7
とりあえず、邪魔な爆弾を上空に投げ捨てた。誰にも被害がないほど高く。ちょっと強く投げすぎてしまったかもしれない。もしかしたら天井まで届く。
それがスイッチだったかのように始まる。
爆弾が絵堂の手から離れた瞬間、空に亀裂が走った。始めは誰もが見間違いだと信じたに違いない。しかし無視できない音と振動が、これは現実だと強く示していた。
空が割れるのは、異様な光景だった。実際は空を映していたパネルか何かが割れているだけなのだが、まるで空間が壊れていくように見える。空に卵の殻を思わせるひびが走り広がる。遂に空が崩落し始めた。
ここが地下だと思い出せれば、天井の崩落は想像できそうなものだ。しかし誰の頭にもなかった。オートマタドールも含め、驚きにより全ての目が空の亀裂に集まる。全員がただ見ていた。
亀裂の溝が広がり、穴に変わる。その小さな穴から小さな生き物が顔を覗かせた。
その生き物は、とにかく頭が大きかった。小さな胴から更に小さい手と足を生やしている。向こう側が透けて見えそうな翼が二枚。自分の口元を傷つけそうな長い牙がニヤける口から伸びていた。
「あれは魔物!」
あれが魔物か。ローレルが言うなら間違いないのだろう。
「キテヤッタゼェォ!」
と、魔物は喋った。そこまで絵堂が投げた爆弾が届く。
あれは爆弾だ。もちろん爆発もする。魔物は強烈な爆発に巻き込まれ、バラバラになって黄金の体液を撒き散らしながら人間の街に舞い降りた。
爆発に高揚する者が一人。
「普通はああなるはずなんだけど」
モニカの嬉々とした目は、爆発が収まってもしばらく続いた。
爆発を意に介さず、空にできた穴はどんどん膨らんだ。大量の瓦礫が降ってくる。瓦礫が落ちる穴の真下は、無視できない被害になっているだろう。
瓦礫がもたらす被害を考えている時間はなかった。穴が大きく開いて太陽が見えた。その太陽はすぐに隠される。穴を塞ぐ者があったからだ。大量の魔物が押し合いながら通ってきた。
一つの穴を多くの魔物が通るのは辛かったようだ。しかし穴を抜けてしまえば渋滞から開放される。次から次へと魔物が入り込んできた。
「ありえない。人が地下で暮らすようになって今まで襲撃なんて一度もなかったのに」
ローレルが細い声で嘆く。それなのに、街で爆発が起きたときは、魔物の仕業を疑っていましたよね?
「倒さなきゃ」
ローレルが杖を持ち上げる。しかしモニカの手によって杖は強引に降ろされた。
「変に注目集めたくない」
「爆弾取り出している人が何言ってるの?」
「これは関係ないよ」
モニカは手に持った爆弾を起動する。何本も銅線が通っていて、それを繋げていた。
起動した爆弾を見て笑えるのはモニカだけだ。
「関係なくないでしょう?」
魔物は街に下り、暴れているようだった。遠くから悲鳴が聞こえてくる。助けるなら急ぐべきだろう。このままでは被害が広がるばかりだ。
今まで絵堂たちを追っていた治安維持装置のオートマタドールたちも、目的を魔物に切り替えていた。複数のチームに分かれて、街中に散っていく。もはや絵堂たちは眼中にないらしい。
さて、どうするべきか。絵堂が考えるまでもなかった。何体かの魔物が絵堂たちに目掛けて、真っ直ぐ降りてくる。大きい者が二体は確認できるが、小さいものは影に隠れてよく見えない。
大きい二体にも明確な差があった。大きさは大差ないのだが、風貌がまるで違う。最も大きい魔物は、二枚の翼を左右に生やしている。その翼は体より二倍以上は大きく見えた。最も大きいと感じてしまったのは、この翼のせいだろう。
真っ黒な目が左右に一つずつ、鼻が一つ、耳が左右に一つずつ。口には人間のような四角い歯を何列にも生やしていた。頭も体も人間に似ていた。
他の魔物に、子どもが丸めた粘土みたいな玉がいる点から察するに、この大きな魔物は相当人間に近い。
もう一体の大きい魔物は、ドーナッツ状で無数の毛を生やしただけだった。毛は一本一本、意思を持っているかのように蠢いている。見た目が雑だ。感覚器官は備わっているのだろうが、どこがどんな機能なのか全く想像できない。毛は触覚っぽいが、もしかしたら匂いや味も感じられるのかもしれない。
魔物の中で最も人に近く、最も大きな者の不敵な笑みは間違いなく絵堂に向けられていた。隠れてやり過ごそうとする思いは一瞬で引っ込む。では、逃げるか? 戦うか? そもそも敵だと決めつけるのが尚早か?
モニカはローレルを静止させていた手を引っ込める。見つかってしまったのなら、ローレルを押さえても無意味。
ローレルは魔法を始めた。唯一、杖を向けられた先の魔物だけが、ローレルを止めようとしていた。
「待ってくれ。待って」
最も大きな魔物の声に誰も意識を傾けない。モニカは爆弾を投げつけた。
「危ないって! 怪我したらどうするの! 責任取ってくれる?」
大きな翼をはためかせ、最も大きな魔物は爆風を避けきった。
「……羽虫がちょこまかと」
その間にローレルの魔法も完成する。
「悪しき存在を貪り喰らえ!」
その言葉と共に現れた赤黒いモヤが、全ての魔物を取り囲んだ。小さな魔物はモヤに飲み込まれ、姿形がこの世から消えた。
最も大きな魔物だけがモヤを追い払えた。手を振るだけで、ローレルの魔法を退ける。もう一体の大きな魔物は体の一部、一割くらいの毛を失っても、命を失うまでには至っていなかった。
「新しい勇者チームは、なんて乱暴なんだ。これでは挨拶もできない」
絵堂はその点には同意できた。モニカはずっと爆弾を投擲し続けているし、ローレルは魔物が現れてから正気を失っているようだ。瞬きも忘れて攻撃魔法に集中している。
ローレルは本来であれば、もっと話ができる。モニカは爆弾を投げ続けるだけの生き物のようだが、ローレルは違う。ジエンドが絡まなければ一般人だ。手を止めさせられるとしたら、ローレルだ。
「ローレル、こいつらは新しい勇者が出てくる度に挨拶に来るのか?」
ローレルは一度、絵堂見据える。真剣味に欠ける絵堂に口元を歪め、詠唱を破棄した。
「初めてだよ。間違いなく何か企みがある」
「勇者なんて俗物にわざわざ顔を見せに来たりはしないさ。本来ならば、勇者が我々の元に顔を出すのが礼儀というものだ。しかしそれを曲げてまでここに来た。この意味がわかるか? お前たちに」
「何か悪いことを企んで――」
「企んでない!」
真っ黒な不気味な両目が笑った。放たれる異様さはローレルに言葉を詰まらせた。
さっきこの魔物は、挨拶ができない、と口にしていたっけ。素直に受け取るなら、挨拶をしに来た。しかし、通例であれば勇者に挨拶なんてしないそうだ。つまり。
「俺を評価してくれているのか? その、なんだ、ありがとうな」
「ぶっとべ」
モニカの爆弾を避けつつ、魔物はほくそ笑む。ずっと笑っている。
「今日は特別な日だ。我らの主が自ら、新米勇者に祝辞を送られる。感涙をこじらせて世界を洪水に見舞うがいい」
「主? ジエンドとかいうやつか?」
魔物の主とすれば、ジエンドで間違いないはずだ。ローレル顔を覗いてみると、同じ答えになったのか、緊張や怒り猛り喜びや畏れ、様々な感情が混じり合い、頭の天辺からつま先まで硬直していた。心臓が動いていなければ、死んでいると断定するくらい動きがなかった。
魔物に目を向けると、正答だと返ってきた。
やっぱり魔物は笑っていた。もしかしたらこれが真顔なのかもしれない。
「ジエンドか。人間はそう呼ぶのだったな。そう。ジエンドこと、我が主、サイグル様だ!」
「サイグル……ピーグル犬みたいだ」
目だけでそのサイグル……ジエンドを探す。しかしそれらしい影はどこにも見当たらなかった。まさか、さっきのローレルの魔法で消えたのだろうか。もしくは毛の生えたドーナッツがジエンドなのだろうか。
よく見てみると、ドーナッツの毛が伸びている。さっきよりも明らかにボリュームがあった。
「そのドーナ――穴が空いた円盤みたいなのは何なんだ?」
「彼女はジュベイシャ。私と同じサイグル様の側近だ。ちなみに私の名は――」
「誰もお前の名前には興味がない。名乗らなくていい」
しかし側近とはまた面白い言葉が出てきた。魔物の中にも階級があると考えていいのかもしれない。本当に側近なら、こいつらを潰せばジエンドは困ってくれるかもしれない。
ならばやることは一つ。ここで倒してしまおう。ローレルは初めからそのつもりだったみたいだが……。
常にと言っていい頻度で爆弾を投げ続けるモニカは放っておいていい。
言葉は必要なかった。頷く。それだけでローレルは魔法に入る。
「名乗りくらいさせてよ」
「興味がないと言っている。お前の自己紹介で時間を無駄にするくらいなら、さっさと話を先に進めろ」
「無駄って、すぐに終わるよ」
「時間なんか関係ない。必要ないから名乗るなと言っている」
魔物は遂に笑みを捨てた。
「いいじゃないか。名前を言うくらい。何が嫌だってのさ。私の名前は――」
「轟音の守護者よ。撃ち抜け!」
ローレルの魔法が完成して雷を顕現させる。雷は巨大な槍を型取りながら、凄まじい音で他の音を飲み込んだ。頭上に現れた明るい塊はうるさい。
「クリアフラット!」
ローレルの杖に従い、雷は急加速する。まるで早回ししているような現実離れした加速は、魔物の目にも留まらなかった。
絵堂には見える。魔物の目は、雷の槍に合っていない。槍が胸に突き刺さる未来が見えた。
この魔物は人と似た姿をしている。しかし、外見と同じく、内面も人間と似ているのかは不明だ。心臓が入っている保証はない。それでも胸に刺されば、かなりの消耗が期待できるだろう。腕を失えば、腕を動かせなくなるだろうから。胸に穴が空けば、全身に影響が出るに違いない。
雷は魔物の胸に当たるに決まっている。ローレルは確信していたかもしれない。絵堂もそう思っていた。しかしそんな現実は存在しない。
ローレルの魔法がいとも簡単に防がれる。手のひらで水鉄砲を受け止めるように軽々と、まとわりつく雷が鬱陶しいと払う程度だった。
魔物は反応できていない。魔物が雷の槍が放たれたと知ったのも、打ち消された今になってようやくだ。
雷を防いで止めたのは、人間だった。槍と魔物の間に割って入り、いとも簡単にローレルの魔法を止めた。
いいや、人間の形をした別の何かと表現するべきなのかもしれない。少なくとも人間は、突然現れたあいつのように浮遊はできない。
「サイグル様!」
魔物の発言でローレルの顔が強張った。無理もない。魔物の言葉を信じるなら、あの浮いている人間がジエンドなのだから。
ローレルはジエンドを倒すために魔法を学んできた。それがローレルの生きている目的だったはず。人生の目標が目の前に現れている。
ジエンドは、紫色の髪の男だった。磨いた水晶のように反射する青い目をぎらりと見開き、真剣な面持ちで絵堂たちを観察してくる。
絵堂は見返す。翼すらない、人間としか思えない姿の男を。
天井に空いた穴から差す光りがその男を貫いた。逆光の中に身を置いて、全身を薄暗い影で覆いながら、博愛の救世主のように穏やかな表情を浮かべる。まるで見るものを軽視するようだった。
「おまえがジエンドなのか?」
もっと異常な容姿をしているとばかり考えていた。角くらいは生えていると決めつけていたのだが、実物は寝癖もない。
ジエンドからの答えはなかった。モニカが破壊活動を再会したからだ。
どうやらモニカは、爆弾だけじゃなくてロケットも出せるらしい。ロケットに爆弾をくくりつけて、ジエンドに向けて飛ばし始めた。
ぐにゃりとした軌道を走りながらも、ロケットはジエンドに向けて飛んだ。しかし届いたロケットはない。どのロケットもジエンドに近づくと、軌道がへし折れてあらぬ方向に飛んでいった。
異常動作をしたのはロケットだけではない爆弾もだ。モニカはすぐに爆発する設定にしていたみたいだが、起爆はどれも遅かった。ロケットが落ちて爆風がジエンドに当たらない位置まで行くと、そこでようやく爆弾が機能する。ジエンドが爆発を操作しているかのようだった。
「おとなしくお喋りをしよう」
爆弾を飛ばす行為があまりにも無駄すぎて、モニカは遂に手を止めた。
「それでいい」
子どもをあやすような優しい声で語ると、ジエンドは両手を広げる。その瞬間、ジエンドを包んでいた地上からの光が、強くなったような気がした。
「当方は復讐に取り憑かれ、世界を私物化した、世の主にして、万物の守護者。名はサイグル・ストルヘイム。世界は我を中心とする。我が足元まで到れるか? 我は貴様の足元を乗り越えたぞ」
意味不明な名乗りは、絵堂の耳にほとんど入らなかった。言葉が理解できないわけじゃない。サイグルは日本語を使っている。
聞いていなかったのは考え事に意識が向いていたからだ。
絵堂はサイグルの両目を見つめる。サイグルも絵堂に視線を落としていた。勇者とジエンド、倒す者と倒される者の睨み合いは落ち着いたものだった。どちらが倒し、どちらが倒されるのだろう。過去を見ても、勇者が勝利した記録はない。
正直、絵堂にはそんなことはどうでもよかった。自分が勇者だとか、サイグルと名乗る男がジエンドだとか、一切が頭から抜け落ちていた。それよりも、サイグルの存在が気になった。
サイグルは初めて会う人だ。それは間違いない。紫色の髪は初めて見る。この国、この世界で出会うものは全て初めて出会うものだった。サイグルも例に漏れず、初めて会う相手だ。
それなのに、なぜか絵堂はサイグルに覚えがあった。会ったことがある。間違いなく初めて会うと断言できる相手に、矛盾した感覚を抱いた。
「俺たち、会うのはこれが初めてか?」
自分でバカな質問をしていると確信しながら、訊かずにはいられない。バカと言われたらどうしよう。
絵堂は笑われるだろうと半ば確信していた。しかし、返ってきたのは沈黙だ。少なくとも、サイグルは否定しなかった。
やはり会っているのだろうか。しかしどうしても心当たりに行き着かない。インテリハイツが森に囲まれてからの出会いを全て思い出す。それでも似通っている人すら出てこない。会っているとしたら、どこでだろう。
一つの疑問が浮かんだせいで、他の思考が吹っ飛び頭が空っぽになった。サイグルに対する覚えは、全く具体性のない感覚だ。挨拶を交わした相手のように、はっきりと記憶に残るものじゃない。
例えば、すれ違っただけとか。たまたま電車で隣になったとか。信号待ち中、向かい側で待っていた人とか。
すれ違った? そもそも、どうして絵堂はここにいるのだろう。サイグルはなぜここにいる? インテリハイツが森に囲まれた理由は? 他にも同じ状況になった建物や人がないと断言できる理由は?
「もしかして、おまえ――」
「お話はやめよう。必要なくなった。続きは……待っている」
サイグルは背中を向ける。天井に空いた穴を見上げて、徐々に上昇していく。
「待て! 死体になってから帰れ!」
「断る」
ローレルが杖を向け、魔法の準備に入る。しかしサイグルは全く意に介さない。
「――惨劇をもたらせ! ブライトパープル」
サイグルの上空に黒い光りが現れる。かと思うと、消えて無くなった。
「私の魔法が! どうして……」
掻き消されたのだろう。答えを持っていそうなサイグルは、ただ帰路を行くのみだ。
絵堂も翼が生えていれば追ったかもしれない。しかしそんな都合のいい器官はない。影が消えるまで、ただ見上げ続けた。