1 気のおけない友人
絶縁状を叩きつけた机に、無駄なものは一切なかった。
この父の内面そのもののように感じて、皮肉にも似た笑いがこみあげる。
「ウィリアム……二度とこの家の門をくぐるな」
たった一言。
背中越しに投げられた声は、相も変わらず愛情のこもらない酷薄なものだった。
この期に及んでなにを期待する気もなかったが、わびしい気持ちもなくせはしない。
結局、僕を理解してくれる親はどこにもいなかった。
厳しすぎた父。
父に従うだけで、自分の意見を持たない母。
僕はどちらにも似なくて良かったと、今なら思える。
「言われなくても、そうしますよ。お父さん」
かつてはその背を追い、敬ったこともあった男。
そう呼んだのは、その日が最後だった。
◇ ◆ ◇
36年間続いた、親子の縁を切ることになった日から遡ること、10年前――。
26歳の僕は、父の病院で医師として働いていた。
飛び級で医科大を卒業したせいで、現場での仕事も3年目になる。
仕事は責任感を持って従事していた。だからと言って特別にやりたいことではなかった。所詮は親に決められた仕事、という意識がいつもどこかにあったように思う。
なりたくて医者になったというよりは、なってやった、というふてくされた感情だ。
忙しい合間のわずかな休日。
科学国の淀んだ空の下を、僕は歩いていた。
汚染された大気を浄化しなければ、人は生身で息すらできない時代だ。
胸元に下げたエアシールドが正常に稼働しているから、僕らは外を出歩ける。
浄化されない有害物質を吸い込めば、すぐに死んでしまう弱い存在。それが科学国の人間だ。
大崩壊後、環境の変化に適応できなかった人間は、自然界に存在する価値すらないのかもしれない。
そんな弱い人間をわざわざ生かすために、僕ら医者は働いている。
「ビリー、今日は休みかい?」
街中を歩いていて、慣れた声に呼び止められた。
ビリーは僕の愛称だ。赤ん坊の頃から育ててくれた乳母とこの友人以外、僕をそう呼ぶ人はいない。
「レン、君も買い物か」
愛称で呼び返して、温和を絵に描いたような目尻の垂れた友人を振り返る。
彼の名はレナート・マンティエロ。
著名な音楽一家の跡継ぎとは思えないほど、ラフな……悪く言えばだらしない服装はいつものことだ。
彼は手にした本屋の袋を見せると、「ああ、そうだよ」と笑顔をみせた。
「ビリーはひとり? 休みはいつも女性と過ごしているとばかり思っていたよ」
向けられたからかいは僕の女性関係の噂からきているが、あながち間違いではない。
ただし、つき合っている女性がいる間は浮気もしないので、女たらしの悪人というレッテルを貼られるのは違う気がする。
「レンと過ごしている休日だって、それなりにあると思うんだがなぁ」
「冗談だよ。ぼくはこれでも、君が本当は誠実な男だって分かっているからね」
そんなことを恥ずかしげもなく言うと、レナートは重たそうな紙袋を抱え直した。
中には本が入っているようだ。また音楽関係のものだろう。
芸術家といえば変人も多いが、この友人に限っては、その変人ぶりがすべて良い意味で使われている。
おっとりしているようで芯が強く勤勉なところも、大国ローラシア一と賞賛されるピアニストであって奢らないところも。子どもにも騙されてしまう、人の良いところも。
親に甘えることを知らずに育ってきた僕とは真逆の性格で、僕たちの共通点は音楽が好きなことくらいしかない。
それなのに、彼との間には心地いい時間が流れるばかりなのが不思議だ。
学生でなくなった今、気のおけない友人は彼くらいだった。
「重そうだな、また紙の本を増やしたのか。なにを買ったんだ?」
「ああ、その……旅行ガイドと、声楽関係の本を少しね」
旅行ガイド?
不思議に思い、何故そんなものを買ったのか尋ねると友人は頬を赤らめた。
「実は……先日のコンサートで、ある歌手に出会ってね。彼女の歌が素晴らしいんだ。それで無理を言って楽屋に入れてもらって話をしたんだけど……そのときに彼女の故郷の話を聞いたんだ。アッシュールのとなりの小国なんだけど、古い歌がたくさん残ってるところですごいんだって。これはその国の本で……」
いつもはそんな風に話さないレナートが、少年のようにキラキラした目で語るのを見て察した。
音楽の話をするときと違う、熱のこもった口調。
そうか、女性に対しては気後れることが多くて、僕とは違う意味で結婚に縁がないと思っていたこの友人が……。
(春が来たか)
自分でも驚くほど温かい感情がこみ上げてきて、再認識した。
僕はこの友人が本当に好きらしい。彼の幸せを、心から願えるくらい。
ぽん、と肩を叩くと、「良かったな」と声をかけた。
レナートはなにが良かったのか分からなかったようだ。きょとんとした顔で「え、なにが?」と返されたが、うやむやにした。
「僕も今度その歌手に会ってみたいな。君がそこまで褒めるんだ、有名人なんだろう」
「いや、それが彼女は全くといっていいほど有名じゃないんだ。一部の人間に名が知られてる程度で……体が弱くて……普通に歌手として働くことが難しいらしい」
やや表情を曇らせて説明すると、それでもレナートは「今度紹介するよ」と約束してくれた。
高等部の学生だった頃、僕に近付きたくてレナートを利用した女がいた。
くだらない工作だと視界にも入れず放置していたあの女のことを、レナートが好きになったと言ったとき。
取り返しのつかないことに友人を巻き込んでしまったと悔いた。
優しい言葉をかけられて、利用されるだけされたあげくに手ひどくフラれて。
馬鹿なのは自分だったからと、誰を責める気配すらなかった気のいい友人に、また好きな人ができたのだとしたら。
今度こそ幸せになって欲しい。
そのために僕ができることがあるのなら、助力は惜しまない。
家路についた彼の背を見ながら、そう思った。
本編読者さま、はじめましての方もお越しいただきありがとうございます。
完結まで3万5千字ほどになります。中編なのでそれほどお時間かからずに読めるかと。
毎日どこかで更新します(予約投稿含)。