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天使の仮面(ペルソナ)

作者: 斑目 夏実

 眠れない夜に何を思うのだろうか。窓を開けて夜空を見上げると星が輝いていた。そういえば昔はよく星を眺めていたなと。星の名前なんて全然わからなかったけどキラキラ輝いている星を見ては独り言が多かった。星に願いをじゃないけど必ずいつかは願いは叶うと思っていた。

 私はまだハタチでこの春、短大を卒業したばかり。立派な社会人とまではいかないけれど、仕事は一通り覚えたはず。でも、なんとかやっていけると思っていた。そう、一週間前までは……。

 親の紹介でお見合いする羽目になったのである。若いときに結婚や出産をすましておけば後々楽になるわよ。という言葉に翻弄されて明日、お見合いすることに。相手はエリートサラリーマンらしい。どうせメガネかけたいかにもインテリだという感じなのだろう。

「あ~あ。私の未来は明日決まっちゃうのかなあ」

と星に向かって呟いてみた。当然返事などあるはずもなく、窓を閉めた。

 ベッドに横になり、いろいろと考えてしまった。仕事はどうするの? やっぱ辞めるの? でも今は不況だし。かといって相手に甘えるわけにもいかないし。そういえば相手の年齢を聞いてなかった。向こうは私の成人式の写真を見ている。でも、私は写真すら見ていない始末。母親しか見ていない。優しい人なら安心するけど。父親みたいな頑固オヤジはごめんだね。ハタチで結婚かぁ。周囲は驚くだろうなぁ。せっかく就職活動頑張って内定をもらったのになぁ。ま、仕事のことは後回しにすればいいか。もしかしたら続けるかもしれないし。

 気づいたら、朝になっていた。いつの間に私、寝ちゃったんだろう。お見合いはお昼だったよね。そろそろ起きてもいいかな。ベッドから起き上がり、ウ~ンと背伸びをする。これは私の毎日の日課でもある。ルームウェアに着替えて下へ降りた。

 シーンとしていた。え? お見合いって今日だよね? だって昨日あれだけ母親が、

「寝坊しないように気をつけなさいよ!」

と私に何度も言ったのに。当の本人はまだ眠りこけているわけだ。面白いから、ギリギリまで寝かせておこう。

 私は久しぶりにトーストを食べた。すると、父親が台所のドアを開けた。

「珍しいな。どこかに出かけるのか?」

「あれ、聞いてないの? 私、今日お見合いだよ」

「お見合いだと? 誰とだ?」

「お母さんの知り合いの人と。あ、でもお父さん安心してよ。お母さんと一緒に行くわけだからさ」

「お前もついにこの家を出て行くんだな」

とボソっと呟いた。

「いや、だからまだ正式に決まってないから!」

そこへガタガタと音を立てて母親が入ってきた。

「どうして起こしてくれなかったの!」

「お母さん昨日あれだけ私にキツク言っておきながら自分はスヤスヤ寝ていたからちょっとね。まぁ、ギリギリまで寝かせておこうと思ったんだし。今なら十分間に合うからいいじゃないの」

「そういう問題じゃないでしょ。こんな大事な日に朝から大慌てするなんて。真奈美はいいわよね。掃除も洗濯も何もしないんだから。結婚が決まったら、家事手伝い徹底的にしなさいよ」

「は~い」

と私は皿を洗い自分の部屋に戻った。

 そうだ、私の自己紹介していなかったね。大石(おおいし)真奈美(まなみ)

 今年初めにまだ成人式したばかりのハタチ。兄弟姉妹はいなくて一人っ子。当然、婿養子? となるはずだけど、親は別に問題ないからいいらしい。大手のアパレルメーカーに勤めている。別に、ファッションなんて興味ないのよね。ただ単に就職先が全然見つからなかったから落ち着いたわけで。

 両親は、父親は図書館勤め。母は専業主婦。母は、私が物心ついた頃には、いろんな市民講座で趣味を広げているらしい。で、今回のお見合い話も趣味の講座のお友達からだそうだ。

 さてと、出かける準備でもしようかな。カバンはあれでいこうかな。服は前からこれって決めていたのよね。堅苦しくないお見合いだから、振袖着なくてもいいらしい。めっちゃ嬉しいよね。あ、携帯のランプが光ってる。誰かからメールかな。

 携帯電話を開けると、高校時代の友達からだった。今日、暇だったら遊ばない? というお誘いメールだった。お見合いの話は当分内緒にしていく方向だから、出かける用事があるからムリって返信しておいた。

「真奈美~出かけるけど準備はもういいの?」

と母の声が玄関から響き渡った。

 私は、携帯電話をマナーモードにして、カバンに入れてお見合い会場でもあるその人の自宅まで行くことになった。

「ねえ、お母さん。どこまで行くの?」

「車で二十分くらいかしらね」

「そういえば私、相手の人の年齢とか全く知らないんだけどいいの?」

「あれ? 言ってなかったっけ? 歳は二十六歳の公務員よ。お父さんと同じ職業だから大丈夫よ。下に弟さんがいてね。その弟さんは、あんたより一つ上よ」

「私と六歳違いかあ。お母さんたちと同じなんだね。弟が私より上なの? なんか変なの」

「私も最初、弟さんとのお見合いかと思ったんだけどね」

「ふ~ん」

車の窓からあたりを見渡すと見知らぬ土地になった。

「ここよ、ここ」

「え? この家なの?」

なに、この大きな門構えは。しかも家が見えない。もしかして、私、玉の輿なの? と早々と思ってしまった。圧倒されて、母親が車から降りてきてインターホンを鳴らした。数分後、中からおばあさんらしき人が門を開けてくれた。


 大安吉日の晴れた日に一組のカップルが盛大に結婚式を挙げた。新郎は、二十六歳というまぁまぁの年齢だが、新婦は短大を卒業したばかりで四月に社会人の仲間入りをしたハタチ。必死に就職活動した新婦はわずか半年で寿退社した。

「真奈美、幸せになってね!」

と、口々に言う結婚式に招かれた親戚たち。


「浩樹さん、今日からよろしくお願いします」

 新婚旅行先のフランスのホテルにいた。

「こちらこそよろしくね。僕の実家に暮らすことに不満はない?」

 雨宮(あめみや)浩樹(ひろき)。二十六歳のエリートサラリーマン。身長もそこそこあり外見もそこそこで優しいのが取り柄だ。真奈美はこの優しさと大人の男性に惹かれて結婚したのだ。

 浩樹さんは小さい頃に母親を亡くし父親に育てられた。浩樹さんの実家は大きな家でそこで暮らすことになっている。真奈美は小さい頃から大きな家に住むのが、理想だったので文句はなかった。

「真奈美、結婚式や飛行機の疲れが出ているから、先にお風呂に入ったほうがいいよ」

「うん、そうする。早めに上がるね。浩樹さんも疲れているだろうから」

「僕のことは気にしないで、ゆっくり疲れを取って」

 私は今夜が大切な初夜を迎えるにあたって念入りに体を洗っていた。実は、私と浩樹さんは健全な交際しかしていない。だから二人が結ばれるのはこの新婚旅行先だと思っていた。

ウキウキしながらバスローブに包まれた私。

その後、浩樹さんは言葉を交わすことなくお風呂へと入っていく。

 その間、私はベッドに横になり今日の結婚式のことを思い出していた。

 気がつくと部屋が真っ暗だった。

私は慌てて起きて時計を見た。夜中の三時らしい。隣のベッドには浩樹さんがスヤスヤと眠っていた。

 え? と思った。

 私、もしかしてあのまま寝ちゃったの? なんでこんな大切な日に眠るのよ!

 浩樹さん呆れ返って眠ったんだろうなぁ。時差ぼけで眠ってしまった。

 今から浩樹さんのベッドの中に入り込めはいいのかなあ?

とりあえず、私は浩樹さんのベッドに入り込んだ。だけど、ベッドの中にいるというのに浩樹さんは起きなかった。抱き付いてみたけど反応はなかった。

 やっぱり怒ってしまったのだろうか? 考え事をしながら私はまた深い眠りに陥ってしまっていたのである。


 翌朝、まぶしい光で目を覚ました。隣を見るとすでに浩樹さんの姿はなかった。起き上がるといい香りがした。

「真奈美、おはよう。よく眠れたみたいだね」

 浩樹さんは、すでに部屋で朝食を食べていた。

「浩樹さん……。その、昨日は……ごめんなさい」

「真奈美、何度か起こしたけど、すごく気持ちよく眠っていたからよっぽど疲れが出たんだろうなと思ったよ。朝になったら僕のベッドの中にいたからビックリしたけど」

「せっかくの二人きりなのに、私なんてバカなことを……」

「もういいから、着替えて一緒に朝食食べよう」

「怒ってないの? 浩樹さん……」

「別に昨日じゃなくても、まだここに滞在する日にちはあるから焦らなくても大丈夫だよ」

 そう言われると、私は急いで着替えて顔を洗ってから朝食を食べた。

 フランスなので日本食ではない。まだ起きたばかりなので、あまり食が進まなかった。

 ツアーで来ているのだが、ほぼ自由行動が多かった。

 私たちは、世界遺産巡りをした。私にとって海外旅行は初めての経験だった。フランス語も話せないし。英語はかろうじて理解ができる。もちろん浩樹さんもフランス語は話せなかったが、ある程度のことはしゃべれるようだった。

「食べたらどこに行く?」

「私、モンサンミッシェルに行きたいな。ずっと憧れだったの。初めての海外旅行で、しかも新婚旅行で嬉しい! 浩樹さんはフランスでよかったの?」

「僕は、学生時代の卒業旅行でオーストラリアに行っているからね。ヨーロッパも行きたいと思っていたしちょうどよかったよ」

「やっぱり、この歳で初の海外旅行ってどうなんだろう? 友達は小さい頃から海外によく行っているみたいだし……」

「まぁ、人それぞれなんじゃないの? あれ? 真奈美の携帯は海外でも使えるの?」

「うん。結婚する前に携帯ショップへ行って海外でも使えるプランに一時的にしてみたの。ランプがついている。誰だろう?」

 ワクワクしながら、メールの送信者を見て少し戸惑った。

『昨日は、兄貴とどうだった?』

「真奈美、真奈美、何か急な用事だったの?」

「えっ? あ、ううん。何でもない。お母さんから」

 私は返信することもなく、慌ててカバンの中にしまいこんだ。

 どうして? 私が浩樹さんと一緒にいることを知っているのに。わざと?

 私と浩樹さんの仲を裂こうとしているの? 分からない。

「私、出かける支度するね」

「じゃあ、僕はロビーに行って新聞でも読んでくるよ」

「え? フランスなのに日本の新聞置いてあるの?」

「ここのホテルはあるみたい。僕は特に準備することないから」

「じゃあ、早く支度するね」

 浩樹さんが出て行ったのを確認した私は、遠く離れている日本へ電話した。

 支度をしながら、相手が出るのを待っていた。

「もしもし、真奈美? 連絡遅いんだよ。今、何時だと思っているの?」

「そっちこそ、メール送ってこないでよね」

「で、どうだったの?」

「何もしてないわよ。っていうか、私疲れちゃっていて勝手に寝ていたみたい」

「あ~あ、結婚初夜なのにそんなんで、大丈夫なわけ? 兄貴怒ってないの?」

晴樹(はるき)と違って、浩樹さんは優しいから」

「ふぅ~ん」

「私、これから浩樹さんと出かけるから電話切るね」

「また、連絡するよ。じゃあな」

 電話をしていた相手は、浩樹さんの弟の晴樹だ。浩樹さんと歳が少し離れているが、私より一つ年上なのでなんでも話し合える男友達のような関係だ。結婚が決まるまでも、とにかく真奈美は晴樹としゃべっていた。花嫁修業という名目で、毎週土日は、浩樹さんの家で家事などをこなしていたつもり。晴樹はまだ、大学生だったので学校に行きながらもコミュニケーションを頻繁にとっていた。それは、もう結婚するであろう浩樹さん以上に会話が弾んでいた。

 だが、私はこれまで誰とも付き合ったことがなかった。自分から告白することもなく単なる片思いのまま過ごしてきていたのだった。反対に相手から言い寄られることもなく、周囲も特に誰かと付き合っている友達がいなかった。なので、いきなりお見合い=結婚という形に決まってしまい、私自身もこのままでいいのだろうかと晴樹に相談をしていたのだった。晴樹には、大学のサークルで知り合った彼女がいるらしく、私自身も晴樹にどうやって付き合い始めたのかいろいろと聞きまくっていたのであった。

「やっぱさ、まずいと思うよ」

「え? そうなの?」

「合コンも行ったことがないの?」

「うん。誘われたことすらないよ」

「理想が高いんじゃないの?」

「別に普通だと思うけど……晴樹はさ、私のことどう見えてるの?」

「世間のこと何にも知らない、純粋な女の子」

「はぁ~」

「そんな深いため息つかないでくれよ。兄貴も知っているんだろ?」

「うん、一応話してあるよ。でも、浩樹さんは何も言わなかったけど」

「真奈美、目にゴミが付いてるから目を閉じて」

 言われた通りに、私は目をつぶった。

「真奈美、本当に何にも知らないんだな。男から目を閉じろって言われてそのまま言うこと聞かない方がいいよ」

「え? なんで?」

「キスするから」

 真奈美がビックリしている間に、晴樹はやれやれとこの先が大丈夫なのだろうかと思い悩んでいた。

「じゃあさ、晴樹が教えてよ。それならいいでしょ?」

「はぁ? 真奈美、友達いないの?」

「だって、私の周り、誰も付き合っていないんだもん。聞きようがないでしょ」

「雑誌にそういうこと書いてあるだろ」

「私、ファッション雑誌読んだことないよ」

「アパレルメーカーに勤めてるんだよな? ファッション雑誌を読んだことがないのに、よく就職できたな。毎週、真奈美と会っているけど服装はきちんとしているから、てっきりファッション雑誌を参考にしているんだろうなとは思っていたんだけど……」

「ファッション雑誌に興味ないし、就職決まるまでが厳しかったから、とりあえず内定もらえたから就職しただけだよ。ま、学校の就職課の先生が、大石さんはスーツ何着か持っているみたいだからって言われて受けただけで勘違いしているんだよね」

「運がいいのやら悪いのやら……。――そういえば、結婚するってこと会社には話してあるの?」

「それが、まだ言い出せなくて……困ってるんだよね。だって、半年で寿退社するんだよ。今までの就職活動はなんだったの? って自分でも思うし。このまま結婚しないことを選ぶこともできるわけだけど」

「好きな人でもいるの?」

「好きな人がいるのなら、このお見合い話断ってるよ」

「真奈美のことが好きな男が現れたら?」

「それって浩樹さんのこと?」

「兄貴以外でだよ」

「どうなんだろうねえ~。じゃあ、晴樹は? 晴樹は付き合っている彼女いるんでしょ。私も共学の大学に編入すればよかったのかなあ」

 このとき、私はまだ晴樹と恋愛するとは思ってもいなかった。私の中では、好きな人=結婚という形しか考えられなかった。浩樹さんのことはもちろん好きだったし、晴樹のことも私のことを唯一理解してくれる男友達だと思っていたし。

 私が晴樹に対して教えてよ~なんて言い出したものだから、歯車がかみ合わなくなったのかもしれない。週末になると、浩樹さんとデートすることはあるけれど、浩樹さんはもう立派な社会人である。私はまだ新入社員で覚えることがたくさん。その愚痴を不満もなく聞いていたのは浩樹さんではなく晴樹だった。浩樹さんたちのお義父さんと夕飯を食べてから家に帰るのが日課だった。

 たまたま、浩樹さんが会社を休日出勤しなくてはいけなくなり、予定だった遊園地もキャンセルになるはずだった。だけど、せっかくのチケットだし、期限も迫っていたので、晴樹が代わりに私とデートすることになった。もちろん、浩樹さんは了承してくれた。というより、その案を考えたのが浩樹さん本人だったから、私も晴樹もびっくりしていたのを覚えている。

「本当に兄貴いいの?」

「元々、遊園地に行こうと誘っていたのは僕の方だし、突然休日出勤することになってしまったから真奈美には悪いと思っているから。チケットを紙切れにするよりかは、僕の代わりに晴樹が真奈美と遊んでいた方が楽しそうだなと思ってね。二人とも、年齢が近いし話も合っているのは父さんも知っているから。真奈美には、後日埋め合わせすることに決まっているから」

「まあ、兄貴がそこまで言うのなら真奈美と遊びに行ってくるわ」

 そんなこんなで、遊園地当日。私にとっては、中学生以来の遊園地。晴樹にとっては、彼女と来て以来らしい。浩樹さんだと、どうしても緊張してしまうから晴樹が代わりに来てくれたことはとても嬉しかった。

「ねえ、彼女にはなんて話してあるの?」

「友達と遊びに行く」

「ウソついたんだ!」

「言えるわけないだろ。兄貴の彼女と遊びに行くだなんて」

「まぁ、それもそうか。じゃあ、今日はとことん遊んじゃおうよ」

「まるで子供だな」

「え? 何か言った?」

 私は、遊園地のパンフレットを見ながらすでに歩き出していた。コーヒーカップに、お化け屋敷、ゴーカート、ジェットコースターなどなど。休日だから、家族連れやカップルがほとんどだった。人気のある乗り物には多少待ち時間があったけれど、それも苦にはならなかった。

「最後は、観覧者だね。晴樹は高いところ大丈夫なの?」

「全然大丈夫。ってか、観覧者は……」

「なに?」

「いや、なんでもない」

 私はこのときは、何も気が付いていなかった。密室であることに。

 気が付いた時は、すでに観覧者は頂上付近にあった。それまで私は、観覧者からの眺めをじっと見ては、晴樹にずっと話しかけていた。

「ねえ、私の話、聞いてる、晴樹?」

と言ったときに、唇をふさがれた。それが何秒続いたのかわからなかった。突然のことで頭の中が真っ白になった私は、晴樹から離れた。

「真奈美があまりにもうるさいから。まさか初めてじゃないよな? だって兄貴と何回かデートしてるだろ」

「そりゃあ、デートはしているけど……も、もちろんキスだってしてるよ」

「兄貴には言うなよ」

「言えるわけないでしょ!」

 観覧者から降りた私たちは、自然と手を繋いで歩いていた。お土産を買ってから、遊園地を出て夕飯を帰る途中で食べてそれぞれの家に帰った。夕飯を食べている時も、いつものように会話が弾むことはなかった。晴樹も特に何も言わないし。でも、なんで? なんで私にキスなんてしてきたんだろう。だって、晴樹には彼女がいるじゃないか。彼女を裏切ってることでしょ。しかも、しまいには浩樹さんには言うなって。確かに、浩樹さんと何度かデートはしているけど、キスはまだ二回しかしたことがなかった。普通、好きでもない人とはキスしないよね。え? まさか……晴樹が私のことを好きってこと? いやいや、そんなはずはない。晴樹のことだ。どうせ面白半分でしたに決まっている。ま、犬にでもキスされたとでも思えばいいことだ。

 その後、晴樹と会っても晴樹はいつもと同じように接してくれてはいたけど、浩樹さんがいないところでは、やたらと私の手を握ってきた。私はなるべく、晴樹と二人きりにならないように行動をしていたがそれも束の間だった。

「なあ、真奈美。最近、俺のこと避けてない?」

「そんなことないよ。浩樹さんと結婚式の打ち合わせしてくるね」

「やっぱり避けてるだろ。そんなにも俺とのキスが嫌だったの?」

「だって、晴樹おかしいよ。私は浩樹さんと結婚するんだよ。晴樹は彼女がいるじゃない」

「俺に彼女がいなければいいわけ?」

「そういうこと言っているんじゃなくて!」

「仕方ないだろ、真奈美のこと好きになったんだから……」

「私も、晴樹のことは好きだけど……」

「じゃあ、兄貴との結婚やめてくれよ」

「そんなことできるわけないじゃない。わかってるでしょ」

「兄貴のこと好きなわけ? 俺とどっちが好き?」

「浩樹さんのこと好きだわよ。そうじゃなきゃ、デートなんてしないでしょ」

「真奈美は、親がそう決めたから兄貴のことを想っているだけだろ」

 晴樹は玄関の物音に気が付き、父親がリビングに入ってくるのを見た。私と晴樹は、いつもリビングにいた。浩樹さんがいる時も、リビングにいる。だけど、この日は晴樹の父親がいつもより早く帰ってきたため、私は晴樹に連れられ部屋に初めて入った。

「男の部屋入るの初めてなんだろ?」

「うん。でも、今日はもう帰るね」

 部屋を出ようとしたら、後ろから晴樹が抱きしめてきた。

「浩樹さんに見つかる」

「だからなに?」

「離してよ!」

 私は、部屋のドアを勢いよく開けて、晴樹から逃れた。玄関へ慌てて出て行くと、浩樹さんが外出先から戻ってきていたみたいだった。私は、浩樹さんの顔がまともに見れなくて、

「また今度連絡します」

 と、一言話しただけで雨宮家を出た。

 浩樹さんは、何事かと思い弟の晴樹に何があったのか聞いていた。

「今、真奈美が帰って行ったけど、何かあったの?」

「兄貴がなかなか帰ってこないから、ふくれて帰って行った……とでも言いたいところだけど。兄貴が追いかけても無駄だと思う。ほら、花嫁はよく結婚間近になるとマリッジブルーになるっていうやつだよ。だから俺たちには理解できないのかも。しばらくしたら、連絡してくるだろうし」

「マリッジブルーか……真奈美まだ若いもんな。俺は仕事が忙しくてあまり真奈美と話せる機会がないから、こうして晴樹が真奈美と仲良くなってくれるのは嬉しいよ。だから、結婚した後でも、真奈美の話し相手になってくれるとありがたい」

「俺だって、大学の講義があるしバイトだってある。そんなこと言うくらいなら、最初から真奈美と結婚するのをやめたら?」

「お前が俺の立場だったらどうする?」

「俺が兄貴の立場だったら、真奈美を幸せにして見せる自信があるね」


 確かに私は、あのキス以来晴樹を避けてきていた。だって、私は結婚する身なのよ。それも晴樹の兄である浩樹さんと。浩樹さんが私と晴樹の関係を知ってしまったら、この結婚話は破談になってしまうだろう。そうなったら、お互いの家族にも迷惑をかけてしまう。そんなのはみっともない。世間の恥だと言われるだろう。

 晴樹のことは好き。でも、恋愛感情を持っているとは考えたこともない。浩樹さんのことは本当に好きか? それは、なんとも……。あぁ、わからない。頭の中がグチャグチャだ。私は社会人になったばかり。で、浩樹さんも社会人。晴樹は、まだ大学生。晴樹を選んだらどうやって生活していくわけ?


 会社に出社すると、来月のイベントの準備で忙しかった。父の日である。アパレルメーカーで働いているわけだから、普通の季節とは少し早めに受発注業務をこなしていく毎日。しかし、母の日や父の日になると、どうしても忙しくなってしまう。得意先である会社の支店ごとにいくつ受注があるのか、毎日、段ボールに詰めてはの繰り返しでヘトヘトになって家へ帰宅する。会社の方にもそろそろ、結婚するということを報告しなくてはいけないのだが……うまくタイミングが合わず、今日まで至る。忙しいということは、私にとっては苦痛でもあるが、嫌なことを考えずに仕事に集中できるからありがたい。

 家に帰宅すると、母が料理をしていてくれて一緒に食べる。浩樹さんの家で一応、花嫁修業らしきことをしているが、当然母にはかなうはずもなく、家では母に甘えたままの私である。家が一番幸せなのかもしれないと、時々思うことがある。ハタチで結婚なんて昔の私では考えたこともなかったし、たぶんこのまま一生独身なのかなとも思っていたりもしていた。中学、高校、短大ともに好きな人はいたが、自分からアプローチすることもなく、また逆からアプローチされることもなかった。特に高校時代は、猛勉強していた。できるクラスとできないクラス分けをされていて、私のプライドが許せなかったので、中学時代、予習も復習もしていなかったのに、高校生になってからは自然と勉強することになり授業が楽しみだったりもしていた。

 仲のいい友達もいるが、私が結婚することは内緒にしている。なので、結婚式の招待状も送らないつもりでいる。友達とも、高校を卒業してからはほとんど会ってもいないし、連絡も取りあっていない。たまにメールのお誘いが来るけれど、土日はだいたい、浩樹さんの家に行っているし、仕事が忙しいからという理由で断っていた。

 結婚式は、九月を予定している。ジューンブライドの六月の方が幸せになるという話を聞くが、さすがにそこまでのスピード婚にするわけにもいかず、夏場は暑いということで、九月だったら比較的に涼しくもなりはじめているからということにした。

 次の休みの日に、母と一緒にウェディングドレス選びをした。浩樹さんは途中で合流してすんなりと決まったらしい。対して、私は、たくさんあるドレスの中からどれを選んだら似合うのか試着しては、母にチェックをされ、それはダメ、これもダメと、いったいいつになったら、決まるのだろうかというくらいに悩んだ。夕方くらいにとりあえず、無事に決まり披露宴で着る衣装替えのドレスもなんとか決まった。あとは、引き出物と、披露宴で流す音楽くらいかな。双方ともに、親戚と会社関係の人のみ招待することになっている。

 夏に近づくころに、ようやく招待状も出来上がり、会社の上司に報告と招待状を渡した。やはり二十歳で結婚するということに衝撃を受けていた。そして、そのまま寿退社することにも驚いていた。私としては、特に仕事を続けたいとも思っていないし、むしろその逆で好きでもない会社に入って、嫌々仕事をしていたので早く辞めたかったので、結婚という話が舞い込んできたときにこれしかないと思っていたのだった。


「今日は一段と暑いね~」

「まぁ、そうだな。アイスクリームでも食べる?」

「うん、食べる」

 忙しくなった時期を何とか乗り越えて、また雨宮家にいる。そして、隣には浩樹さんと晴樹。

「兄貴、アイスクリーム在庫なかったから買いに行ってくる」

「あ、晴樹。ちょうど振込する用事があるから、ついでに俺が買ってくるよ」

「兄貴のおごりでいい? 真奈美、何が食べたい?」

「う~ん、ソーダ味のでいいよ。浩樹さん、私も一緒に……」

「いいよ、真奈美。外はけっこう暑いから」

 また、晴樹と二人きりか。浩樹さんもなんとも思わないのかなあ。玄関で浩樹さんを見送ったら、突然大きい音が家の中に響いた。え? なに? 二階の晴樹の部屋に近づくとさらにボリュームがすごかった。ドアを叩いても、返事がないので、まさかこの暑さで倒れてる? と不安になりながらドアを開くと、そこにはヘッドフォンをしている晴樹の姿。どうやら、ヘッドフォンのコードがコンポの本体から抜けていることに晴樹は気が付いていないらしい。急いで私が、停止ボタンではなく電源をオフにした。晴樹はヘッドフォンを外しながら、

「なにしてるんだよ!」

「晴樹、近所迷惑だよ。ヘッドフォンしているけど、本体から外れてるよ」

「マジで? はぁ~」

「何か嫌なことでもあったの? いつもの晴樹らしくないじゃん」

「俺らしいってなんだよ!」

「晴樹はいつも、明るいし、私の相談相手にもなってくれているし……」

 何をイラついているのかわからないが、突然、晴樹は私をベッドへ押し倒してきた。

「なにするのよ!」

 と、晴樹をひっぱたこうとしたら、手首をつかまれた。

「真奈美、一度くらいいいだろ?」

「何意味の分からないこと言ってるのよ。この暑さで頭おかしくなったの?」

「頭おかしいのは、真奈美の方だろ。なんでなんだよ。なんで家に来るんだよ」

「だって、私は浩樹さんと結婚するからその花嫁修業的みたいな……」

「普通、結婚する相手の弟にキスされたらもう二度と家には来ないだろ。それに笑顔。お前のその笑顔を毎週見るたびに、俺はどうしても兄貴が羨ましいと思う。好きでもない男にその笑顔は反則だ。俺がお前のことを好きなことを知っているのに、どうして兄貴にも告げ口をしないんだ」

「晴樹、わかった。わかったから、ベッドから離れて」

「嫌だと言ったら?」

「その前に、浩樹さんが帰ってくる」

「兄貴には、追加で買い物を頼んだ。だから当分帰ってこない」

「帰ってこないから、何をするというの?」

「わかるだろ? まさかまだ兄貴ともしてないの? 兄貴も何を考えているんだか……」

「ちょ、ちょっと待って! 私に浩樹さんを裏切れということなの?」

「別に減るもんじゃないだろ。まさか兄貴も真奈美がまだ経験がないってこと知ってないんだろ? だったら、多少経験がないとこの先つらいだろうから」

「本気なの?」

「冗談で言えるわけないだろ。大丈夫だって。何も怖がることはない。優しくするから」

 私の返事を言う前に、晴樹は私の唇にキスをしてきた。前にしたキスとは違った。晴樹はTシャツを脱いだ。晴樹の体姿を見て、ほどよい筋肉質だということに見とれてしまっていた。

 どれくらいの時間を過ぎたのだろう。私の頭の中では、ほどよい快感と痛みと浩樹さんが帰ってこないかの心配だった。

「真奈美、すごくキレイだよ」

 晴樹の携帯電話が鳴りだした。でも、晴樹は携帯電話に出ようとはしなかった。そのうち、雨宮家の電話が鳴りだした。たぶん、電話の相手は浩樹さんだろう。でも、私もあえて言わなかった。おそらく私の携帯電話も鳴っているのだろう。

 気づいたら、晴樹に起こされていた。

「ビックリしたよ。途中で真奈美、意識なくなってたから」

「えぇ!」

 私は急いで、服を着た。時計を見ると、夕方の四時だった。浩樹さんはまだ帰ってきていないのだろうか。

「兄貴からメールが来ていて、事故があったらしくて帰るのが遅くなるって。でも、もうそろそろ帰ってくる頃かもな。じゃあ、俺はシャワーでも浴びてくるから」

 私のことを放っておいて自分はシャワー浴びるわけ? いったい、どういう神経しているんだか……。

 窓の外に目を向けると、ポツポツと雨が降り始めた。夕立だ。携帯電話を見ると、やはり浩樹さんからの着信があった。私はどうするべきなのだろうか。とうとう、晴樹と一線を越えてしまった。結婚する前なのに……浩樹さんがこのことを知ったらと思うと怖くて仕方がなかった。今頃になって、体の震えが出てきた。こんな状態で結婚して、しかもこの雨宮家で晴樹も一緒に住むことになっている。浩樹さんに二人で暮らすことを相談してみようか。

 車が雨宮家の前で停まっている。浩樹さんが帰ってきたんだ。傘を片手に持ち、玄関の扉を開けようとしたらすでに浩樹さんが立っていた。

「遅くなってごめんな、真奈美。大型トラックが回りきれなくて、そのまま車とぶつかったみたいで。Uターンするにもそんな幅がないし。目の前じゃなくて、少し先での事故だったから単なる渋滞だと思ってた。おまけに雨は降ってくるわで。アイスクリーム溶けているかも」

「あぁ、兄貴おかえり。ほら、バスタオル。早く拭かないと風邪ひくよ」

「晴樹、風呂でも入ってたのか?」

「兄貴がなかなか帰ってこないから、近くのコンビニでアイスクリーム買ってきたんだよ。その途中で雨に降られて」

 いきなり嘘をついている晴樹には驚いた。何事もなかったかのように振る舞っている晴樹が一瞬カッコよく思えたのは気のせいだろうか。

「真奈美どうかしたの?」

「え? いや、私こそごめんなさい。電話に出れなくて……」

「二人ともなかなか電話に出ないし、家の電話にかけてもなかなか出てくれないし何か事件でも起きたのかと思ったよ」

「真奈美がグーグー寝ている間に、俺が携帯持たずにコンビニへ出かけたせいだな」

 また、晴樹が嘘をついている。チラッと晴樹の顔を見ると、ウインクされた。

「もうじき雨も止みそうだし、今日は俺が真奈美を送っていくよ」

「いいよ、晴樹。一人で帰れるし」

「兄貴はゆっくりと風呂にでも入っているといいよ」

「それじゃあ、真奈美アイスクリームはまた今度な。気を付けて運転していけよ」

 こうして、晴樹の運転で家に帰ることになった私だが、車に乗り込むと晴樹が大きなため息をついていた。

「なんで嘘ばかり言ってるのよ」

「ああでもしないと兄貴に感づかれるだろ」

「コンビニなんて行ってないんでしょ?」

「行けるわけないじゃん」

「じゃあ、アイスクリームは?」

「元々、アイスクリームの在庫はあったんだよ」

「はぁ? それじゃ、わざと浩樹さんを家から追い出したわけ?」

「ま~そうなるかもな。そんなに怒るなよ。――で、どうだった?」

「なにが?」

「初めてエッチしたこと。痛かった? それとも気持ちよかった?」

「ま、それなりというか……そういう感じなのかなとしか……」

「大丈夫だって。兄貴とこれからするかもしれないから、その予行練習だと思っていれば別にいいんじゃないの。真奈美が下手に兄貴に俺たちのこと話したらそれでアウトだと思うけどさ。でも、俺にとっては、真奈美がすべてだから。それだけは忘れないで。たとえ、兄貴とダメになったとしても俺は真奈美のことを受け入れる覚悟はできている。――そんな顔するなよ。真奈美は笑っている方がかわいいんだから。それくらい、俺は真奈美のこと真剣だってことだよ」

「私は浩樹さんのこと裏切ることできないから」

 家の付近で晴樹は車を停めた。

「送ってくれてありがとう。でも、もう晴樹とはこれきりにしよう」

「じゃあ、別れのキスでもしてよ」

 これで最後だと思った私は、晴樹の言った通りに唇にキスをした。まさか、これ以上も浩樹さんに内緒で晴樹と何度か関係を持つとは思いもしなかった。それくらい、私の心はまだ子供だった。


 結婚式と披露宴、新婚旅行も無事に終わり、今日から浩樹さんの家で住むこととなった。結局、新婚旅行だったにもかかわらず、私は毎晩、時差ボケが治らなくてグ~すかと眠っていたのだった。日本に帰ってきたらきたらで、さらに時差ボケが激しくなり私の初めての海外旅行はあまりいい思い出ではなくなってしまったのだった。浩樹さんは特に何も言ってこないので、それはそれでなんとなく怖かった。婚姻届は、日本に帰ってきた翌日に提出した。

 晴樹は相変わらず、私と目が合うとニヤニヤしてきた。それにたいして、私は特に感情は表に出さないように気を付けていた。

 明日から仕事に行かなくてもいいんだと思うと嬉しくなった。だからといって、ダラダラと過ごしている毎日ではいけない。朝七時には起きるようにしているが、すでに浩樹さんのお義父さんと浩樹さんは台所で朝食の準備をしていた。

「すみません、明日からもっと早くに起きて準備します」

「いやいや、いいんだよ。私たちは、ずっとこういう生活に慣れているから」

 と、浩樹さんのお義父さんが優しく言う。その優しさの言葉が私にとっては痛かった。朝食を済ませ、浩樹さんたちが会社へ出かけ、洗濯をしようとしたら、すでに洗濯は終わっておりベランダに干されていた。なんということだ。私は仮にも、何か月か前からここに花嫁修業という名で通いながらも何一つできていないことに心が折れた。こんなことではいけない! と思い直した私は、掃除機で掃除をし始めた。掃除をしながら、明日からはきちんと早起きをしなくては! と自分で気合を入れた。そこに、晴樹が部屋から出てきた。そうだった。晴樹はまだ大学生だった。

「お昼から授業なの?」

「いいや。朝ご飯なに?」

「ご飯に味噌汁に焼き魚だけど……でも、私が作ってなくて……」

 ダイニングテーブルを見た晴樹が食べながら、

「ま、なんとなく想像できてたけど。無理して早起きしなくてもいいんじゃないの。別に花嫁修業したからと言って、最初から完璧な人間なんていないじゃんか。少しずつ慣れていけば体がそのように動くでしょ。それじゃ、学校行ってくるわ」

 と、あっという間に朝食を平らげて出かけて行った。

 掃除が終わると、すでに時計はお昼を回っていた。早いなあ。お昼はパンを食べながら、朝刊と折り込み広告をじっくりと読む。夕飯、何作ろうかな。新婚旅行が終わってから、冷蔵庫の中に何が入っているのかよく見ていなかった。

 近所のスーパーへ買い物に行き、夕飯はカレーライスを作ることにした。そんなに外も夏のような暑さもなくなっているし、最初は簡単なものから作ればいいかと思った。夕飯の準備に取りかかりつつ、合間をぬって洗濯物をしまいこみ畳んだ。遠くの方で会社の終業時刻のベルが鳴った。

 夕飯は、家族そろって食べることはあまりないそうだ。今までは家事当番などが決められており特にケンカすることもなく日々を過ごしてきたと浩樹さんは言う。九時ごろになってようやく浩樹さんが帰宅した。その前に、お義父さんも帰ってきており一足早く食べ終わっていた。私は、浩樹さんと一緒に夕飯を食べた。

「帰り、何時になるかわからないから気にしないで先に食べてていいよ」

「でも……」

「真奈美が来ていたのは、土日だけだったから家族全員そろっていることが多かったけど、平日は各自バラバラで過ごしているし。夕飯がいらない時だけは、連絡を取り合うくらいだから気にしないで」

 食事の片づけも終わり、残るは晴樹だ。いったい、何時に帰ってくるんだろう? 時計を見ると、十一時半を回っていた。

「真奈美、早くお風呂入った方がいいよ。晴樹は大学終わった後にバイトしているからいつも遅いよ」

 浩樹さんに言われつつ、お風呂に入った。あぁ。一日があっという間に終わってしまった。湯船の中でウトウトと寝てしまっていた。慌てて、お風呂から上がり体が完全にほてってしまって水をコップ二杯も飲んだ。寝室に入ると、すでに浩樹さんはベッドで横になっていた。浩樹さんは私のことをどう思っているのだろう。

 そんなこんなで、早くも秋の終わりに近づいた。私が思っていた結婚生活とはかなりかけ離れていた。このままで大丈夫なのだろうか。気軽に相談できる友達もいないし、実家に新婚早々泣きつくのは一人前になっていないという証でもあるから連絡はしていない。晴樹も大学とバイトの両立で忙しいのか、なかなか家の中でも話せる機会がなかった。土日は、彼女と会っていると浩樹さんが話していた。

「真奈美、そろそろ……」

 と、突然浩樹さんが抱きしめてきた。もしかして、これは――と思い、私も浩樹さんを抱きしめた。結婚してから一ヶ月、ようやく浩樹さんと結ばれることになった。私は嬉しさが顔に出てしまうため、ほとんど会話もなかった晴樹から、

「なんか、雰囲気変わったね」

「そう?」

「今日は、バイト休みだから早めに帰ってくるよ。朝はともかく、いつも一人で食べているのはつらいだろ?」

「最初はそうだったけど、今はもう慣れてきたよ」

「ふ~ん」

 晴樹にバレたかな? でも、久しぶりのちょっとの会話でも嬉しかった。新聞の折り込みチラシを見ていると、求人広告が目に付いた。そういえば、入社したと思ったらすぐに寿退社しちゃったから、あんまり会社というものが分からなかったなあ。家にずっといるのもなんか空気が重たいというかなんというか。しゃべり相手もいないから余計にそう思うんだろうけど。赤ちゃんでもできたら、なにか変わるのかなあ。私としては、女の子が欲しいな。そういえば、浩樹さんと子供の話あんまりしたことがないなあ。

「ただいま~」

「本当に早く帰ってきたんだね」

「兄貴と新婚らしい生活が送れなくて不満? これでも、しばらくは真奈美たちに気を遣って遅めのシフトで働いていたんだけどな」

「えぇ? そうだったの?」

「で、兄貴とはどうなの?」

「普通なのかな……ねえ、浩樹さんは子供好きなの?」

「まぁまぁじゃないのかな。なに、もしかして兄貴との赤ちゃんでもできたの?」

「ううん、ぜんぜん」

「なんだよ。期待もたせるなよ」

「は、晴樹はどうなの? 彼女もいることだし、いつごろ結婚する予定なの?」

「まだ、お互い大学生だし来年には、就職活動で忙しくなるしすれ違いが多くなるかも。世の中、不況だし」

「公務員になるんじゃないの?」

「兄貴たちと同じにしないでくれよ」

 怒ったような顔つきで、晴樹は自分の部屋に戻っていった。私も、公務員になろうかなと思ってた時期があったな。試しに模試試験を受けてみたがありえないほどの結果だったのですぐに諦めがついた。まじめに勉強をしていなかった私が悪いんだけどね。

 あ~あ、せっかく晴樹が早く帰ってくれたのに、つまんないの。それにしても、浩樹さん毎日帰りが遅いけど、公務員ってそんなに遅くまで仕事しているのかな。私の知り合いに公務員で働いている子がいるけど、毎日定時ですぐに帰宅していると聞いていたんだけどなあ。私との結婚が元々イヤだったのかな。新婚旅行でも何もなかったわけだし。私自身、綺麗でも何でもないしこんな私が早々と結婚しているのもある意味奇跡だよね。まぁ、周囲には内緒で結婚したわけだけど。別に堂々と結婚していますでもよかったんだけど、あまりにも早い結婚だから私としてもなんとなく友達にも言えなくて……。浩樹さんは、職場の人たちには報告しているのだろうか。う~ん。考えたって何も答えは浮かばない。お風呂でも入ってこようっと。そんなこんなで、あっという間に一週間が過ぎた。

 いつもと同じく、お風呂からすっきりした気分で出てきた私は、そのままベッドに横になった。はぁ~。眠い。どれくらい眠っていたのだろうか。気づくと、私に何度もキスをしてきた。当然、浩樹さんが仕事先から帰ってきたものだと思っていたから、自然と私も浩樹さんの体を抱きしめた。だけど、相手は浩樹さんではなかった。そのことに気が付いた私は、とっさにベッドのわきに置いてある電気をつけた。

「なんだよ」

 その声にハッとした。

「晴樹、なんでここにいるの?」

「部屋のドアを何度かノックしてみたけど、返事がなかったから」

「だからといって、部屋の電気まで消しておいてこんなことしていいと思っているの?」

「静かにしろ。さっき兄貴が帰ってきたばかりで、今お風呂に入っているところだから」

「どういう意味?」

「だからこういうこと」

 そういうと晴樹は手早く私のパジャマを脱がせた。浩樹さんがいるのに、どうして私は晴樹を拒むことができないんだろう。下の階には、浩樹さんがお風呂に入っていていつこの寝室に戻ってくるのかわからないのに。

「浩樹さんにバレるよ」

「大丈夫だ。ここは俺の部屋だから」

「そういう問題じゃないでしょ」


 ドアの閉まる音がして私は目が覚めた。どうやら眠ったらしい。朝日が部屋を射し込んできていた。

「真奈美、どうかしたの?」

 私はさらにビックリした。ベッドの横を見ると浩樹さんが寝ていたからだ。え? どういうこと? だって、私は晴樹と一緒に……。夢だったのだろうか。いや、違う。かすかに下腹部の痛みがあった。時計を見ると朝の五時半だった。朝食の準備をしなくてはいけない。ベッドから起き上がり、服に着替えていると、

「今日は土曜日だからそんなに早起きしなくてもいいんじゃない?」

 と、浩樹さんが私の腕を引っ張ってベッドに戻された。昨日の夜の出来事は、浩樹さんとだったのだろうか。キスをされてやっぱり違うと思った。浩樹さんのキスは、とても優しい感じがする。でも、晴樹はちょっと強引な感じでもある。浩樹さんに服を脱がされそうになりそこで私はなぜか拒否をしてしまった。違う。私は浩樹さんに対してものすごく残酷なことをしてしまっていることに気が付いた。私は結婚しているのに、どうして義理の弟の晴樹と関係を持ってしまったのだろうか。私が好きなのは、晴樹なんだ。結婚する前からもなんとなく違和感があったのは、本気で浩樹さんを好きになっていないこと。両家の言われるがままに結婚してしまった私と浩樹さん。浩樹さんとの思い出は……思い出せない。初めてのデートは? 浮かれ気分で何も覚えていない。晴樹とは? 楽しかった思い出ばかりが頭の脳裏を横切る。自然と涙が頬を伝った。

「真奈美、ごめん。いきなりだったよな」

「違う。浩樹さんのせいじゃない。私が悪いの。私が――」

 部屋から出た私は、しばらくトイレの中で泣いていた。涙が溢れんばかりに止まらなかった。ごめんなさい、浩樹さん。私は浩樹さんのことを利用していたのかもしれない。結婚する前に晴樹からもプロポーズされていたのに。どうして私は本当の気持ちを晴樹に伝えなかったのだろう。涙が納まりかけてきたころに今度はしゃっくりが出始めた。いい加減、トイレの中に閉じこもるのをやめよう。トイレのドアを開けると、床に座り込んでいる晴樹がいた。私は自然と、晴樹を抱きしめた。

「兄貴が心配していたよ」

 私は自分から晴樹にキスをしていた。自分でも信じられなかった。


 その後、浩樹さんは態度が変わることもなくいつもと同じように私と晴樹に接していた。浩樹さんは、私と晴樹の関係を知っているのだろうか。知っていたら、即離婚届を出されるだろう。でも、そんな様子は全然なかった。

 それに対して私と晴樹の関係も特に変わりはなかった。たまに、私が晴樹に抱きしめてもらい落ち着くまでの関係であり、体の関係はなくなった。


 私が妊娠していることに気が付いた時は、友達と久しぶりにランチをしている時だった。朝からなんとなく体調が悪いなあと思いながらも、久しぶりの外でのランチだったので、嬉しくて目の前に料理を出されたときに、吐き気を催した。その足で、病院へ行ったら、

「おめでとうございます。妊娠三ヶ月目ですね」

 と、笑顔で医者に言われた。

「あの、いつごろの――」

「もしかしてかしら」

 私は、医者に正直に話をして、詳しく検査をすることになった。結果を出されるまで、待合室で気が気ではなかった。妊娠することはおめでたい。それは当たり前のこと。でも、相手はどっち?

 名前を呼ばれて診察室へ入ると、

「大丈夫ですよ。旦那さんとの赤ちゃんですよ」

「先生、ありがとうございます」

 よかった。浩樹さんとの赤ちゃんだった。これで晴樹との赤ちゃんだったら、それこそ顔面蒼白いいや、離婚されるのを覚悟の上だった。とにかくよかった。

 家に帰る前に、近所のスーパーに寄りお祝いの鯛を買った。これで、両家の泥を塗ることにはならなくて安心した。

 夕飯を豪勢に振る舞い、みんなが帰ってくるのを待ち焦がれていた。珍しく、三人が一緒に帰宅した模様だった。

「どうしたの? こんなに豪華な食べ物」

「浩樹さん、私、赤ちゃんができたの。だから」

「ホントに?」

「ありがとう、真奈美さん」

「まだ男の子か、女の子かわかりませんけど」

「どちらでもいいよ。元気な赤ちゃんが生まれてきてくれれば助かるよ。晴樹、おまえオジサンになるな」

「うるさいな、そういう兄貴だってパパになるな。父さんはおじいちゃんになるな」

「さあさあ、早く食べようよ。お祝いだから、お酒でもいっとく? 真奈美は、ジュースだからな」

「わかってるわよ、そんなこと」

 久しぶりに夕食を家族そろって食べた。ただ一人だけ無理矢理作り笑いをしているのを私は見過ごさなかった。

 食事の片づけは、私には危険だからと言い放ち三人で仲良く洗い物などをしていた。その様子を私はリビングにあるソファーから眺めながら、本当によかったと笑顔が自然と出ていた。

「真奈美、兄貴との子供なの? それとも俺?」

 やっぱり言われるかと思った。私自身も不安だったからなんとなくその気持ちが分かる。

「大丈夫だよ。浩樹さんとの赤ちゃんだって。だから晴樹は心配しなくてもいいよ」

「本当にそうなのか? 医者がわざと伝えているんじゃないのか? それとも真奈美が嘘をついているんだろ?」

「もう、疑り深いなあ。私だって本当に疑ったよ。でも、きちんと調べたから晴樹は何も心配しなくてもいいよ。そんなにも不安なら、今みんなの目の前で言えるの? そんなことをしたらどうなるかわかっているんだよね。家族崩壊しちゃうんだよ。そんなのはイヤだわよ」

「わかったよ。真奈美がそこまで言うんだったら、本当なんだろうし。もし俺との子どもだったらこんなに盛大に祝うこともないだろうし」



 あれから、十年後。今、まさに私は悩んでいる。

恋愛の神様なんて本当にいるのだろうか? 私は、久しぶりに恋愛をした。

 ごく普通の会社で契約社員として働いているもうすぐ三十歳の女。気づけば会社の中の女の中では私ひとりだけが独身となった。私も普通に恋愛をして普通に結婚をしたいと思っている女の一人だ。でも、現実は甘くなかった。

 ハタチのときに、次々と縁談が舞い込み、まだ若いし結婚なんて考えられなかったし、そもそも忘れられない人がいたから結婚に踏み切ることができなかったのが原因なのかもしれない。その人をきっぱりと忘れ去っていたのなら、今更になって慌てて相手を探しているなんてことなんてなかったはずだ。彼氏と呼べれる人と付き合ったことがない。友達からの紹介で男の人を紹介されたけども、結局はダメになることが多かった。何が原因なのか自分でもよく分からない。だから余計に友達などからの紹介は自然となくなっていくのかもしれない。あともう一つ。理想が高いこと。妥協すればなんとかなる? と何度も思ったが、やっぱり私的にはムリだった。別に身長が高い人を要求しているわけじゃない。経済的に余裕のある人が一番いいが、今の世の中、景気も悪くどこもかしこもフリーターばかり。そんな私も昔はフリーターなんてなりたくない! と断固していたが、あるきっかけでフリーターの仲間入りしてしまった。そして、今の会社が唯一私の中で最高記録を出して働いているわけだ。辞めようと何度思ったことか。それでもなんとか続けているわけだから今の会社が私にはピッタリになるということになるのか。いいのか悪いのか良く分からない。今の会社で終わりにして結婚しようと考えていた。

 私には秘密がある。ハタチのときに縁談が舞い込んだのは最初に話したとおりだけど、実際にお見合いをして、付き合ってすぐにトントン拍子で結婚もして翌年には出産経験もしていることだ。私が結婚して出産していることは誰にも話していない。身内しか知らない。今年で九歳になる娘の陽奈(ひな)がいる。でも、陽奈が産まれた頃、私はちょうど育児ノイローゼで病気になった。数年後には離婚してしまった。ほとんど子育てをしていない。母か旦那であった雨宮浩樹さんに頼ってばかりだった。浩樹さんは、私より六歳年上のサラリーマンだった。浩樹さんはとっても優しくて、頼りになれる人。今でも普通に会ったりしている。嫌いだから離婚したわけじゃなく、私の病気があったのと、もう一つ問題があった。浩樹さんには弟の晴樹がいた。晴樹は私より一つ年上だった。だからこそ最初は、晴樹と結婚するものばかりだと思っていたが、話を聞いていると兄である浩樹さんとの結婚だった。晴樹とは、私が付き合った経験がないのをきっかけに急接近してしまったことは確かだ。そのときに、晴樹が元々私のことが好きだということを知った。だから本気で浩樹さんと結婚したときはかなり落ち込んだということも知った。そのとき、私はまだ離婚していなかった。浩樹さんの実家で晴樹とも一緒に暮らしていた。晴樹の気持ちを知ってからというもの、私はどうしても晴樹にべったりとしていた。晴樹はその当時、まだ大学生だったから余計に私のしゃべり相手にもなってくれた。陽奈の面倒もよく見てくれたしとても助かった。だから今でも、陽奈と晴樹は仲良し。陽奈はよく、晴樹が遊びに来ると、

「晴樹兄ちゃんが遊びに来たよ」

と、くったくのない笑顔で私によく言ってくれた。

浩樹さんは、仕事が忙しいせいか帰りが遅くなることが頻繁に多かった。だから目を盗んでは、けっこう晴樹と二人きりになることが多かった。すでに晴樹にはれっきとした彼女がいたが、大学でのサークルで知り合ったからかそんなに頻繁に会うことはなかったようにみえた。晴樹は彼女とは別れようとしたかったらしいが、彼女がなかなか返事をしてくれなかったせいで、私との関係も続けたかったらしい。晴樹と一線を越えたのは、実は浩樹さんと結婚する以前の頃だったと思う。私が、付き合った経験がないことをあらかじめ話しておいたので試しにと晴樹から言われ、手をつないで歩いてみたり腕を組んでみたりキスしたりもしていた。今思えば、晴樹の言いなりになっていたんだと思う。男の人と真剣に付き合ったことがなかった私にはどれもが新鮮に見えて普通の女の子はこれが当たり前なんだとちょっと浮かれモードだった。だから晴樹から今時経験のない女なんてドン引きだといわれことにショックを受け、晴樹の言われるがままに体を託してしまった。罪悪感はちょっとあったけど結婚するんだから何もできない女になるよりかはマシだと思い浩樹さんと結婚してしまった。離婚した後でも、ちょくちょく晴樹は私を外に出させようとして誘ってきたし、私も私で嫌いで離婚したわけじゃないので晴樹に会えるのはとても嬉しかったし楽しかった。陽奈の親権はもちろん、浩樹さんになった。私は病気だしとてもじゃないけど、育てられる自身もなかったからだ。だから陽奈に会う目的としてでも晴樹にも会っていたわけである。

 浩樹さんは、私と晴樹の関係についてやかましく言わなかった。最初は私も晴樹のことを拒んでいた。結婚している身だし、ましてや子供もいるわけだしと思っていたが、なんだかんだで私も晴樹のことを素直に受けいれてしまっていたのである。

 私が好きな人ができても、告白しようとしないのには、病気のこともあるしただ単に消極的で怖いから。自分が病気であることを好きな人には言えない。最近知ったことは、薬の影響で子供を出産できないことを知った。妊娠することはできるらしいが、やはり薬の影響で胎児になんらかの障害が出て五体満足に生まれてくるのは難しいということ。だから、結婚はおろそか彼氏すら作れないという悲惨な状況でもある。元々、私自身が赤ちゃん嫌いというのもあるので別にいいのだけど。いざ結婚となれば、相手の人にも申し訳ないし、相手の家族に対して病気持ちの人と結婚させたくないだろう。もし、これが立場逆転で私が普通の人で相手の人に何らかの障害があれば、私はイヤだから。受け止めてあげられない。だから諦めてしまう。自分がイヤと思うのなら相手なんてもっとイヤに決まっているのだから。そんなのはよくない。

 水野さんと出会ったのは、比較的私も精神的ストレスもない状態の頃だった。仕事も順調といえば順調だったし、家族関係(実家)はすでに壊れていて修復不可能な状態だったからどうでもよかった。

 どちらかというと好みのタイプであった。でも、別段、会ってもドキドキはしなかったし、いたって普通に接していた。晴樹や浩樹さんとも会いながら私はみるみる水野さんに惹かれていく一方だった。その頃、私は実家に住んでいなくて晴樹が借りたアパートに二人で暮らしていたのだった。晴樹とは結婚してもどうせ壊れる中だからその前に二人で一緒に暮らしてみたらどうなるのかを試してみたかった。晴樹はめちゃくちゃ喜んでいた。そんな私も晴樹との生活を楽しんでいた。でも、いつの間にか私は水野さんのことしか頭に浮かばなくなり仕事はおろそかにするわ、家事もまたおろそかにしてしまうことになったのである。陽奈が小学校に上がる頃までは私も一応母親らしく陽奈にいろいろと世話をしてきたつもりだった。それもいつの頃か、陽奈もどんどんと成長していく姿を見ると私は陽奈の本当の母親なのに何をしているんだろう? と自問自答してばかりだった。授業参観日にも出席せず、運動会にも出席せず何一つ母親らしいことはしていなかったことに今更ながらに気がついた。そのとき、すでに陽奈は小学校三年生だった。幼い陽奈が私のことをどう思っていたのか全然分からなかったし、陽奈も陽奈で何も訴えてはくれなかった。浩樹さんたちから私の病気のことを聴いていたのだろうか? たまに陽奈に会うと、

「ママ、大丈夫?」

とよく言われたものだった。

いつしか私は晴樹のアパートには帰らず、実家に入り浸っていた。久しぶりに晴樹や浩樹さんと違う恋愛をして楽しんでいたのに私は何もかも失った。当たり前だ。

たまたま都会のほうへ出かける用事があった私は一人、駅のターミナルでブラブラと歩いていた。するといきなり腕をつかまれて、

「何するのよ!」

と振り向きざまに言ってみたら、昔の付き合っていたようないなかったような男友達だった。

「久しぶりじゃん。休みなのに一人で買い物? それとも彼氏と待ち合わせ?」

「タクヤ……。ちょっと用事があって買い物に来ているだけよ。そっちこそ彼女と待ち合わせなの?」

「お願いだ! 彼女の振りしてくれ」

と両手で私を拝むかのように頼んできた。

私が返事をしようとしているのに、タクヤは強引に私の腕を引っ張って待ち合わせ場所で有名である時計台の下に無理矢理連れて行かれた。

そこには、信じられない光景が私の目に飛び込んできた。いくら視力の悪い私でも分かる。めがねはカバンの中にいつも持ち歩いているけど今日ははずしていた。

「ごめん。遅れちまって」

とタクヤが言う。

私はビックリして何も言えなかった。

「タクヤ先輩時間まだ間に合ってますから大丈夫ですよ。ね? 水野さん」

「あ、うん」

と水野さんは言った。だが、水野さんも私の突然の登場に驚いているのが見て分かった。

「真奈美、これから……」

とタクヤが言うのを私は遮った。

「タクヤ、ランチでも食べに行こうよ」

と私は言った。

「あ、それいいですね。私たちもお邪魔してもかまいませんか?」

「全然大丈夫ですよ」

と私はにっこり微笑みながら、タクヤの腕に自分の腕を絡ませた。

「真奈美、おいどうしたんだよ」

と小声でタクヤが耳元でささやく。

「お願いだから、タクヤ。今日今の時間だけ私に合わせて。私だってタクヤの彼女の振りしてあげるから」

「まさか真奈美、知り合いだとか?」

私が答える前にエレベータがレストラン街に着きお店を選ぶことにした。

落ち着きのあるパスタ屋さんに入ってみた。

私の隣にはもちろんタクヤ。私の向かい側には水野さん。そして水野さんの横に彼女? であってるのか? そういえばまだ自己紹介もしていなかったことに気がつき、料理が運んでくる前に自己紹介になった。

「俺は、星野(ほしの)タクヤ」

「私は、上川(かみかわ)エレナです」

「私は、大石真奈美です」

「俺は、水野(みずの)(まさ)(てる)

「え~っと、タクヤ先輩の彼女さんなんですよね?」

とエレナさんが言う。

私はどうにでもなれっという思いで、

「そうです。タクヤの彼女。かれこれ長い付き合いだよね、タクヤ?」

「うん。まぁそうだな。上川は最近彼氏できたのか?」

「そうなんです。付き合って半年くらいになります」

半年だと? 私は頭の中で計算してみた。私が水野さんに本命チョコを渡したのがバレンタインの日。え? 去年の十一月ごろから付き合っているのか? だったらなぜ渡したときに一言「彼女がいるから受け取れないし携帯交換もできない」と言わなかったのだろう。二週間ほど前に私はこの目の前にいる水野さんから完全に振られた。その三週間ほど前に私は、今度の休みの日に映画を一緒に観に行こうよって誘っていた。でも、元々、携帯交換してからというもの、私からメールをしても返事は来ないかスルーされるかのどちらかだった。そもそも誕生日を聞いても日にちを教えてくれなくておかしいなとは思ってはいたけどまさか二週間ほど前に彼女がいるから映画を一緒に観ることはできないけども、一緒に食事はできるという返事が来たのが最後だった。そもそも私の中で、彼女がいる人には興味がないので。いくら好きな相手にしろ彼女がいるのにも関わらず、彼女に内緒で食事をするのもどうかと思ってムカついて腹が立って携帯から全て削除したのだった。

水野さんとはそもそも会社内での社内恋愛だった。でも、今は違う支店にいるのでお互い気まずいまま日々を過ごすことはなく私にとってはありがたかった。だけど、振られた直後に元々体調が悪かった私は失恋の痛みでさらに体調が悪化したのだった。その痛手からようやく解放されたと思って久しぶりにこうして買い物に来たのに、なんでこういうときに限って会うのかなあ。

「へぇ~付き合って半年ねえ~。まだ初々しくていいわね」

と皮肉っぽく言ってみた。

そういえば、同じ支店のときメールはしないけど、電話のほうが長いとか言ってたなと思い出した。あの頃から彼女と頻繁に電話していたのか。なるほどね。

料理が運ばれてきて、私たちは食べることになり水野さん以外はけっこう盛り上がっていた。主にしゃべっていたのは、エレナさんと私だったけど。私は探りを入れるためにどっちから告白したの? や結婚する予定はあるの? とか聞いてみたりした。告白したのは、エレナさんからだった。エレナさんは私より二つ年下。

ランチを食べ終わり、お店を出て各自化粧室へ向かった。私は化粧直しだけですませ早々と化粧室から出たけど、エレナさんはトイレの列に並んでいた。

戻ろうかとしていた頃に、携帯電話がブーブー鳴り出した。家からなのかな? と思いカバンの中から携帯電話を取り出すと知らない電話番号からだった。でも、なんとなく出てみた。

「はい――」

「――あのさ……」

声を聴いてすぐに水野さんだと分かった。

「ランチじゃ何にも話してなかったよね。直接会っているんだから直接言いたいことがあれば話せば? なんでわざわざ電話してくるわけ? 彼女いるんでしょ。バレても知らないから」

「いや、そっちだって彼氏がいるんでしょ?」

「お互い様じゃないの? 水野さんだってずっと私に隠していたわけでしょ?」

携帯電話を片手に私は背後から水野さんに忍び寄った。声が近くなって気づいたせいか水野さんは後ろを振り返って私の顔を見た。と、同時に私は通話ボタンを切って微笑んだ。

「まさか電話してくるとは思いもしなかったわ。こうして直接会っているのも何かの縁かしらね。勘違いしないでくれる? タクヤは単なる昔の知り合いだけであって彼氏でもなんでもないから。それじゃあ私帰るね」

と私は、帰ろうとした。でも、腕を引っ張られた。

「なに? まだ何か用なの? こんなところあんな可愛い彼女に見られたらどうするつもりなの?」

それでも離そうとしない水野さん。

「私が何にも言わないおとなしい女だと思ったの? ま、確かにここで会ったのは偶然かもしれない。でも、連れられて来てまさか水野さんとその彼女を目の当たりにするとは思いもしなかったわ。水野さんがどういう態度で取るのか気になっていたし。彼女は知らないんでしょ? 私と水野さんが同じ会社で働いていること。今は違う支店だからどうでもいいけど。私、彼女に言ってもいいのかな。水野さんは彼女がいるのにも関わらず、私からの本命チョコを受け取った。それに加え、携帯電話の交換までしてきた。そもそも私がメッセージカードに友達から付き合ってくださいと書いたから水野さんにとっては好都合だと思った。で、おまけに私は社内のみんなには内緒にしてとお願いした。メールも苦手だというけど、普通、女の気持ち分かるよね? 私が水野さんのこと好きだったということも知っていたはずじゃないの?」

「友達と彼女は違うから、それで……。彼女がいることを先に言わなかったことは謝るよ。でも……」

「でも、何? 今更謝られても困るんだけどな。だったらどうして私がチョコを渡したときに彼女がいるから受け取れないって一言言ってくれなかったわけ? そうしたら私こんなに惨めになることもなかったのに。綺麗サッパリそのときに諦められたのに。彼女がいるのに、どうして一緒に食事なんて行けれるわけ? 彼女に悪いとは思いもしないの? 私、水野さんのこと見損なったわ。彼女そろそろ戻ってくるんじゃない? 痛いから手離してくれる?」

それでも離さない水野さんの手を私は無理矢理突き放した。

「それじゃあ。お互い違う支店だし会うこともないけど、もし会ったら普通に私は接するからね」

それだけ言うと私はエレベータに向かった。途中で彼女とすれ違い、

「あ、私これから用事があるので帰りますね。水野さんとお幸せに」

「え? 彼氏さんはどうするんですか?」

私は返事もしないまま一度も振り向かずエレベータに乗り込んだ。

エレベータに乗り込んだ私は自然とまた涙が頬を伝ってきた。これでいいんだ。これで決着がつけられた。言いたいことも言えたしスッキリした。

地上に降りると、タクヤが待っていた。

「元彼だったのか?」

「彼氏以前の問題で振られているから、その仕返し」

「相変わらず、真奈美は見かけによらず怖いよな」

「私を外見で判断する男が悪いんでしょ!」

こうして私は失恋の痛手を乗り越えたはず。

でも、この半年間ずっと水野さんのことでいっぱいで、晴樹や浩樹さんのことまで頭が回らなかった。失恋してから結局、また晴樹や浩樹さんを頼ってしまったのは事実だった。

「ごめんね、晴樹。せっかく二人で出直ししようとしたのに、勝手に私が家を出ちゃって。で、またこうして戻ってきちゃって」

「病気のことは話したのか?」

「言えるわけないでしょ。だって同じ職場だし噂好きの変人ばかりでどこから私の病気が漏れるか分からないでしょ」

「じゃあ、バツイチで子供がいることも内緒にしていたってことだよな?」

「当たり前でしょ!」

真剣な顔で私は晴樹に怒鳴った。

「相手も彼女いることを内緒にしていたのはずるいけど、おまえのほうこそひどすぎるんじゃないのか? まさか本気で結婚を考えようとしてたわけじゃないよな?」

私は何も言えなかった。確かに結婚してもう一度幸せになりたかった。

「兄貴と別れて、俺とならやり直せるかもって言っていたのは真奈美だろ? それなのに真奈美は、俺を選ばずそいつを選んだ。だからこれは神様の怒りじゃないのか?」

確かに都合がよすぎるよね。病気のことは話せていたにしろ、もし本当に結婚の話まで進んでいたのなら重大になる。なんたって、私はバツイチで子持ち。でも、陽奈は私が育ててない。だから自由といえば自由。離婚しているのだし、結婚したって別にかまわないじゃないのと思った。

「ねえ、晴樹。このこと浩樹さんは知っているの?」

「兄貴は知っているようで知らないのかもな。兄貴、俺たちの事だって何も口出ししなかったじゃないか。真奈美はどうするつもりなんだ? 俺も今、大変なんだよ」

「大変って何が?」

()香里(かり)のことだよ。あいつ、実家にいるだろ。向こうの親から電話があって呼び出されてさ」

「確か、由香里さんは、出産で実家に戻っているんでしょ? なんで向こうの親から電話で呼び出されたの?」

「由香里が出産した子供は、俺と由香里の子供じゃないんだってさ」

「はぁ? なにそれ! じゃあ、由香里さんは誰の子供を出産したのよ!」

「由香里の元彼らしい。俺と由香里、大学のサークルで知り合ったのは知っているよな? それからも付き合っていたわけで、真奈美が結婚して俺は諦めて由香里と結婚した。でも、由香里はそのとき、元彼と復縁していたらしいんだよ。関係的に言えば俺と真奈美のような関係だよ」

「じゃあ、由香里さんはお腹の中にいる子供が、晴樹じゃないことを元々知っていて出産したってこと? 私よりひどくない? だって、陽奈はれっきとした浩樹さんとの子供だよ?」

「陽奈が兄貴の子供だって言うことは耳にたこだ」

「で、元彼は知っているんでしょ?」

「知ってはいるけど、俺がいるから俺の子供として認知しろとかなんとか」

「離婚しないの?」

「真奈美、平気な顔で離婚しないの? って聞かないでくれよ。じゃあ、俺が本当に離婚したら真奈美は俺と結婚してくれるの?」

「それって私の返事次第ってことなの?」

「冗談だよ。俺と真奈美は二人でアパート借りて暮らしていたけど、やっぱり真奈美が言うとおり俺たちは結婚はムリだと思うんだよ」

晴樹はいつも冗談なのか本気なのかよく分からないときがある。結婚してくれと普通に言うけど。私と晴樹は、障害があるからこそ盛り上がれるからずっと続いているけど、実際に結婚してみたら壊れると思う。そう私はずっと晴樹に言い聞かせていた。だから、晴樹とは一緒になれないってね。

「ねえ、晴樹。今度の休み、キャサリン・ライトにお買い物に行くんだけど一緒に行かない?」

「真奈美、お金大丈夫なのか? それに……」

「最近、キャサリン・ライトはアウトレットに進出しているからデパートで購入するより安いのよ。最も、私がデパートで購入したのは一度きりだけどね」

「株主セールだっけ?」

「そう。それもなくなってきているし。アウトレットならそんなに競争率激しくないでしょ」

「とか言いつつ、真奈美は運転できないから俺が運転しろって言いたいんだろう?」

「あれ、バレた? 晴樹はいつが休みなの? 晴樹の休みに合わせるよ」

「じゃあ、今度の週末でいい?」

「週末かぁ。めっちゃ混むんじゃない?」

「それなら運転していかない」

「え~! 分かった。分かったよ。あ、そうだ」

「なんだよ、今度は」

「陽奈も連れて行こうよ。全然陽奈に遊びに行かせてないから」

「それなら兄貴も一緒に……」

「浩樹さんね。まぁたまには家族総出で出かけるのもいいよね」

私は、ちょっとほっぺたを膨らませた。私としては、晴樹と二人きりで行きたかったのだ。晴樹となら本来の自分の姿ではしゃぐことができるからだ。陽奈を連れて行くのは口実だ。母親らしいことをしてみたいと思ったんだけどな。それが、浩樹さんも一緒に行くとなると……どうすればいいのか分からなかった。

私は、その晩なかなか眠れなかった。実家にいながら楽な生活をしているのだが、家事のほとんどは、私自身の母親任せだった。両親も最初のほうは愚痴愚痴と文句を言っていたが、私が病気になってからはもう口うるさく言わなくなった。私にとっては最高の? 暮らしぶりだ。

キャサリン・ライトに出かける日になった。私はちょっと浮かれつつ不安もあった。念のため薬を飲んで出かけることになった。

「ママ、大丈夫?」

私が車に乗り込むなり、娘の陽奈に言われた一言が大丈夫? だとは思いもしなかった。それだけ、陽奈は母親の心配をしていたのだ。なんといっても、過去に遠出するたびに途中で体調が悪くなっているのを目の当たりにしているからなのだ。

「陽奈、大丈夫だよ。陽奈こそ車酔いしない?」

「パパから酔い止めの薬を渡されたけど、飲んでないよ」

「陽奈、ダメじゃないか。飲まないと」

「陽奈、パパの言うとおり飲みなさい。水筒持ってきているから」

「はぁ~い」

陽奈はふてくされた感じでお気に入りのポシェットから酔い止めの薬を出し飲んだ。

運転は、浩樹さん。助手席には晴樹。後部座席に陽奈と私が座っている。私は、てっきり運転するのは晴樹だと思っていて助手席に座れると思っていた。車の中は最近の曲が流れ出した。陽奈は久しぶりに母親と出かけるので一生懸命、学校であったことや友達とかいろんな話をとにかく弾丸のように話し出した。聞いている真奈美にとってはちょっと分からない事だらけだったが、友達がきちんといることに安心したのだった。弾丸のようにしゃべるのは、私と少し似た感じかもしれない。私も時々、会社の休憩中や友達と話すときは一気にしゃべりまくる癖がある。逆に全く自分に興味のない話は一言も話さない。喜怒哀楽が激しいというかなんと言うか。私がまだ結婚する前のとき、先輩が、

「話すときはたくさん話すんだけど、しゃべらないときは全くしゃべらないんだよね。なんか怖くて。何を考えているのか分からない」

と会社の内線で話しているのを耳にしてからは、気をつけてはいるが、なかなか性格は変わることはできない。さらに、病気になってからというもの、情緒不安定になることがほとんどで周囲の人にすごく迷惑をかけていたのだ。それは今でも迷惑をかけている。自分がどうすればいいのか分からないことがしょっちゅうあった。将来、自分がどうすればいいのか分からない。浩樹さんと元に戻って陽奈と三人で仲良く暮らすことが一番いいのだと思うのだが。晴樹との関係もいい加減終わらせなくてはいけないと思いつつ、結局晴樹から離れることができないまま今に至る。

「ママ、ママ。着いたよ」

私はハッとして起きた。陽奈としゃべっているうちにいつの間にやら眠ってしまっていたらしい。

「真奈美のいびきが音楽よりも大きくてさ」

「ええ? 私、いびきなんてしていたの?」

「大丈夫だよ。晴樹のウソだから」

「ちょっと! 晴樹! ウソ言わないでよ!」

とバシっと晴樹の背中を叩いた。

「真奈美、気分大丈夫なのか?」

「ん? 大丈夫だよ。それより早く行こうよ」

私は自然と晴樹の手を握った。そこへ、

「ずるい、陽奈もママと手をつなぎたい!」

「陽奈、こっち側おいで」

この三人を周囲から見れば普通にいたって仲の良い家族に見えるだろう。浩樹さんは、総合案内所でアウトレット全体のパンフレットも人数分持ってきているところだった。

「浩樹さん。ごめんね。パンフレット人数分もらってきてくれて。私、ネット上では確認してきたけどいざ現地に来ると分からないね。とりあえず、私と陽奈はキャサリン・ライトに行ってくるわ」

「二人で大丈夫なのか?」

「私、買い物は一人でじっくりと決めたいの」

「おい、まさか陽奈にもキャサリン・ライトを着させるつもりなのか?」

「え? ダメ? 一着くらいいいじゃん。陽奈も着たいよね?」

「ママが好きなブランドなら陽奈着てもいいよ」

「それじゃあ、二時間後にここのお店の前のベンチで待ち合わせな」

と晴樹が言う。

私がキャサリン・ライトというブランドが好きな理由は、チェック柄が大好きだからだ。他のチェック柄も大好きだが、キャサリンはストライクゾーンということだ。キャサリンにお金を貢いでいる時期もあった。会社の中でも、何人かはキャサリンを見につけている人がいる。私にとっては、嬉しいようであるが、キャサリンは私の物なのに! と思うときがあるくらいだ。

迷いに迷って、トレンチコートとワンピースを購入した。陽奈にも子供用ワンピースを買ってあげた。陽奈も似合っていたのですごく嬉しがっていた。

待ち合わせ時間までまだたっぷりとあったので、ブラブラとお店をのぞいては入ったり出たりの繰り返し。キャサリンみたいに真奈美にどんぴしゃというものにはなかなか出会わない。

陽奈がおもちゃコーナーを見ている間、耳元で声がした。

「お茶でも行かない? 真奈美さん」

びっくりした私は、その場にしゃがりこんでしまい、両耳を両手でふさいだ。私はレイプされかけたのを思い出してしまったのだった。

「た、助けて……」

必死で声を出そうとするがなかなか思うように声が出ない。誰か、誰か助けて。晴樹どこなの? 逃げ出したくても一歩も足が動かなかった。そこへ、

「何をしているんだ、おまえは!」

と晴樹がようやく来た。

男が慌てて逃げていくのが見えた。

「真奈美、大丈夫か?」

「私の名前なんでか知ってた。晴樹、晴樹怖いよ。早く家に帰りたい」

私は必死に晴樹の胸に身を寄せた。その後の記憶はなくなった。

気がつくと、ベッドの上にいた。病院ではない。浩樹さんの家だ。

「真奈美、気分はどう?」

「私、また倒れちゃったのね。ダメね。ごめんなさい、浩樹さん、迷惑ばかりかけちゃって」

「そんなことはないよ。やっぱり、真奈美と陽奈を二人きりにさせた俺たちが悪かったよ。警察に言うべきかどうか迷ったけど……」

「いや、警察には言わないで。どうせ何もしてくれないんだから! なんで、どうして私ばかり狙われるの? 私、そんなに隙があるの? どうして見ず知らずの人から声をかけられるの? もう、イヤだよ。私、死にたい」

「そんなこと言わないでくれよ。真奈美が死んだら陽奈はどうするんだ? 今日は疲れているだろうから、もう薬飲んで休んだほうがいいよ」

「いや、一人じゃ心細い。浩樹さん、一緒にいて」

「分かったよ。じゃあ、真奈美が寝るまでここにいるから」

「実家には今日のことを連絡しないで……」

「してないから大丈夫だよ。仕事、もう少し残業を減らせれないのか?」

「え? 残業していること話していたっけ?」

「晴樹から聞いているから。帰りはいつも、夜の九時を過ぎているとか。真奈美はまだ若いから残業してバリバリ働きたい気持ちもわかるけど、自分の体のこともう少し気を付けてくれよ。また、倒れたらどうすることもできないだろ」

「私だって早く仕事上がりたいよ。でも、なかなか上がれなくて……」

「正社員はどうなんだよ?」

「正社員の方が早く帰っているね。私より正社員の方が定時が早くなったかな」

「会社を辞めることは考えはしないのか?」

「だって、ようやく長く勤めてきているんだよ。そりゃあ、正社員の方が何かと安定しているし、残業だってそんなにもなさげだし。でも、私には……」

「もう一度、やり直すことできないか? 陽奈と俺と真奈美の三人で暮らそう」

「そんな……だって私は、浩樹さんのこと裏切っていたのよ。そんな資格があると思う? 陽奈にも私は最低な母親としか見えてない」

「陽奈のためでもあるんだ。陽奈にはまだ母親が必要な年齢だ。今すぐ返事をしてほしいとは言わない。考えてほしいんだ。陽奈の将来のためにも」

「浩樹さんは、どうして私と晴樹のこと何も言ってくれないの? 私が浩樹さんの立場だったら離婚どころか、もう二度と会いたくないのに」

「真奈美のことをずっと見ていなかったのは、俺のせいだ。真奈美はまだ若いし、ちょうど年齢的にも晴樹としゃべり相手になってくれていることに感謝していたんだ。ただ、陽奈が真奈美のお腹の中にいるということを知った時は、ちょっと動揺した。そのときは、まだ晴樹が真奈美のことを好きだということを知らなかったから」

「本当に何も知らなかったの?」

「仕事のことで頭が精一杯だったんだ。真奈美が陽奈を無事に出産してくれたことには、とても感謝している。でも、真奈美にはまだ負担だったんだな。周囲には結婚も出産も内緒だったわけだし、相談できる相手がいなかったせいでもあるから余計に真奈美の身体を壊してしまった」

「私の心が弱すぎるからよ。決して浩樹さんのせいじゃないわ。今は、ちょっと仕事が忙しいからまた身体を壊し気味だけど、なんとかなる。昔に比べれば、元気なほうよ。そうじゃなきゃ、晴樹と二人暮らしなんてしてなかったから。それもすべて私のせいで壊れてしまったけど。浩樹さんは、陽奈のためだというけれど、陽奈は? 陽奈は私のことどう思っているの?」

「長くなりそうだから、後日改めて話すよ。真奈美も今日はここに泊まっていくといいよ。実家の方には連絡しておいたから」

 そういうと、浩樹さんは部屋を出て行った。

 もう一度やり直すか……私に陽奈の母親としてもう一度育てることができるのだろうか。浩樹さんはどうしてあんなにも優しいんだろう。優しすぎるから晴樹に傾いちゃうのよ。それが分かっていない。

 私は、妊娠がわかったとき、晴樹への想いを知らないまま心の奥底に閉じ込めた。でも、出産して育児がとても大変だったとき、また晴樹に頼ってしまった。晴樹は嫌な顔を見せずに陽奈を育ててくれた。もちろん浩樹さんも育児には協力してくれた。そのころの私の記憶はあいまいだ。自分でも何が起こってなんで病気になったのかが分からないままだった。ただ、覚えているのは、晴樹の彼女の由香里さんにはめられたことだった。由香里さんに晴樹のことについて呼び出しをされたが、待ち合わせ時間になっても由香里さんが現れることもなく連絡をしようとしたら突然知らない男の人に声を掛けられていた。

「ま~な~み~さ~ん。真奈美さんだよね?」

「どちらさまですか?」

「由香里のダチっていうことで、沢野(さわの)(あきら)と申します。これから仲良くなるんで、よろしく」

 と無理矢理握手をされて、わけがわからないまま車に乗せられた。

「どこへ連れて行くつもりなの?」

「本当に、俺のこと忘れちゃったの? で、子供出産したの? その顔じゃまだまだ高校生くらいにしか見えないよ」

「車を停めて。お願いだから車を停めて!」

 沢野明は、私の話を何も聞かずに強引にホテルへ連れ込んだ。助けを求めて携帯電話を持ってみるが、手が震えてうまく携帯が使えない。テーブルの上にフルーツの盛り合わせがあり、そのフォークを片手に持ち、

「どうせ私としてから殺すつもりなんでしょ? だったら先に私が死んであげるわよ。それともなに、あなたも一緒に殺してあげようか?」

 この当時の私は、本当に頭がどうかしていて死ぬことしか考えていなかった。だから道連れにしてやると一言話すと、沢野明はビビったのか、

「根性のある女だな。気に入ったよ。さすが由香里の彼氏をたぶらかせた女だな」

「あなたは、本当は由香里さんとどういう関係なの?」

「だから、友達だって言ってるじゃん。で、実際のところはどうなの? お兄さんと弟さんどちらが気持ちよかったの?」

 その一瞬で私は、フォークと共にフルーツの盛り合わせも沢野明めがけて投げだしたのは覚えている。沢野明が怪我したかどうかは覚えていない。とにかく私は、ホテルを何とか抜け出して、怒りのまま由香里さんのもとへ行ったのを覚えている。由香里さんは、きょとんとした顔で私を見ていた。私はその顔を平手打ちで二発も叩いた。

「ちょっといきなり何よ!」

「もう一発引っ叩かれたいの?」

「あ~、楽しかったでしょ? あなたにとっては、満足だと思ったのよ。いい加減、晴樹を帰してちょうだい」

 そのあとの会話はもう覚えていない。晴樹にこのことを話そうか迷ったが、また由香里さんから仕返しが来るのかと思うと嫌気がさしたので内緒にしておいた。でも、由香里さんが晴樹にすでに話していた。晴樹から警察に行こうと言われたが、公にしたくなかったのと体調が思わしくなかったのでやめておいた。


 翌日、陽奈に起こされた。

「ママ、大丈夫なの?」

「陽奈、頼りないママでごめんね。陽奈は、パパとママどっちが好き?」

「両方大好き! でも、晴樹兄ちゃんも大好きだよ。いつも陽奈と遊んでくれるの」

「ありがとう、陽奈。陽奈は、パパとママとの三人で一緒に暮らしたい?」

「晴樹兄ちゃんはいないの?」

「晴樹兄ちゃんは、結婚しているからちょっとムリかなあ……」

「でも、結婚していても普通に家にいたよ」

「それは、私がいないから代わりにいてくれたんだよ」

 まさか子供の前で、妊娠している相手が晴樹の子供じゃないなんて言えやしない。私も私で、人のことあまり強く言えない立場だけど。確か相手は、沢野明だと聞いていたような気がする。沢野明とはあれ以来、会わないと思っていたのに、私が仕事の外出先で再会したのであった。お互いにすぐに名前が出てきたのを覚えている。以前会った時とは別人のなりようで普通にスーツを着こなしていたのでビックリした。少しお茶したくらいで、沢野明は、

「今でもお兄さんと弟さんの関係持ってるの?」

「そういう言い方やめてくれない。それに結婚していたことは内緒にしてあるんだから」

「へぇ~。なんで内緒にしてるの?」

「まだあの時は、若かったしなんとなく言いづらくて、そのまま十年が過ぎちゃったけど」

「あれ? 今さらっと過去形にしていたけど、離婚したの?」

「まぁね。あなたも知ってるでしょ。私と出会ったとき。精神的に不安定でとてもじゃないけれど子育てできる状態じゃなかったの。ひどい母親よね。親権も普通なら母親なのにあっさりと私は捨てたわ。それくらいひどかったの。今はもうだいぶ良くなったし」

「由香里も望みのない恋愛なんて捨てればいいのに。なんだって、晴樹なんだよ。しかも、晴樹は真奈美さんのこと好きだし。お兄さんだって真奈美さんのこと好きなんでしょ? 兄弟共に愛されるのってそれだけ真奈美さんに魅力があるってことだろ。――その笑顔、誰にでも見せてるの?」

「え?」

「気づいていないんだな。その笑顔見せられたらたいていの男は魅かれる。まさか計算じゃないよな?」

「だとしたらどうするの? あなたも私の虜になってるの?」

「ノーとは言えないな。あの時も、すごく魅力的だったけど今の方がさらに増してるな。とてもバツイチには見えない。しかも子供までいるなんて」

「それより、由香里さんの赤ちゃんどうするつもりなの? 晴樹に押しつけておいて自分は逃げるつもりなの?」

「だって、俺は由香里の旦那じゃない。由香里が晴樹と無理矢理結婚なんかしなければ、俺と結婚していたはずなのに。そもそもさ、晴樹は真奈美さんのこと本気じゃなかったの?」

「それは私にもよくわからない。晴樹自身の問題だから。確かに晴樹にプロポーズはされたわ。でも、親が決めていたのを押し切ってまで結婚なんてできるわけないでしょ。あのまま晴樹と結婚していたらどうなっていたんだろう。今でも、晴樹には冗談なのかわからないけど結婚してくれとか言われるけど」

「それ冗談じゃなくて本気だと思うよ」

「だから困るのよ。結婚したら私と晴樹は破たんする。だから同棲をしてた。由香里さんが妊娠して実家に帰っている間にね。でも、私はその間にほかの男に目をつけていた。バツイチ子持ち抜きにして、私はもう一度幸せになりたいの」

「二人から愛されているのに、ほかの男に目をいくとはさすがだな」

 こうして私たちは、別れた。

 職場に戻ると、次に入ってくる新しい後輩と顔合わせをした。顔を見て私はビックリした。だって、水野さんと付き合っている彼女だったから。彼氏の勤務先まで追いかけてくるとはすごいなぁと思ってしまった。手荷物などを見ると、キャサリン・ライトのカバンを持っていた。水野さんも前の職場は、キャサリン系列店だったのを思い出した。私が好きになった原因でもある。でも、なんでエレナさんはここの職場を選んだんだろう。

 数日経ってから、エレナさんにどうしてこの会社を選んだのかを聞いてみた。

「う~ん。やっぱ、彼氏がいることですかね。あと、休みも同じだし。私たち、キャサリンで出会ったので。あ、でも同じ店舗じゃないですよ。私はライトだったけど、向こうはメンズ専用だったので。私もまさか大石さんがいるとは思いもしなくて……」

「水野さんから聞いてなかったの?」

「何も聞いてないです。ただ、同じ会社に勤めることを話したらビックリしていましたけど。てっきり同じ支店で働けるのかと思ったら、ほかの支店へ人事異動になったんですね」

 今後、一緒に働くのかと思うとなんとなくやりづらいなぁ。なんでよりによって、この会社なのよ。私、辞めようかなあ。エレナさんは、私が水野さんのことを好きだったということを知っているのだろうか。まさか、チョコレート渡しているのがバレているとか? それでその相手の顔を見ようとわざわざこの会社に来たとか。もしそうだったら、怖すぎ。彼氏と同じ職場で働こうとする意思がなんかストーカー気味的な感じがする。あまり深くかかわらないように注意をしなくては。

 次の休みの日に、浩樹さんの家へ行くことになった。たぶん、陽奈と三人で暮らすことの返事を言わなくてはいけないことだろう。エレナさんのことで頭がいっぱいで、肝心なことを考えてはいなかった。私の将来のこともこれで決まるのだろう。

「なんで晴樹もいるの?」

「ああ、晴樹にもきちんと聞こうと思って。真奈美が嫌なら別の部屋で話すけど」

「結局さ~、真奈美はどうしたいの? 俺との同棲生活も無理だったわけだし。でも、あの時は、真奈美がほかの男に恋愛をしていたから仕方がなかったのか。それとも、俺とは遊びだったわけ?」

「晴樹のことは、遊びじゃないよ。遊びで同棲なんかしてない。浩樹さんは、こんな私でもまたやり直したいと思っているの? もちろん陽奈のために母親が必要な時期でもあるし」

「俺たちは、結婚しても結婚する前とあまり変わらない生活だっただろ。だから思い切って三人で暮らす方がいいと思うんだ」

「兄貴は、俺と真奈美が元に戻るんじゃないかっていう恐怖があるんじゃないの? だから三人で暮らしたいなんて言うんだろ。俺は、今でも真奈美のことが大好きだ。同棲生活は無理だったけど、やっぱり真奈美と結婚したい気持ちは変わらない」

「晴樹が真奈美を真剣に愛したように、俺だって真奈美のことを真剣に愛したい」

「兄貴、俺の気持ち気づいていたんだな。だったらどうして真奈美と結婚なんかしたんだよ。俺と真奈美のこと感づいていたんだろ。どうして何も言ってくれなかったんだよ。兄貴は、偽善者すぎるんだよ。真奈美のことを俺と同じくらい愛しているのなら、俺のことを殴るなり別れさせるのが普通だろ。なのに、見て見ぬふりの生活だったよ」

 二人は私の顔を見つめてきた。さあ、どちらを選ぶのか早くしろよという顔つきだった。浩樹さんともう一度やり直して、陽奈との生活を選んだ方がいいのだろうか。それとも、晴樹とは初めからわかっていたように、結婚をするとダメになるパターンから抜け出すことができるのだろうか。どちらにしても、この兄弟のどちらかを選ぶのは、私にとっては究極の選択だった。陽奈と一緒に暮らせば、また母親失格になるんじゃないかという不安もある。

「私は――浩樹さんともう一度やり直すことにする。晴樹とは、別れるということじゃなくて、二人とも兄弟なんだから仲良くしてくれないと困るから」

「真奈美がそう決めたのなら俺たちは何も言わない。ただ、仕事だけはセーブしてほしい」

「わかってる。陽奈もいることだし、今度からは仕事はしばらく働くのはやめて、子育てに専念する。今更子育てっていうのもおかしいけど、陽奈との距離感を縮めたいし」

「兄貴、また真奈美を泣かせたら今度こそ俺の出番だからな」


 こうして、私は雨宮真奈美に舞い戻った。相談した結果、晴樹は由香里さんと離婚を決意しおなかの子供も沢野明だということが判明し、一人暮らしをすることになった。

 三人で暮らす計画も立てていたが、まだ私が一人前になっていないせいもあり、浩樹さんの実家で暮らすことになった。

何で聞いたかは忘れたけど、子育てには決まったマニュアルがないこと。親になるのは、誰でも初めてでもあり育て方は人それぞれ。だから、一人で悩まないでみんなが悩んできてそう子供は親の背中を見て育ってきている。失敗することなんてたくさんだ。失敗を重ねてこそ、一人前になるのだと。


「ママ、来週の水曜日は授業参観日だからね」

「うん、わかった。忘れずに行くから」

「それじゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃい。車に気を付けるのよ」

 陽奈は、毎日、学校での出来事を話してくれる。ただ、テスト前やテスト終了後は、そそくさと話を切り上げて、部屋に逃げることもしばしば。これは、私に似たんだろう。

 ポケットに入れてある、携帯電話が鳴りだした。

「もしもし、真奈美? いったいどういうことなの? 結婚してて子供もいるなんて本当なの?」

「ああ、ハガキが届いたんだね。ごめん、ごめん。ハタチの時に実は結婚していたんだよね」

「その話、今度会ったら詳しく聞かせてよね」

「わかったよ。もうじき娘が学校から帰ってくるから電話切るね」

 私は、今度こそ周囲に結婚していることと子供がいることを友達などに、一斉にハガキで知らせていた。もちろん、三人で写っている写真も載せて。



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