食鉱専門店(イータ・ジュエリア)
「いらっしゃいますぇ~~っ!!」
店に入った瞬間にふざけた声で迎えられた。
きらきら綺麗な光を放つ、鉱物まみれの店の中。どうみても十歳前後にしか見えない少年が、ひとりでにこにこ笑っている。さらさらの赤髪に紅い瞳、綺麗な顔立ちの華奢な少年以外には、ひとっこひとり見当たらない。
まさか、この少年が店員なのだろうか。ほかにひとが見当たらないところを見ると、この少年が店長なのか。
(え? えぇっと……こ、ここで合ってるよね?)
蜜橋 朱実はふわふわのスカートを揺らして、ふっと店外へ頭を出した。頭上にかかった看板の名を、恐るおそる確認する。
(食鉱専門店『イータ・ジュエリア』……うん、合ってる)
少女は小さくうなずいて、改めて店内に足を踏みいれた。
しかしすごい店だ。
それほど広くもない店内にあふれんばかりの鉱物、いし、宝石……。
あの棚の真ん中にあるどでんと赤いのは、たぶん紅玉。はしっこの紫色の水晶の形は紫水晶。緑色の柱型のは翠宝石で、黄色いのは黄水晶だろうか。
そうして『食鉱』と言うからには、食べられる鉱物もたくさん混じっているのだろう。しかしどれが人間にも食べられる鉱物で、どれがそうでないのか、見ただけでは分からない。
それにしてもえらい眺めだ。
窓から染みる木洩れ日に、鉱物や宝石が夢のようにきらきら光る。見ているこちらの目の中までもきらきらする。石の博物館に迷いこんだような気分だ。
朱実は紅茶色の髪を揺らして、うっとりとその場に立ちすくむ。そんな少女の手をひいて、少年はさらさらの赤毛をなびかせうながした。
「ねぇ、何やってんの? 早く座りなよ。外暑かったでしょ? はい、どうぞ! おとっときのアイスティー!」
少年はたんたんと優しくたたみかけるように、からからと氷の歌うアイスティーを朱実の前にさし出した。
(は、早業……! いったいいつ用意したの?)
魔術師のようなサービスに、朱実は少々面食らう。面食らいつつ、すすめられた椅子へとそっと腰かけた。
目の前には、水晶の形の氷がふんだんに浮いているアイスティー。よっぽど冷たくしてくれたらしく、早くもグラスがひやっこい汗をかいている。反射的に手を出しかけた朱実はふっと、手を宙に浮かせて考えた。
果たして、この『氷』は本物か。それとも鉱物なのだろうか。
(……どうでも良い……)
思わず内心でつぶやいて、朱実はこっそり苦笑した。
『どうでも良い』と思うくらいに、精神はいまだ本調子ではないらしい。朱実ははしばみ色の目をまたたいて、ゆっくり紅茶に口をつけた。
美味しい。
ほの甘い紅茶の香りが、花咲くように鼻とのどを抜けていく。汗もすうっと引いてゆき、朱実は思わず深いふかい息をつく。
そんな少女の左腕を、少年はしげしげと見つめている。細っこい左手首に巻かれた、ハート模様をくるりあしらったリストバンド。少年はバンドと、紅茶を飲む朱実とをかわりばんこに見つめていた。しばらくそうして見つめた後で、紅い目を甘く緩ませ笑いかけた。
「やっぱりお姉さん、うちのお客の資格アリだね!」
少年はぱっきり宣言し、鉱物の並んだ棚のすみから薄い冊子を引っぱり出した。
冊子をずんがり渡されて、朱実は表紙へ目を落とした。珈琲の染みたような味わいのある色の表紙に『食鉱専門店/商品目録』と書いてある。
「……これは?」
「まあ読んでみて! 特に最初のほうと、最後のほうは念入りに!」
にこにこ笑ってうながされ、朱実は何か言いかけてから、ふうっと言葉をあきらめた。まあ一通り見てみよう。そう思いながら一枚目の頁をめくる。
一頁目には、表紙と同じ飾り文字で『端書』がつらつらと記されていた。
* * *
『食鉱専門店/商品目録』
端書
食鉱専門店、『イータ・ジュエリア』。
食べられる鉱物を売る店。食べられる鉱物以外は売らない店。
これは店主のビジュティエ=ビスタが書き記した、ささやかな『商品目録』という名の覚え書きである。
なお店主は非常に気まぐれな性質なので、目録と名はつけどアルファベット順にはなっていない。言葉の鉱物の全ての配置は店主の気分しだいである。あらかじめご了承いただきたい。
『食鉱物人間』
・体が鉱物で構成されている、人型の生き物の総称。
背たけ、肌質、頭髪ほか、姿かたちはほとんど人間と変わりない。ただ人間よりも髪や肌、目の色合いのバリエーションは豊富である。
体が損傷すると、傷口から中の鉱物質が顔を出す。その際に微量の体液が流れ出て、程なくして凝固し結晶する。体液の色はその食鉱物人間を構成する鉱物の色に準ずる。
食鉱物人間を構成する主な鉱物成分は、生まれついて決まっている。そのマーナ特有の鉱物成分は、個体の成長や病により変化することはない。
・鉱物や宝石が主食であり、その食生活は人間のそれとは程遠い。人間の食するものもたいがいは普通に口に出来るが、ブルーチーズや納豆など、においの強い食物にはしり込みする者が多い。
・食鉱物人間のルーツは、一説によれば『岩喰い男』であるらしい。『岩喰い男』については、昔に著された有名なおとぎの本にその記述がある。
『体が岩で出来ていて、岩ばかりを食する生物』。食鉱物人間はその『岩喰い男』の激しい進化の果てであろうと、説を唱える学者も多数。
ちなみに『食鉱専門店』店主であるビジュティエ=ビスタも食鉱物人間のひとりである。
* * *
ここまで読んだ朱実はふっと目を上げて、つぶやくように問いかけた。
「……あなたが、『ビジュティエ=ビスタ』さん?」
「そうだよー! でもボクはジュニアだけどね! この冊子書いたひとの息子! みんなには『ビジュウ』って呼ばれてる!」
少年は何がおかしいのかからから笑う。それからふいにぷくっと笑いを飲みこんで、冊子を指さして付けたした。
「ちなみにね、『食べられる鉱物以外は売らない店』ってのは昔の話! ボクの代からは、鉱物絡みのいろんな商品を売ってるよ~!」
その言葉を聞き、朱実はまた何ごとか言いかけた。それからやっぱり言葉にするのをあきらめて、あいまいに微笑してみせた。
ビジュウはその微笑ににっこり無邪気な笑いを返し、白い手でついとおのれを指さした。
「ね、ね、ところでボクって何歳に見える?」
「……十歳くらい?」
「あはは! はっずれーっ! ボクは来月でちょうど五十歳になりまーすっ!」
「ご、五十……っ??」
呆気にとられた朱実は二三拍おいて、ああ、と深くうなずいた。
そうだ。食鉱物人間は人間より成長がゆっくりだって、何かで読んだことがある。その分寿命もえらく長くて、平均寿命は二百を軽く越えるとか。
納得した様子の朱実に、ビジュウはちょっと拍子抜けの顔をした。
「なーんだ、もっと驚いてくれると思ったのにな~……」
つんと口を尖らせるしぐさは、まるきり少年のそれだ。朱実は思わずくすっと笑いをもらしながら、ふたたび冊子のページに目を落とした。
* * *
『食鉱物』
・食鉱物人間たちがその鉱物の手で作り出す、人間でも口にすることの出来る鉱物および宝石の総称。そのほとんどが糖分を含み、おやつやお菓子といった類の味わい。
大部分の食鉱物は原料の表面にはちみつを塗ったり、炭酸水に浸したり、天日に干したりといった単純な工程を重ねることによって生まれる。
だがなぜか食鉱物は食鉱物人間にしか作れない。中でも熟練の『食職人』たちが作り出す美味なるものには『真正食鉱物』の名が冠され、珍重される。
『蒼綺石』
・太古の昔、かの大天使ルシフェルが初めて地球を目にした時『これは生きた宝石ですか?』と神に問うたという。
この食鉱物はそんな神話を彷彿とさせるような、ごく色の濃い蒼玉を使用する。
まずは上等の蒼玉をひとつかみ、無糖の透き通る炭酸水でじゃらじゃらと音をさせて洗う。ここで『大丈夫かな?』と思うほど豪快に洗わないと、美味しい宝玉にならないので注意。
その後炭酸水をよく拭きとり、今度は甘い梅酒の中へ。梅と梅のすきまに埋めるようなかたちで、冷暗所でひと月保管。梅酒から取り出した後は、平たい竹製のざるにあけ、良く晴れた日に風にさらして天日干し(一昼夜)。これで完成。
・出来あがった蒼綺石は、もともとの大きさよりふた周り以上小さくなるので、けちらず大きめの蒼玉を使うこと。
・お酒の効いた、和風の飴玉の一種。サンマの照りてり煮などに、みりんの代わりに入れても美味しい(その場合、本来使うみりんと同量の水を追加する)。
子どもは口にすることが(法律的にも!)許されていない、おとなのお菓子。
『柘榴紅石』
・まずは普通の柘榴石を用意(あえて小粒のくず石を使うこと)。
国産のレモン汁をふりかけて(柘榴石500gにつき大さじ一杯ほど)五分ほど置いてから水気を拭きとる。その後本物の柘榴を詰めた林檎箱の中へざらざらとあけ、箱にふたをしてふた晩ほどなじませれば出来上がり。
・ビタミンC豊富な美容食。見た目も可愛らしく綺麗※(かつお手頃価格)なので、食鉱物人間の女子たちに人気が高い。ただしあまりにもお手頃価格ゆえ、ホワイトデーのお返しには適さない。
食鉱物人間の男子諸君、ホワイトデーには金剛木実のプラリネチョコなど、美味しくかつ高価なものを選ぶように!
『水晶氷』
純度の高い水晶を、水晶の重さの3%の砂糖水にひたひたに浸す。満月の夜に冷気の当たる野外に一晩さらす。(生成りの水晶氷を好んで食べる『水晶ハクビシン』に荒らされぬよう気をつける)
翌日の日の出の時刻、水晶の表面の砂糖水をよく拭きとり、冷暗所で三日ほどおく。(夏場は一週間ほど)味見をして氷砂糖のようにひやっと甘ければ出来上がり。
・用途としては、甘い味つきの氷のように使用する。本物の氷と違い、溶けていってももともとのお茶の味は薄まらないので、少々高価だが夏場は重宝する。大切なお客様へのおもてなしなどに。
* * *
ここまで読みすすめた朱実は、ふっと目をとめ顔を上げた。
目の前にある、飲みかけのアイスティー。この中に入っているのは水晶型の氷なのか。それとも水晶氷なのか。
さっきと同じ思考をくり返す少女の前に、ことりと小さな皿が置かれた。可愛らしい薔薇の形のお菓子が、皿の上にちんまりと三粒のっている。ビジュウはこちらの心を読み取ろうとするように、柔らかい紅い目をまたたきながら笑いかけた。
「はい、どうぞ! 召しあがれ! ……あ、でさ、目録はどこまで読んだのかな?」
「……水晶氷のところまで」
「あーそうかー。じゃあ次の項目まで、まずは読んでみて?」
朱実はビジュウの言葉にうなずき、また冊子へと目を落とした。
* * *
『砂漠・薔薇』
・砂漠で産出する薔薇の花状の鉱物『砂漠の薔薇』を一ダース以上用意する。その薔薇たちをクルミの木で作った箱に敷きつめた、甜菜糖の中へと埋める。一日一回よくかき混ぜてはまた埋めるをくり返し、五日ほど経てば出来上がり。
薔薇たちの中の砂分が全て糖分に成り変わり、美味しい砂糖菓子になる。その味わいとたたずまいは、和国で作られる『落雁』のよう。
・ちなみに調理のさい、甜菜糖の中にミントの生葉を数枚入れておけば、出来あがった砂漠・薔薇は薄荷糖のような爽やかな風味に変化する。
なお薔薇たちは淋しがりなのか、一ダース以上仲間がいないとうまく菓子へと変じてくれない。注意されたし。
* * *
「……ど? 読んだ?」
「……読んだ」
『それじゃあどうぞ』と言う風に、ビジュウは小皿を示して微笑う。朱実はあまり迷いもなく、ひょいと菓子をつまんで口にした。
これも美味しい。甘くってさらさらしていて、これじゃあまるきり砂糖菓子だ。
二つ三つつまんだ朱実は、少し微笑っておじぎをしてから、また冊子へと目を落とした。
* * *
『金剛木実』
・ナッツ風味の金剛石の総称。狭義では、中でもアーモンドに似た金剛石のみを指す。
金剛石はわりあい『その気になりやすい』ので、職人が原料の鉱物を研磨してアーモンド形に整えてやると、それだけでアーモンドのような固さ、香り、味わいに変化する。
・より忠実にアーモンドの原型に近づけたいのなら、研磨した金剛木実をアーモンドの原木の枝々の上にのせてしばらく置いておく。鉱物がよりその気になって、十日も置いておけば本物のアーモンドとほとんど区別がつかなくなる。
ただし、あまり本物と瓜ふたつになってしまうと『鉱物を食す』という醍醐味も減じてしまうため、適当な期間※(長くても五日ていど)に留めておくのが良いだろう。
・アーモンドの他、カシューナッツやヘーゼルナッツ、ピスタチオに似たものなど種類は豊富。いずれも金剛石の『その気になりやすい』性質を利用したものである。
『鉱果焼菓子』
・色とりどりの食鉱物を上部にちりばめた、フルーツタルトの鉱物版。土台のタルト生地とクリーム部分は、人間の食するものを使用する。上に飾る食鉱物は、土台との兼ねあいを考えてごくごく柔らかなものを選ぶように。
・色合いとしては、桃色の桃果実鉱物がことのほか人気である。そのほか琥珀のたぐいも人気が高いが、虫入りのものははっきりと好みが分かれるので注意。見た目よりも味のほうを重んじるなら、是が非でも虫入りの琥珀を使うこと。
『桃果実鉱物』
・その名の通り、美しい桃色を有する鉱物。メープルシュガーをふりかけて一昼夜常温でおいておくと、本物の桃のような柔らかさになる。
そのままでふた晩置けばジュレ状に。三晩も置くとほとんどジュースになってしまうので、果実として食べたい場合は置き忘れに要注意。
・表面に残ったメープルシュガーの糖分を清潔な布で拭きとれば、そこで『熟成』はストップする。その特性をうまく活用するように。
・もちろん『生食』も美味しいが、砂糖水でくたくたと煮くたしてコンポートにすると格別。
また桃果実鉱物のざく切りをふんだんにあしらって、『桃牛乳冷菓』に仕立てても美味。とろとろの感触と優しい甘さがたまらない。暑い夏にぜひお試しを。
『琥珀蜜糖菓(アンバー・キャンディー』
・まずは琥珀を用意する(日に透かすと美味しそうなはちみつ色に照り輝く、ごく上等なものが良い)
琥珀に粉砂糖をふりかけて五分ほど置き、時間がきたらすぐさま表面の砂糖を取りのぞく。ここで時間が経ちすぎると、琥珀の含有する水分がどんどん粉砂糖に吸いとられていってしまう。注意されたし。
・粉砂糖で処理した後は、流水にひと晩さらしておく。
なお処理をあやまって水分の抜けすぎてしまった琥珀は、ここでどれほど水にさらしても回復しない。いくら流水で禊ごうと、しぼんだ琥珀のままである。粉砂糖での処理にはくれぐれも細心の注意を払うこと。
流水は水道水でも構わないが、水の綺麗な小川にでもさらしておければ完璧である。
・流水にさらした後は、きちんと水気を拭きとって硝子の瓶に入れてふたをしっかり閉めて保存する。ここで変に気をきかせて、冷暗所や冷凍庫になど入れぬこと。琥珀は寒がりなので凍えて不味くなってしまう。
直射日光の当たらぬ場所で(豪奢なレースのカーテン越しに日光のそそぐ場所が最適)常温で保存する。
・琥珀蜜糖菓は虫入りのほうが断然美味いが、見た目は少々グロテスク。
『琥珀が好き』という食鉱物人間の女性に、ムカデ入りの琥珀蜜糖菓をプレゼントし、それがきっかけで別れたというマーナの男性の逸話もある。
調理のときの粉砂糖のあしらいといい、琥珀蜜糖菓は女性のように繊細なもの。扱いには十分気をつけること。
『緑柱石茶』
・美しい緑色の鉱物、緑柱石を粉末状にしたもので、和国の『抹茶』と同じようにして飲用する。菓子の風味と色づけに使用することも。緑柱石茶のパウンドケーキやクッキーなどに。
抹茶に良く似ていながら、抹茶よりもきりっとした、一種のどを突っつくような刺激性の風味が人気。
・シンプルに茶として飲むと、『生姜紅茶の日本茶版』といった味わいに。そのため好き嫌いは分かれるが、その独特な風味には昔から根強いファンが多い。
* * *
ここまで読んで、朱実はふっと目を上げた。
気がつけば、アイスティーのグラスが空になっている。いや、正確に言えば『空』ではない。溶け残った水晶型の『氷』たちが、グラスの中できらきらと柔く甘く輝いている。レースのカーテンから洩れさす光を浴びながら。
その光景は美しかった。
うっとり魅入る朱実の前に、ビジュウはたんと音立てて違うグラスを置いてくれた。これも水晶の形をしたきらきらがみっしりで、液体の色は綺麗な緑色。
(……緑柱石茶?)
「どうぞどうぞご遠慮なく! 見てのとおり、こっちもきんきんのアイスティーだよ! あと、良かったらこれも!」
無邪気ににまにま笑いながら、少年の姿の生き物はつらっと小皿をさし出した。
皿の上にのっていたのは、琥珀色の飴のようだった。中に小さな羽虫の死骸が、きっちりと閉じこめられている。
少女はゆっくりと眉をひそめ、さすがにかすかに頭をふった。
「……いぃえ、遠慮しておくわ」
「あっはー、やっぱ無理? 美味しいんだけどなぁ!」
言いながらビジュウはひらっと飴をつまみ上げ、その桃色のくちびるへすっと優雅にさし入れた。からからと小気味良い音をさせ、さも美味そうに舐めしゃぶる。
にこにこっと微笑いかけられ、朱実はひきつった微笑を返し、また目録を読み始めた。
* * *
『翡翠鉱豆』
・球状で小粒の翡翠(色は鮮やかに緑が濃いものが良い)をころころと、淡い塩水で洗った後に水気を拭き取る。後は半日、日のあたらない窓辺で乾燥させる。たったこれだけで翡翠鉱豆が完成する。
・翡翠鉱豆を砂糖水で煮ふくめた後、そのまま乾燥させれば翡翠鉱豆の甘納豆の出来あがり。麺麭を作る際に適量混ぜこめば、翡翠の鉱豆麺麭の完成。
・あるいは砂糖水で甘味づけせず、生のままスープに薬味として入れる手もある。
もしくは翡翠鉱豆を牛乳と一緒にミキサーにかけ、小鍋で沸騰しないように温めて、コンソメで味をつければ翡翠鉱豆のポタージュが出来る。
食鉱物にしては珍しく、もともとの翡翠鉱豆は甘くないために作れるおかずスープ。
・いずれも若干の青臭さが残るため、好き嫌いの分かれる食鉱物。好きなひとは口をそろえて『あの爽やかな豆の風味がたまらない』とのたまうのだが。
ちなみにこの店の店主、ビジュティエも幼いころはあの青臭さが苦手だった。おとなになった今は翡翠鉱豆の独特の風味が大好きだ。
* * *
(おとな……?)
内心でつぶやいて顔を上げ、少女はつくづくビジュウの顔を見つめてしまう。
『?』マークが頭にひっついたような笑顔で小首をかしげられ、朱実は自分の思い違いに気がついた。
(あ、そっか。これを書いたのは名前が同じ、このひとのお父さんだっけ)
得心した朱実は繕うように微笑を浮かべ、また目録の続きを目で追った。
* * *
『苺水晶』
・まずは頃合いの大きさの苺色の水晶を用意。レモン汁を数滴ふりかけ、10分置いたら砂糖(使用する苺水晶の30%の重さ)を入れた鍋の中へ。コンロの熱で水晶が溶け、鮮やかな苺色のジュレ状になったら苺水晶のジャムの出来あがり。
・店主おすすめの食べ方
シンプルが一番。麺麭に塗りつけて、バターをのせてトースターへ。薄っすら焦げ目がつくまで焼いたら、苺水晶のジャムトーストの出来あがり。
同じく苺水晶のジャムを小皿に少々盛りつけ、紅茶を淹れてロシアンティーと洒落こめば幸せな朝食に。もちろん三時のおやつにしても。
『真珠乳』
・鍋に入れた真珠を少量の牛乳に浸し、木べらでころころと転がしながら温める。沸騰直前で火を止め、常温で冷ます。
あら熱がとれたら冷蔵庫へ。程よく冷えたら、これで真珠乳の完成。
・ほんのり甘く、食鉱物人間のあいだでは粉末状にして粉ミルク代わりにも使われる。『母乳より飲みっぷりが良い』との小話は誰が言い始めたものか。
今は小児用の真珠乳の会社CMにも使われるほどに有名な言葉。
・もちろんおとなでも飲用可。子どもからおとなまで楽しめる優しい味わいで、今現在は『真珠乳飴玉』なるものが若い女性にうけている。
これは真珠乳を作る際に溶け残った真珠を、核に使用したもの。核を包む膜に当たる部分にも、真珠乳がふんだんに使用されている。
あまりに可愛い真っ白な見た目と味わいに、男子は口にするのをはばかるような困った逸品。
今どきは男子用の休憩室で甘党の男子がひっそり集い、煙草の代わりにキャンディーを口に含む光景も多々見られるそうだ。
『黒曜珈琲石』
・用意するのは上質な黒曜石の塊に、豆から挽いた香り高い珈琲(イタリアンローストが最適)。
小鍋に黒曜石がひたひたにひたるくらいに珈琲を注ぎ、かすかに湯気の出るくらいまで温める。あとはそのまま冷ましておく。
そうして三時間ほど置いたら頃合いの大きさに突きくずし、適当な容器に入れて冷蔵庫へ。程よく冷えれば黒曜珈琲石の珈琲水菓子の完成。珈琲ミルクをかけていただく。
※(前述した真珠乳を使用しても美味しい)
・黒曜珈琲石のつやつやした断面をスプーンで崩しながら食べる。白いミルクがかかって黒光りする断面はうっとりするほど美しく、目にも美味しい。
・黒曜珈琲石を作る際に使用した珈琲ももちろん飲用可。ミルクを注いでカフェオレにしても。独特の香味がついて美味しい。
黒曜珈琲石の珈琲水菓子と一緒にいただいてもお洒落で美味しい。夏は珈琲もきんきんに冷やしていただこう。苦いのが苦手なお子さまは、水晶氷とミルク、それに真珠乳を存分に活用のこと。
『炭酸鉱石』
・青みの強い炭酸石を、海水ほどの辛さの塩水でざっくり洗う。和国のひとが米を研ぐような要領で。その後に大量のアップルミントで揉みこむように揉んでやり、ミントを除去してうちわであおいで十五分。これで完成。
ちなみに使用するミントは乾燥したものでも良いが、生葉を使うのが理想。
・食鉱物の中でも比較的安価で、気軽に使える鉱物菓子。そのまま食べても構わないが、かなり炭酸がきついので好みは分かれる。
・炭酸水にしたてるのがもっともポピュラーな使い方。
グラスに入れた天然水の中に二三粒放りこむと良い。五分も経つと炭酸鉱石の深青が溶け出し、鉱石から滲み出た炭酸で美味しい炭酸鉱水が出来あがる。
・食鉱物人間にとっては暑い夏の定番の飲み物。作る際に水晶氷をたっぷりとあしらい、きんきんに冷やして飲むとたまらなく美味い。
色つきの水晶氷をあしらうのもおすすめ。苺水晶をもちいれば色が混じって鮮やかな紫の、黄水晶を使えば美しい緑色の炭酸鉱水の出来あがり。
・作る際に蒼綺石を数粒落とし込んでも。深青がなおなお濃くなるだけでなく蒼綺石のアルコール分が溶け出して美味しいおとなの飲み物に。子どもがうらやむ炭酸鉱梅酒。
『一口ちょうだい』とせまってくるお子さまをあしらいながら啜るとなお美味い。暑い夏場のおとなの特権。
* * *
ここまで読んで、朱実はふっと気がついた。
(あれ……あたし、お茶ももう飲みきっちゃった?)
のどの中に、ほんのりと生姜の香りが灯っている。目の前に置かれた二杯目の和国風アイスティーのグラスには、もう『氷』しか残っていない。
空になったグラスと差し違えに、ビジュウは朱実の前に三杯目のグラスを置いた。読み進めた冊子の内容を見透かすような表情をして、少年はにっかり笑いかけた。
「はい、青い炭酸水だよ! どうぞどうぞ、どんどん飲んで! 今年は猛暑だし、あっつい外から来たんだものね!」
そのちょっぴり試すような、うかがうような、そしていささか悪戯っ気の混じった表情。その表情を見つめた時に、朱実はようやく確信した。
分かった。
この青い炭酸水は……。
内心でつぶやいた少女は、挑むように青いグラスを受けとった。そうしてふたたび、水晶の形の『氷』の浮いたグラスへ口をつけた。
しゅわしゅわしゅわ、気持ち良い刺激が舌先を洗い、のどを弾かして腹の中へと流れていった。
一気に炭酸水をあおった朱実は、にっこり笑ってまた冊子へと意識を向けた。視界のはしで、ビジュウ少年がちょっとばかり驚いているようだった。
* * *
『黄水晶栗』
・黄水晶を水晶氷にするのではなく、栗のような甘みとほくほく感を持つ食鉱物に変えたもの。
作り方はごくごく簡単。まず黄水晶の表面に塩をふり、五分間置いておく。一度水気を拭き取ってから、今度は砂糖をまぶして五分間。今一度清潔な布で表面を磨くように拭きとって、ベースは完成。
・ベースの黄水晶栗をもち米と一緒に炊き込めば、食鉱物の栗ごはんが炊きあがる。ほくほく感と自然な甘みもさることながら、透き通る黄色が目にも美味しい。黄水晶栗に旬はないが、あえて秋に食べたい一品。
・黄水晶栗を三時のおともにしたいなら、まず砂糖水を小鍋に入れて熱す(グラニュー糖を使用すること。和風にしたいのなら『和三盆糖』を使うべし)。
十分に温まったら(もちろん焦がすのはNG!)鍋に黄水晶栗をごろごろ投入。鉱栗全体に砂糖水が絡んだら、火を止めて手早く鉱栗をころころ動かす。全体に砂糖がまわって固まって、いわゆる『砂糖まぶし』の状態に。
これで『黄水晶栗の砂糖栗菓子(簡易版)』の完成である。干したりなんだりと手間のかかる砂糖栗菓子とくらべても、その美味しさには遜色なし。
ごくごく簡単に出来るので、ぜひ一度お試し願いたい。
『紅玉焼菓子』
・まずは手のひらでやっと包めるほどの、ごく大ぶりな紅玉を用意する。それに刷毛で濃い目の林檎酒をたっぷりと塗りつけ、冷蔵庫で半日保管。その後とり出し、常温に戻すと生の林檎ほどの柔らかさになる。
・林檎のようになった紅玉の『芯』にあたる部分をフルーツナイフでくり抜いて、中にバターと砂糖を詰める。くり抜いた紅玉の『芯』がもったいないなら、そのまま食べてしまっても良い。ただし塗りつけた酒の気が強いので、子どもは食べてはいけない。
・『芯』をくり抜き、詰めものをした紅玉をオーブンでじっくりと焼き上げれば、ほかほかの紅玉焼菓子の完成である。
甘いアルコールの香る、目にも美味しいおとなのお菓子。紅玉の熟成に使用した林檎酒をグラスに注ぎ、酒の肴として共に食べるのも粋である。
・ちなみに紅玉に塗りつけるのを林檎酒から100%の林檎飲菓に変えてやれば、子どもでも口に出来る美味しいお菓子に早変わり。小さなお子さまのいるご家庭でも、家族みんなで楽しめる。
季節感を尊重し、旬のない食鉱物なれど秋の夜長にぜひどうぞ。
『乾燥鉱果』
・柘榴紅石、金剛木実、桃果実鉱物、黄水晶栗など果実系の食鉱物を乾燥させたものの総称。
通常でもこれらは作られてから一年はもつが、天日干しで程よく乾燥させれば、保存が良いと十年はもつ。風味も増し、食感は若干ざらついてくるものの『生』の鉱物果実とは一味違う珍味となる。
・この乾燥鉱果をふんだんに混ぜこんでパウンドケーキに仕立てると、甘い香りと複雑な風味の楽しめる逸品になる。混ぜこむ前に糖酒を少しふりかけておくと、また格別。
ただしもちろんのこと、子どもには食べられない。また仮に食べても美味しさはいまいち理解しきれぬだろう。地味ながら滋味深い、真夜中にワインとたしなみたいおとなのお菓子。
* * *
ふわっと、突然酒が香った。
ちょっと驚いて目を上げると、眼前にドライフルーツのパウンドケーキが置いてあった。ビジュウ少年がうかがうように、紅い目でこちらを見つめてくる。
「……お酒は無理かな?」
「『お酒は弱いの?』ってこと? それとも年齢的に? 大丈夫、これでも二十歳過ぎなのよ」
さらりと返した少女は――いや、『少女のような大人の女性』は、何でもない顔をして糖酒の香るケーキを食べた。
意外そうにそれを見ていた少年は、ふっと顔を近づけて冊子の言葉をのぞきこんだ。
「あ、けっこう進んだね! 今どこ読んでる?」
「……ちょうど『乾燥鉱果』を読み終えたところ……」
「あぁ、そうなの? じゃあ最後のほう気合入れて読んでね! しまいが一番大事だから!」
ぐっと力を込めて宣言され、朱実は気を呑まれてうなずいた。目録の最後の項目は、『美鉱毒物』という言葉だった。
* * *
『美鉱毒物』
・人間たちがよく使う、食鉱物の異称。食鉱物は人間でも口に出来るが、口にするたび体内に微毒が蓄積されてゆくので、こう呼ばれる。
鉱物は人間にとってはやはり異物。食鉱物を口にするごと、人間は体の内側から少しずつ石化してゆき、それでも食べ続けていると最終的には『宝石の剥製』のような見た目になって死に至る。
・神話に手が届くほどの大昔、食鉱物人間の悪王が『宝石の剥製』の美に魅せられ、人間の奴隷を買い上げては美鉱毒物を摂取させ、とりどりの屍体で王宮を飾り立て目を楽しませていたという。
・死ぬまぎわ、美鉱毒物は毒に麻痺した人間に『甘い悪夢』のような幻覚を見せるという。例えばそれが『あなた』だったなら、あなたは死ぬ時こんな幻覚を見ることになる。
それは恋人が永遠の愛を誓うために、目の前でおのれの胸にナイフを突き立て生肝を抉り出したりする幻覚。
あるいはあなた一人を救うために、全世界の同胞が一人残らず真っ黒な血を吐き出して、のたうち回り息絶える幻覚。
もしくは万能の神があなたに恋をして、その恋の叶わぬためにあなた以外の全てのものを滅ぼし尽くし、その上神まで焦がれ死にに滅びる幻覚。
・美鉱毒物の質が高ければ高いほど、そうして美味ければうまいほど、その幻覚は吐くほどに『甘く』なるという。そうして幻覚の吐くほどに甘いほど、屍体は美しくなるという。
・昨今では、『食鉱物』ならぬ『美鉱毒物』を求めて専門店を訪れる人間も増えているという。今や人間のあいだでは、食鉱物の専門店は『自殺幇助の店』として認識されているらしい。
※終わりに
さあ、ここまでお読みになられたあなた。
あなたは人間ですか?
・はい→ もし人間でいらっしゃるなら、ぜひ最後の一文字までもお読みください。
・いいえ→ あなたは食鉱物人間なのですね。いらっしゃいませ。目録と名はつけど、この冊子に記載のあるのは、全商品のごく一部に過ぎません。
『食職人』のビジュティエが、お望みの食鉱物をご提供いたします。何なりとお好みの食鉱物をおっしゃってくださいませ。
それでは、長文乱文まことに失礼いたしました。
さて、人間でいらっしゃるそこのあなた。
人間でいながらここに来たということは、目録の最後の項目『美鉱毒物』のこともご存知なのですね?
それでもあなたはこの『食鉱専門店』にいらっしゃった。何故です? 何故に鉱物になりたいのです?
その人生に絶望した? こんな生命に価値はないと? 死に際がどれだけ苦しかろうと構わない? 『最期のさいごに、せめて美しく死にたい』と?
ではまず、水晶氷を浮かべていないアイスティーで乾杯を。冷たい紅茶で頭を冷やして、とにかくわたしに話してください。
何を悩んでいるのです?
何があなたを、そこまでの絶望に追いこんだのですか?
きっと力になれるはずです。このわたしに話してください。
それでは改めて自己紹介を。
わたしは『食職人』の称号を持つカウンセラー、ビジュティエ=ビスタと申します。
ようこそ悩める子羊さん。
人間の自殺幇助店を装った、クリニック『食鉱専門店』へ。《完》
* * *
全てを読み終えた朱実は、はしばみ色の目を上げた。
冊子を閉じると、ビジュウ少年がにこにこっと微笑ってくれた。ふわっと優しく柔らかく、それでいて何かに毅然と挑むような表情だ。
「改めてようこそ、お姉さん! あなたは人間なんでしょう?」
「……ええ。」
「じゃあお客さんじゃなくて、患者さんだね! にしてもよっぽど死にたいんだね、平気な顔して『食鉱物』を食べきっちゃうなんて!」
くすくすと悪戯っぽく微笑う少年に、朱実は黙って薄く苦笑した。少年はその笑みの中身に気づかず、嬉しげに種を明かしてゆく。
「これね、ほんとは食鉱物じゃないんだよ! 『炭酸鉱水』はふつうのミントの炭酸水だし、『水晶氷』もただの綺麗な形の氷! 『砂漠・薔薇』はそのまんま花の形の落雁だよ! みんなイミテーション、毒じゃないよ?」
ころころと嬉しげに笑いながら、ビジュウはぴっと人さし指を天に突き立て口を開いた。
「ちなみにね、パウンドケーキの『糖酒』も嘘んこ! っぽい香料を混ぜただけ! お姉さん、きっと精神科に通ってるでしょ? 向精神薬とお酒は飲み合わせ悪いからねぇ!」
幼い口もとへ手をやって、ビジュウは悪びれもせず言葉をつむぐ。
「あのね、そうして嘘ついたのはね、お姉さんの『覚悟』が見たかったの! どんだけ死にたがってるか、どんだけ人生に絶望してるか……もう分かったよ、『食鉱物』と思いながらもほとんど全部口にしちゃう、その絶望の深さがね」
くす、と朱実が少し微笑った。左手首のリストバンドに手をやりながら、ゆっくりゆっくり首をふる。紅茶色の長い髪が揺れて、ふさふさかすかに音を立てた。
「違うのよ。まあ『どっちでも良いや』と思いながら口にしたけど、今はそれほど死にたいわけじゃない。悪戯っぽいあなたの表情を見ていたら『これ食鉱物じゃないんだなあ』って、なんかとちゅうで分かっちゃったし」
微笑みながらの告白に、ビジュウがちょっと拍子抜けの顔をした。意気ごみの持って行き場を失った風に、口ごもりながら問いかけた。
「……じゃあ、何でこの店に来たの?」
すっとそのまま答えかけ、朱実は少しためらいがちに問い返した。
「……あたしの話、まずはひととおり聞いてくれる?」
「え? うん! 聞くのは得意!」
ビジュウの表情が、幼いながらもいっぱしのカウンセラーの顔になる。鼻の穴をぷくっと可愛くふくらませて椅子に座る少年に、朱実は片手をあげてうかがった。
「あ、その前に……お手洗いお借りしても構わない?」
正直三杯ものもてなしを受けて、おなかの中はぱんぱんだ。
赤い目をぱっちり見開いたビジュウが、微笑って『どうぞ』とうながした。
* * *
お手洗いから帰ってきて、朱実はぽつぽつ話しだした。
朱実とビジュウの眼前に、魔法の解けた淹れたての『アイスティー』が置かれている。ちょびちょびとそれに口をつけながら、『少女に見える大人の女性』は、こんな打ち明け話をした。
精神科のときのくせが出たのか、自然とていねい語になっている。
「あたし、今まで上手く生きれたためしがないんです。小学生のころはわがままな友だちに振り回されて、中学生ではクラス全員にいじめられて……。高校生ではそれはなかったんですけど、いまいちうまく馴染めなくて……自分でじぶんを傷つけるのは、高校のときに覚えました」
言いながら、朱実はぐっとパフスリーブをまくり上げた。
袖つきの服を着ればちゃんと隠れる位置を狙って、薄いうすい切り傷の痕がどっさりついていた。ビジュウは静かにうなずいて、柔らかく話の続きをうながした。
「その後、なんとか大学に合格して……あたしにしては珍しく、友だちも五人ほど出来ました。そうしたら友だちの中のひとりに、『猫の耳を切った』とか平気で話す子がいまして……」
「……負担だった?」
「はい。あたし自身、自分のことを『ろくな生き物じゃない』とは思っていますけど、生き物をわざと害するなんて、とんでもないと思いますから」
ふぅう、と大きく息をつき、朱実は続きの言葉をつむいだ。
「それで、嫌だいやだと思いながらも何とか一年が過ぎまして……でも二年になりたてのころ、風邪がもとで一気にがっと調子を崩して、実家に戻ってしまいました」
アイスティーをあいまにひと口飲みこんで、朱実は言葉を重ねていく。ビジュウは何も言わず、じっと朱実を見つめている。
「きっと初めてバイト始めたとか、専攻の絡みで、特に仲の良かった友達と少し距離が開いたとか、さっき言った友達のこととか……いろいろが負担になったんだと思います」
ビジュウはかすかにうなずきながら、静かに話を聞いている。
『まずは聞くこと。聞くのが治療の第一歩。』
そう書かれている、うつ病に関する本を読んだことがある。パソコンに向かいっぱなしでもなく、自分の見解を患者の話そっちのけでとうとうと述べるわけでもない。
このひとは、たぶん『良いカウンセラー』で『良い医者』だ。
そう思いながら、朱実はふたたび口を開いた。
「そうして、実家のほうで『精神科に行ったほうが良いんじゃないか』って話になって……行きました。『うつ病』だとの診断でした。そうしてあるていど落ち着いたとき、言われたんです。『君はアスペルガーだ』って」
ビジュウが紅茶に伸ばしかけた手を止めて、ひとつゆっくりうなずいた。紅い瞳が、朱実の心の奥のおくを探るように、深いまなざしで見つめてくる。
朱実もふたたびアイスティーに手を伸ばし、ひと口ごくりと飲みくだした。ひやっと心地良い味と香りが、のどを通って過ぎていった。
「……読むのが恐くてあんまり調べてないんですけど、なんでも『言われたことしか出来ない』とか『いつものルーティンを離れたイレギュラーに弱い』とか……『誰かに話しかけるようなひとり言が多い』とか、全部ぜんぶ当てはまって……」
ふぅう、と大きく息をつき、朱実はぽとりと言葉を吐いた。
「……それで分かったんです。『わがままな友だち』とか『意地の悪いクラスメート』とか、全部周りが悪いことにして逃げてばっかりいたけど、結局あたしが悪いんだって。人間の出来そこないの、あたしが全部悪いんだって」
ビジュウは何ごとか言いかけて、黙ってかすかに首をふる。そのしぐさに気づかなかったふりをして、朱実はぽろぽろ言葉を吐いた。
「死にたくなりました。それまでも当たり前に思っていたけど、もっと死にたくなりました。手首を切ったけど、ためらって死にきれませんでした」
朱実がつっと、左手首のリストバンドに手をかける。『やっと薄くなりかけた』と言った風情の傷痕が、白く赤く、細い手首に浮いていた。
ビジュウはそっと手を伸ばし、その傷痕を撫ぜてやった。何も言わずにただ穏やかに微笑んで、相手の言葉の続きを待った。朱実はまたグラスへ手をかけ、ひと口飲みこみ口を開いた。
「それで、今度は毒で死のうと思いました。食鉱物のことは知っていたけど、高価でとても手を出せませんでした。それで、アーモンドの香りのする劇薬と、琥珀糖とを買いました。雰囲気だけでも味わって、さっぱり死んでいこうって……」
ビジュウは紅い目で朱実を見つめ、じっと続きを待っている。ビジュウの前のグラスの中で、水晶型のふつうの氷が、からんからん、と音を立てた。
「……それで、死ぬ前の味見にちょっと琥珀糖をかじってみて、思ったんです。『美味しい』って。久しぶりの感覚でした。その前の半年ほどは何を食べても、砂を噛んでるようでしたから」
きゅっとはしばみ色の目をまたたいて、朱実はくしゃくしゃな笑顔を見せた。
「涙が出ました。毒をふりかけるのも忘れて、ちまちま歯先でかじって食べました。そうしてなんだか、芯から分かってしまったんです。『ああ、あたしは病気に逃げてただけなんだ』って」
ぱちぱちせわしくまたたきながら、朱実は言葉をこぼしてゆく。ビジュウがやっと紅茶に口をつけながら、ふわりと柔く微笑ってみせた。
「今までみんな周りのせいにして逃げてた分を、全部『病気の自分』のせいにして逃げてただけだって。それで、琥珀糖のきらきらを見ているうちに思ったんです。あたしもこれを作ってみたい……って」
『あたしもこれを作ってみたい』。
この一言に全てをこめて、朱実はまっすぐ顔を上げた。
「その時の琥珀糖は小間物屋で買ったんですけど、ラベルにここのお店の名前が書いてありました。あたしはそれでこの店に来たんです」
すう、っと大きく息を吸い、朱実は拝むような声音でまっすぐ言葉を吐き出した。
「ビジュティエ=ビスタさん! あたしに琥珀糖の作り方を教えてください! あなたの弟子にしてください!!」
「……え? えぇ!? えぇえ~~っ!?」
赤目を見開いたビジュウ少年が、あわあわ手をふり立ち上がる。
「いやいやいや! 荷が重い! それってアレでしょ、『あたしも琥珀糖の美味しさと美しさで、ひとを救える人になりたい!』とかっていうアレなんでしょ!? いやいや無理むり!! カウンセリングのほうがよっぽどなんか気が楽……って言うとアレだけど! 無理~~っ!!」
「そこをなんとか! 師匠!!」
「し、『師匠』ぅ!? ダメだってば無理だってば~~っ!!」
鉱物と宝石だらけの店の中を、ビジュウと朱実はふたりでさんざ駆け回る。
しまいにビジュウが音を上げて、ふたたび椅子へと座りこんだ。つられて座った朱実を見つめ、観念した風にビジュウ少年が口を開いた。
「はぁ……じゃあしょうがない、教えるよ……でもね、無理はしないでよ? 嫌になったらやめても良いし。あと精神科にはちゃんと通うこと! お薬もちゃんと飲む! 分かった?」
ビジュウのぱきぱきとした勢いに、朱実が気を呑まれてうなずいた。少年は『うむ』と言いたげにこっくりうなずき返し、また言の葉を吐き出した。
「あと、もうひとつだけ言っておく」
ビジュウはぴっと白く細い人さし指を突き立てて、ぱっきりくっきり口を開いた。
「絶望するな。」
どこかで目にした言の葉に、朱実は少女のようにまたたいた。病気の特徴である『幼い顔』に顔を近づけ、今年で五十歳になる『少年』はにかっと微笑ってみせた。
「……なんてのは無理だろうけどね。今でも『死にたい』と『生きたい』のあいだで精神はふらふらしてるんでしょう? また死にたくなっちゃったら、ちゃんとボクに教えてね。その時はカウンセラーに戻るから! 精神科とボクとのダブルパンチで癒すから!」
少年の姿の不思議なふしぎな生き物は、そう宣言して手を伸ばす。その手に右手を重ねながら、朱実は泣き出しそうに微笑んだ。
店の奥のキッチンの入り口で、朱実はちょっと立ち止まった。
綺麗な場所だ。鉱物と宝石と、食べられる鉱物とお菓子の店。手をほどかれた少年が、ふっとふり向き手招くようにうながした。
「ねぇ、どうしたの? 早くおいでよ!」
「……はい! 師匠!」
「し、師匠はやめてよ~! せめて『さん』付け~!」
「はい! ビジュウさん師匠!」
「ってそれ全然変わってないよ~!」
朱実は緩く微笑みながら、『ボーダーライン』の向こう側を甘く見つめた。
今まで踏み越えてしまっていたのは、死に魅かれる危うく痛いボーダーライン。
今だって、精神科には通いづめだけど。お酒は医者に止められてるのに、『お酒入り』のパウンドケーキをまるまる一切れ食べちゃったけど。
もう違う。昨日までとは、今までとは、ちょっと何かが違っている。そう、今日からはもっときらきらした、素敵な世界のボーダーラインを踏み越える。
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朱実はそうして、『人間合格』への第一歩を踏み出した。《終》