私が引き留めたの。なにもいらないから、側にいて欲しかった。でも……あの人は去って行った。それで、思い出と一緒に眠ろうと思ったの」
そんな悲しいことを吐き出しながら、それでも彼女は微笑んでいた。
「この子が無事で良かった。先生、助けてくれて、本当にありがとう」
「……君は」
乾いた声がもれた。
「産むつもりなのか、その……君がこうして病院にいるのに、会いにもこないような男の子どもを」
「ええ」
「どうして」
「愛してたの――その瞬間だけだったとしても。あの人が本物の死神だったとしても。私たちは愛し合ってたわ。だから、この子のことも愛してあげたいの」
彼女の言葉を飲み込むのは難しかった。
それはあまりにも非現実的だ。目の見えない彼女が、父親無しでどう子どもを産んで育てていくというのか。
「馬鹿ね、私。死んでしまえばひとりじゃなくなるなんて考えてたのよ。もうとっくに、ひとりじゃなくなっていたのにね……」
なにかを悟ったような、綺麗な微笑みだった。
今日死にかけて、弱々しくベッドに横たわる、目の見えない女性。
だというのに、憐れな気配はかけらもなかった。彼女の内から湧き出る命の光のようなものが、そう見せるのだろうか。
「……名前を、教えてもらえますか」
僕は言いたいことのすべてを飲み込んで、それだけ尋ねた。
なにを言っても自分のエゴにしかならない気がして、今の彼女にかける最適な言葉が思いつかなかったからだ。
「ミレニアよ。ミレニア・グレンジャー。あなたは?」
「ウィリアム・ヒッズバーグです」
「本当にありがとう、ヒッズバーグ先生」
感謝の言葉を口にした彼女を、ただ見つめていた。
この人のためになにが出来るだろうと、それだけを考えていた。
それはもう、医師の立場を超えた思いだった。