2 不思議な彼女
難しい手術の日には、よくトラブルが重なる。
この日もそうだった。清掃作業用の機械に巻き込まれてしまった片腕のない男が運び込まれたり、階段から落ちて頭を打った女が救急搬送されたり、とにかく休まる時がなかった。
僕の専門は外科だが、立場上、専門外だと突っぱねていられないときも多い。
医療用の最先端人型機器は優秀だが、与えられた仕事をこなすことは出来ても人間的な判断はできない。
どうしても機械任せにできないことが、たくさんあるのだ。
人の命を素手で扱うということは、たやすいことじゃない。
一瞬たりとも気を抜けないし、不用意な言動は許されないのが医療の現場だ。
自分に限界がないと思っているわけじゃないが、あきらめないことは何よりも大事だと思っている。
重症患者の身内を前にして「手の施しようがないからあきらめてくれ」などと平気で口に出来るヤツがいるとすれば、そいつはすでに人の心を持っていないだろう。
『処置は不可能です』と呟くのは、機械だけでいい。
「なってやった」仕事でも、責任は果たす。患者は絶対に見捨てない。
そんな生真面目さが僕のような人間にもちゃんとあって、それは時として自分の首を真綿で締めるような行為に繋がっていった。
体と心は別々のものだが、根っこのところで深く関わり合っている。
体がひどく疲れてしまうと、心もそれに引きずられるものだ。
だから僕は、いつでも疲れていないことがなかった。
回復する時間が欲しい。
穏やかに過ごす時が欲しい。
癒やされるなにかが欲しいと思う気持ちが、女性たちとの付き合い方に繋がっていったのかもしれない。
夜勤明けで、夕方まで仕事に追われて、ようやく帰宅を許された。
帰り道、買い物に寄って車に乗り込もうとしたときだ。
「あっ、悪い」
そんな声とともに、駐車場の向こうで若い男女がぶつかったのが見えた。
男のほうは謝ってすぐに行ってしまった。
女はその場を立ち去らない。なんとなく気になって車に荷物を積みながら目の端で見ていたら、突然地面にしゃがみ込んだ。
どうかしたのだろうか。
医者の性か、具合の悪い人間は放っておけない。
他に通りかかる人間もいないことから、僕は足早にその人の元へ向かった。
声をかけようと思ったが、様子が変だ。
具合が悪いというよりは、手で地面をぺたぺた触って、小さい子どもがなにかを探しているように見える。
緩やかな金髪が地面につきそうだ。仕草からおそらく、目が不自由なのではないか。
少し離れたところに、白い飾りのようなものが落ちていた。
拾い上げると、女性の前にしゃがみ込んで「これを探してますか?」と尋ねた。
「え……っ」
よほど集中して地面を探っていたらしい。
びくりと顔を上げると、女性は閉じたままの瞳で僕を見た。
整った柔和な顔立ちの、可愛らしい女性だった。
「あっ……驚かせてすみません。白い飾りのついた、アクセサリー……これ、あなたのものでは」
手に持っているアクセサリーの詳細を伝えようとして、それをじっと観察してみた。
(……ん?)
質感から、白い部分は骨だと分かった。
小さいが、紛れもない骨のブレスレット。若い女性が身につけるには悪趣味だ。
目の前の清楚な雰囲気の女性には似つかわしくない。
「あの、ごめんなさい。手に持たせていただけるかしら」
女性はさらさらと水が流れるような調子で言った。
「ええ、どうぞ」
差し出された指に真新しい切り傷が見えた。躊躇したが、そっとアクセサリーを手のひらに載せる。
女性はそれを握って、さらに反対の手の指先で撫でるように触ると、顔をほころばせた。
「探していたものです。ありがとう、助かりました」
女性はブレスレットを左手首に通してつけた。
「いえ、見つかって良かったです」
花が香るように笑う人だと思った。
艶やかな花というよりは、素朴な野の花。年は20歳くらいだろうか。
「立てますか? お手をどうぞ」
手をとって立たせてあげると、彼女はもう一度お礼を言った。
本人は気にしていないようだが、血が滲んだままの指の切り傷が気になった。
「手を怪我してるようですが……大丈夫ですか?」
尋ねると、少し考えてから「ああ」と言った。
「歩道の手すりを掴んだときに切ってしまったの。古い金具が飛び出ていたみたいで」
「消毒は?」
「していません。でも大丈夫。私そそっかしくて、しょっちゅう怪我するから」
「家の中でした怪我と、外でした怪我はまた別です。ちょっとここに座っていてください」
確か僕は、24時間ほど働いた激務のあとだったはずだ。早く家に帰って風呂に入って寝なければいけないときに、こんなところでなにをやってるんだろう。
帰って朝まで休める確約などない。夜中に呼び出しがあるかもしれないし、今呼び戻されるかもしれない。
自身のためにも、仕事のためにも、早く体を休めなければ。
冷静な自分がそう抗議してくるが、このまま放って帰る選択肢はなかった。
僕は車から携帯用の医療道具を持ってくると、花壇の脇に座らせた彼女のとなりに陣取って、勝手に手当てをした。
「怪我をしたときは、たいしたことがなくてもまず綺麗な水で洗い流してください。どの程度の怪我か分からないときは、自分で判断せず病院に行ってくださいね」
「あなた、お医者さんみたいね」
「みたい、ではなく医者ですよ」
「まあ……」
「はい、できました。いいですよ」
手早く終えて道具を片付けると、正面から彼女の顔を見た。
見られたのに気づいたのか、彼女は顔をあげてはじめて目を開いた。
瞳孔の見えない濃紺一色の、白い星が散りばめられた瞳。
吸い込まれるようなその色を見た瞬間、彼女の目がほとんど見えていないことを理解した。
それでも確かに見つめられた気がして、小さく心臓がはねる。
「ブルーグリーン。綺麗な色ね」
「――え?」
突然に呟かれた色の名前に、とまどう。
自分が身につけているもののどこにも、そんな色はなかった。
「あなた、私の目が見えていても、きっと同じように手当てしてくれたでしょう?」
「……それは、そうですね」
何故明らかに年上の僕のほうが敬語なんだろう。
春風を思わせるこの声で話しかけられると、汚いことや間違ったことをひとつでも返してはいけない気になる。
不思議なひとだ。
「同情されるのはあまり好きじゃないの。だから、うれしかったわ。ありがとう」
そう言って立ち上がると、彼女は目が見えないとは思えない足取りで去って行った。
杖も持たずに、どうして周りが分かるのだろう。
「名前を、聞かなかったな……」
ふわふわした夢を見たあとの気分で、家に帰った。