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 鳥の鳴き声がした。ぴぃぴぃと鳴いている。きっと群れだ。もし一羽で鳴いているのだとしたら、その一羽には首がいくつか付いている。そんな鳥はありえないから群れだ。

 光が晴れて世界が目に入る。初めに見たのは、青い空だった。雲が優雅に流れている。太陽が照っていて、とてもよい昼下がりだ。

 絵堂は魂が抜けたように固まる。どういうことだ。夜だったのに、なぜか昼に変わっている。

 夢だろうか。それにしては意識が鮮明だ。首に爪を立ててみたが、痛みもある。

 既に頭は追いついていない。情報を整理する時間が欲しいところだが、こちらの事情は考慮してくれないらしい。深い霧が晴れていくように、地表付近までの光が徐々に薄まり、最後には消えた。

 不思議な光景だった。さっきまで街が広がっていた周囲が、木々で埋め尽くされている。

 どうやらインテリハイツは深い森に囲まれているらしい。ベランダから下を見下ろすと、そうなっている。

 インテリハイツは土から生えている。その土のすぐ先にはもう木が立ち並ぶ。上から見ると、木々に隙間が見つけられないくらい、真緑だった。

 まるで理解ができない。頭がショートしそうになり、絵堂はベランダから部屋へと戻る。とりあえず寝よう。起きたら元に戻っているかもしれない。

 しかしそれも叶わないようだ。寝床にしているクッションが消えたんだっけ。残ったゴミや衣類を並べたらベッドになるかもしれない。一瞬そう考えてしまったが、すぐに思い直す。あまりにも汚すぎる。

 今の関心事は全て外にある。自然と外に目が行った。

 鳥が飛んでいる。体が白と茶で塗られていて、体の大きさにしては広い翼を二枚持っていた。特に目を引いたのは、くちばしだ。

 その鳥のくちばしは槍のように尖ったものから、先端が欠けているもの、捻れているものまである。一つの体から無数に生える頭には、一つ一つ個性があるのかもしれない。

 鳥のさえずりくらいしか聞こえない中に、絵堂の笑い声が交じる。

 なんであんな鳥がいるんだよ。鳥は知っているが、あんなのは知らない。頭部が十五くらいあった。ぎゅうぎゅうに詰められていて、どの首もまともに動かせないようだ。首が一つ、壊死して黒くなっている。

 バランスを崩して整えてを繰り返して、ゆっくりと飛行していた。いつ落ちてもおかしくない、不安定すぎる飛行だった。

 面白いじゃないか。あんな変な生き物がいるなんて、俄然興味が湧いてきた。

 なぜインテリハイツの外に木々が密集しているのか。さっきの光は何で、何が起こったのか、調査のために歩いても面白い。次は鼻が二十もある猪と会えるだろうか。

 眠気は失せたし、このまま出発しよう。

 水をグラス一杯だけ飲もうと蛇口を捻ってみたが、少量の水がシンクに落ちてから水は出なくなった。水道局は休日のようだ。


 水はあきらめ、外に出る。流石に玄関を開けて出た。

 外の空気を吸うよりも早く、すぐに何者かの視線を感知した。視線のイメージは冷たく、穏やかとは程遠い。殺意としてしまえば、一言で表せるかな。

 視線の出処は空にある。インテリハイツの通路の手すりに寄って見上げてみると、探すまでもなく見つかった。

 陽を覆い隠す巨大な影があった。サイズは飛行機くらいだろうか。低空飛行をしているから大きく見えた。

 様子を見ていると、滑空しているとわかる。体の左右にある大きな膜を広げていた。

 それとは別に、骨ばった翼が付いている。今は滑空しているが、飛行もできるのかもしれない。

 その生き物が体を傾けると、陽が影から漏れ出る。

 一瞬だけ露わになった姿は、トカゲのような見た目だった。ゴムのような体表に、足が六本生えている。とにかく長い尻尾が二本あるが、まるで用途が想像できない。不揃いな黒い牙が並んだ口を開けたまま、青色をしたゼリー状のよだれを、ぼとぼと落としていた。

 早速、変な生き物を見つけてしまった。こいつは一体なんだ。ずっと見ていたい気分になる。幼い頃に見た夢を思い出す。もし世界に化物がいれば、我慢する必要はなかったのではないか、という仮定。

 生まれ育った世界は、比較的平和だった。だから過度な力は不要だったのだ。

 絵堂の口元が裂けそうなくらい横に広がっていく。そうなってしまうくらい笑顔を抑えられなかった。

 その生き物はまだ絵堂を見つめている。殺意を込めて。

 勘違いだったら謝るけど、こいつは敵だ。お互いに殴り殴られても文句が出てこない仲ってことだ。

 絵堂は名前を付けることにした。

 こいつはインテリハイツの周囲が激変してから、初めてあった生き物――はあの大量の首があった鳥か。こいつは二体目だから、次郎とする。

 次郎が迫る。口を大きく開き、威嚇のため吠えた。地下鉄のトンネルから聞こえてきそうな低音で、物理的に圧迫するような勢いがあった。

 その威嚇に絵堂は興奮する。次郎がやる気満々だと確認できたからだ。

 絵堂は手すりに飛び乗る。微かに揺れる狭い足場で体制を整えた。

 次郎は一度羽ばたくと長い尻尾をしならせる。もう一度吠えると同時に、インテリハイツに、その尻尾を叩きつけた。

 破裂するような音に続き、ブロックを崩したような音が轟く。かつて無い衝撃が絵堂に足から伝わった。

 足場が崩れてなくなっていく。これでは立つどころじゃない。

 絵堂は瓦礫から瓦礫に飛び移りつつ、インテリハイツにしがみつく。

 その間に次郎はインテリハイツの上空を優雅に抜けながら、尻尾を振り抜く。インテリハイツを叩き切った。五階から四階にかけて、斜めに修復不可能な亀裂が入り、上下が完全に分かれてしまった。

 新しく伝わってきた衝撃は、比べ物にならなかった。もしジェットコースターから投げ出されたら、こんな感覚になるのだろうか。

 初めてのスリルに笑顔を隠しきれない絵堂は、足場がある内に最上階まで駆け上がる。

 逃しはしない。せっかくなんだから、目一杯楽しませてもらう。幼い頃、虫の足をもぎ取って遊んでいたことを思い出した。

 遠ざかる尻尾に向かって、全力での跳躍を敢行した。地面に落ちる残骸では、足場としては不十分で思ったようには跳べなかった。それでもなんとか、次郎の尻尾に指を掛けられた。しかしその指はすぐに振りほどかれる。

 そうなるだろうとは予感してた。だから既に逆側の手を出している。今回はしっかりと次郎の尻尾を掴んだ。次郎の表皮は硬い。しかし絵堂の指先には敵わなかった。絵堂は人差し指と中指を、次郎の尻尾に刺して握った。これでもう逃さない。

 尻尾に二つの穴が空いただけでは、次郎にはまるで影響がなかった。飛行にも乱れはない。

 絵堂は尻尾を手繰り寄せる。このまま背中に上がってやろう。

 自分でも驚くほどのバランス感覚で、尻尾を足場に駆ける。刺した指に付着した、ぶどうジュースみたいな紫色の血を、腕を振って払った。

 始めての次郎の背中は、まあ汚かった。風呂に入る習慣がないのか、苔が生えている。体の大きさとは正反対の小さな鱗を纏っているのだが、その鱗の多くが緑色になっていたのだ。滑らないように注意しないとな。

 次郎は吠え、身を捩る。背中に乗られたのが気持ち悪いらしい。それなら、早く降りてやろう。

 次郎の背中には、背骨のような筋が四本も並んでいる。その筋に沿って、細かいトゲが無数に生えていた。

 絵堂が狙ったのはその筋だった。袖を捲りあげてから、鱗の下に指をねじ込む。次郎の体表は硬いが、絵堂の力はそれ以上だった。指先が刺さると、そこから先は速かった。

 紫の血液がバケツを引っくり返したかのように溢れ出る。血はサラサラだった。

 相手は巨体だ。肘まで入れても致命傷には遠いらしい。次郎は苦しみ悶えているが、力は弱まっていない。怒りで本気になったというところか。

 絵堂は腕を捻りつつ、手元にあった肉を鷲掴みにする。そうしてから引き抜いた。

 栓が抜けて、次郎の出血は加速する。雨の日の雨樋のようだった。

 絵堂の手に残った肉塊にはまだ温もりがある。しかし色がなかった。既に腐っているような見た目。酷いものだった。それを下へ捨てて、次へと移る。

 翼でももぎ取ってやろうか。それとも尻尾を引き抜くか。そう考えていると、次郎が突然飛行をやめた。自由落下を始める次郎。絵堂の体が浮き上がった。

 その瞬間に、次郎の鱗が逆立つ。そこから黒い風が吹いた。きっと毒性があるのだろう。しかし絵堂には関係ない。問題はその黒い風がそこそこ強かったことだ。絵堂を押して、次郎との距離を完全に離してしまった。

 絵堂の体が空高く浮き上がる。そのとき、絵堂は遠くで何かを見た。人? 四人が怪物と争っている。取り囲み、銃を撃っているが効果は薄いようだ。ここまで見たところで、絵堂の体は地面に向かった。

 絵堂は落ちていくしかなかった。絵堂には翼がない。

 次郎は絵堂が背中から離れたと確信すると、再び翼を広げる。高度を上げてから、滑空に戻った。

 もう次郎は絵堂から目を離さない。一周してから絵堂を正面に見据えると、口を大きく開く。飛べない絵堂には見ているしかなかった。

 巨大な口から放たれる。それは灰色の粘液だった。粘液の中では小指くらいの虫が無数に蠢いている。

 どんな虫かは知らないが、どうせまともじゃないだろう。

 あんな粘液を、受けるわけにはいかない。毒でも含まれていそうな粘液がまみれては、スーツが駄目になる。

 インテリハイツは倒壊した。絵堂の部屋も瓦礫となったに違いない。残されたのは、このスーツ一着のみ。やらせるわけにはいかない。

 しかし空中では身動きが取れなかった。仕方がない。弾き飛ばすか。

 絵堂は胸ポケットに刺さっているボールペンを一本引き抜いた。芯の先端を出してから、力いっぱい、ただしペンを握りつぶさない力で、放った。

 自壊しかけたペンは粘液の塊へと突き刺さる。すぐに粘液は弾けた。周囲に散らばり、雨のように落ちていく。

 絵堂に目掛けて落ちてくる粘液もあったが、細かいものばかりだった。指で払えば風圧でどこかへ行く。

 ペンは粘液を破った後、速度を緩めずに次郎にも攻撃をした。弾丸のように次郎の鱗に突き刺さる。しかし次郎には全く効いていない様子だった。ペンは砕け、森の中へと降り注ぐ。

 次郎が正面から突っ込んでくる。翼と重力を使って加速していた。その程度であれば、受け止めるのは容易。

 そうやって気楽に構えていたせいで、視界の端に何かが映ったのに反応が遅れてしまった。

 尻尾だった。尻尾の先端が音を切り裂き、横腹を殴りに来る。インテリハイツを壊したときより、尻尾に力がこもっていた。

 強烈な尻尾を片手だけで受け止める。難はなかった。ただ待ち構えているだけでよかったからだ。尻尾を握り、捕らえて、ここから再び次郎に取り付こう、と考える間もなく。正面には牙が待っていた。

 近くで見てみると、牙の大きさがよくわかる。それぞれ長さは違うが、最も長いものだと、絵堂の身長以上あった。それだけの大きさなのに、どうして刃物のような鋭利さを保てるのだろうか。

 上下から挟み込んでくる刃を、両足と空いた手で受け止める。靴が片方やられたようで、ひやりとした空気が足に触れた。

 次郎は力を緩めない。そのせいでなかなか抜け出せなかった。こちらが力を緩めれば、スーツがズタボロになりかねない。そんな拮抗状態、気がつけば次郎のもう一本の尻尾が逃げ場を塞ぐように、絵堂の背中に壁を作っていた。

 次郎の口内には面白いものはない。食べカスと思われる肉片が落ちていたり、虫が跳ねているくらいだ。

 その口内に一際目立つものが現れる。唾液だ。青い色をした、ゼリー状の唾液。湧き出てくる。

 あまりいい予感はしなかった。その予感を肯定したのは、喉の奥から出てきたコールタールのような液体。それが唾液に落ちる。唾液は灰色に変わり、大量の虫が広がった。さっき、ペンで貫いた粘液だ。

 こいつ、つばを吐いていたのか。なんて素行の悪い。親の顔が見てみたいものだ。

 そのためにも、まずはここから安全に脱出する必要がある。

 絵堂は掴みっぱなしの尻尾を、牙の間にねじ込む。尻尾では細くてストッパーにはならないが、牙に刺して留めてしまえば片手が自由になる。

 次郎の尻尾に鋭利な牙を刺す。尻尾も柔くはないので、不自由な体制からでは簡単じゃなかった。それでも、うまくやる。尻尾に痛覚がないのか、次郎は反応もしなかった。

 絵堂は空いた手で牙を押し返し、次郎の口から外へと飛び出る。

 幸いにも逃げ場がなかった。後ろに飛べば、次郎のもう一本の尻尾が待っている。つまり、また次郎を捕らえられるということだ。先程のように尻尾から背中に上ってやってもいい。

 次郎の唾液が吐き出される。それは掴んだ尻尾の影に隠れて回避した。片腕に掠ったような感覚があったが、勘違いだろう。若干湿っているのも気のせいだ。

 散々やられっぱなしだった。絵堂は好機とみて意気込む。今現在、いい速さで落下している。この速さを活かすために、翼をもぎ取ってやろう。

 次郎の尻尾を足場に跳ぶ。靴底が一つ、パカパカ言っていた。その靴で次郎の鼻先を踏みつけて、強引に背中に手をかける。次郎に触れた指先に力を入れ、広すぎる背中に再び乗った。

 ぐらりと揺れる。その揺れは絵堂が次郎に乗った衝撃によるものだった。

 次郎には絵堂を落とそうと身を捩るだけの余裕がない。迫る地面への対処を優先していた。翼を広げ、羽ばたこうとする。傘のように、一気に両の翼が開かれた。

 次郎が不自然に揺れる。次郎は飛ぶためにバランスを保ちたいのに、その揺れは忌々しかった。

 揺れは絵堂によるもの。次郎の背中で駆けていた。

 落ちる足場はとても不安定だった。足元は傾斜な上によく動く。まともに走れる環境ではないが、他に踏める足場がないのだから仕方がない。不安定な足場はどうしても前に進むには向いていなかった。走ろうとしても、思うように走れない。

 絵堂の目的は次郎の翼だった。飛ばせないために翼をへし折りたい。そうさせるまいと、次郎は今すぐにでも飛ぼうとする。翼を広げ、徐々に落下速度を落とし始める。

 絵堂は次郎を地面に叩きつけようと考えていた。だから、このまま落下速度を落とされるのは好ましくない。これ以上はさせまいと、絵堂は跳んだ。

 絵堂が踏みつけた鱗が割れて剥がれ落ちる。薄っすらと血がにじみ出ていた。

 跳んだ先には翼がある。

 もし、次郎が背中を見る術を備えていたら、絵堂は振り落とされていただろう。次郎が少し体を傾けるだけで、着地は無理だった。しかし次郎は自分の背中を見られない。

 絵堂は次郎の背中に足をつけると同時に、滑り込んで位置を調整すると、ボールを蹴飛ばすように足の甲を振る。真っ直ぐに綺麗な弧を描く絵堂の足が、次郎の翼に触れた。

 何かが砕ける小さな音に続いて、悲鳴が上がった。耳に痛いくらいの悲鳴だったが、絵堂には届かない。

 次郎は空を滑空できる大きな膜を持つ。それも叩き壊しておこう。

 絵堂は落とされないよう屈んでから、関節が外れそうになるくらい強引に手を伸ばす。なんとか飛膜に触れた。

 飛膜は簡単に引っ掻くだけで剥がれた。しかしそれは表面が剥がれただけで、膜に穴が空いたわけじゃない。引っ掻くだけでは効果が薄いと、絵堂は決断する。後ろ足を掴めるところまで下がった。

 次郎の飛膜は片側、三本の足を柱にしている。足を引っこ抜いてしまえば飛膜を張れなくなるはずだ。次郎は滑空すらできなくなる。

 幸いにも、今回は飛膜という足場がある。弾力があって歩くには向かないが、掴めるところが豊富すぎて振り落とされる心配がない。

 まずはその飛膜に降りる。飛膜を掴み、手繰り寄せるようにして後ろ足まで移動。次に後ろ足を掴んで、人で言う股関節の部分を無理やりに蹴って壊した。次郎は抵抗したが、腕力自体は絵堂が勝っている。次郎には為す術がなかった。

 絵堂は足を折ると、次はその足を捻り、肉や皮を引き千切る。ぶらりとした後ろ足は、もはや飛膜に垂れ下がるだけの重石になっていた。同じようにして、もう一本、足を引きちぎる。

 これでもう落ちるのみだ。絵堂は近づいてくる木々を見つめ、そのときを待った。

 森に無視できない土煙が上がる。多くの鳥が飛び立った。次郎が墜落したのだ。巨体は木々を幹から折りつつ進んだ。地面というやすりをブレーキにして、ついに止まった。

 思っていたよりは次郎にダメージはなかった。しかし深刻なダメージに変わりはない。

 次郎は止まってすぐに立ち上がる。しかし足が二本失われた状態には慣れていないようで、何度か転んで立ってを繰り返した。生まれたての仔山羊のようだった。血で塗れている辺りがそっくりだ。それと顔も似ている。

 足が無くなったところからは、鼓動と連動して血が溢れる。その量は膨大で、文字通り池が出来るのではないかと危惧する程だった。

 絵堂は次郎の背中から飛び降り、正面に立って話しかけてみた。

「おまえ、名前はなんていうんだ? 俺は次郎と呼んでいるが、実際そんな名前じゃないだろ?」

 わかっていたが、答えが帰ってくるはずなかった。日本語が通じる相手じゃない。片言の英語でも同じだろう。

「教えてどうなる?」

「……ほんと夢でも見ているのかね。どこで日本語を習ったの?」

「質問ばかりか。貴様が望む答えは何も教えん」

 次郎の息は腐臭だった。鼻どころか目に染みる。正面から離れたい気持ちもあったが、それ以上に日本語をマスターしているトカゲに興味が出た。

 今更だが、足は千切るべきじゃなかった。出血は止まる見込みがない。そのせいで次郎から力が失われているようだった。

 このままだと、こいつは死ぬ。次郎自身も確信しているだろう。絵堂も殺すつもりでやっていたが、日本語を扱えると知って惜しくなった。

 インテリハイツの周囲がこの森になった原因を知っているかもしれない。答えてくれたかもしれない。友達になろうとするべきだったと、今更ながら思う。

 絵堂には治療の技術はない。道具もなにもない。こんな状況で大量出血する傷口を治すのは不可能だった。傷口に足をねじ込めば繋がってくれないだろうか。フィギュアや模型だとそれで何とかなるのだが。

 次郎は、口の大きさにしてはか細い声だった。

「貴様の質問には答えないが、私の質問には答えてほしい」

 一方的に質問に答えろとは、なかなか虫がいい考えだが、過度な出血を見ていると怒る気にはなれない。

「言ってみろ。聞いてから決める」

 何を訊かれても答えるのだろうと、自虐するように鼻で笑った。

「人間にしか見えないが、どうしてここまで強い」

「俺だからだ」

「そうか」

 絵堂の完璧な回答に、次郎は頷くしかない。

 次郎は他に質問がなかったのか、ここで一度話が途切れた。

「本当に日本語が通じるんだな。他の言語は扱えるのか? 英語とか、HTMLとか」

「英語は無理だ。『Hello』や『Help』『Hentai』くらいしか知らん」

 つまり、次郎のいた環境には英語もあったわけだ。こんな巨体がどんな環境にいれば、言語を学べるのだろう。パパとママに教えてもらったのか?

 考えると、どうしても歪なイメージになってしまう。次郎が人間みたいに学校に通って、とかそんなイメージが浮かんでくる。

「訊けばいいか。……その言葉はどこで習ったんだ?」

 そういえば、質問には答えないと次郎は言っていたが……あれは無かったってことでよさそうだ。

「習った? 意識した頃には扱えていたよ。使う機会はなかった。使っても威嚇くらいなものだ」

 ぶち殺すぞワレェとか叫んでいたのだろうか。

 言葉を知ったきっかけは記憶にないようだった。これ以上訊いても無駄だな。

 こんな巨体の化物がなぜ人の言葉を話すのか、その理由を知りたかったのは興味本位に他ならない。面白そうと感じただけに、諦めるのは少し惜しくもある。

 次郎にはもう余命はなかった。頭を持ち上げられなくなっている。土に頭を落とした。なんとか瞼は開いている状態だ。

 次郎はもうそろそろ最後だ。それなのに、最後に相応しい言葉が思い浮かばない。そもそも次郎と会ってから、数分も経っていない。電車で一駅か二駅、隣り合っただけの人よりも付き合いは短いのだ。さようなら以外となると、ちょっと出てこない。

 それなら、無理に取り繕う必要はないだろう。好きにすると決めた。

「どうして、攻撃をしてきたかくらいは教えてくれないか? そんなにインテリハイツが邪魔だったか。俺の家を壊しやがって」

 おまえの顔がムカついた、とかじゃなければいいな。

「縄張りに突然現れたからだよ。違うか。考えてみれば思い出せない。急にあの建物にいる人間を殺さなければいけない気分になった。他に言いようがない」

「ゴキブリを見つけたみたいな?」

「わからない。ゴキブリがわからない」

「そうか」

 次郎が深く息を吐く。鼻と口両方から放たれた暴風は、酸っぱい臭さがあった。

「建物を倒壊させれば、瓦礫に飲まれて死ぬと踏んでいたのだが、とんだ誤算だった」

「誤算は、俺に手を出したことだよ」

「もしくは。――我らの主、ジエンドを倒せ。おまえなら、それができる」

「誰だ?」

 バカにならない足からの出血の果てが訪れる。次郎はもう何も言わない。絵堂に何も説明せずに、瞼を楽にした。

 もしかしたら悪いやつじゃ無かったのかもしれない。もう確かめようがない。出血はだいぶ収まっていた。

 新しく訊きたいことができてしまったが、もう次郎は物言わない。

 さて、行くか。絵堂は次郎の亡骸に一瞥だけして、伸びをしてから歩く。

 目標は一応ある。次郎に打ち上げられ、空高く居たときに見つけた四人だ。きっと人なら意思疎通ができる。この森についての情報を得られるかもしれない。

 どの方角に居たか、しっかりと記憶できていた。彼らが獣を狩って移動する前に、もしくは彼らが獣に狩られる前に到着したいものだ。

 なるべく急ごう。決めたらすぐに森を走った。


 森の中は安全だった。人食いの獣や虫が跋扈しているだけで、怪我の元は転がっていない。牙や爪を見せびらかす獣が飛びついてきたら殴り、人間大の虫が音もなく落ちてきたら逆に踏みつけてやればいい。

 生命に満ち溢れた、素人にもおすすめできる楽しい森だった。

 ただそんな森にも、たった一つだけ看過できないものが落ちていた。次郎が吐いた粘液だ。落ちていたのは小さな塊だった。おそらく飛び散った一部だろう。

 その粘液には大量の虫がいる。小指程度の大きさで、活発に蠢いている。それの一部が、粘液から外に出ていた。

 外に出た虫はやたらめったら食い散らかしているようだ。草木から、近寄ってきた動物、果ては土や石まで無差別だ。

 この虫は食べた分、どんどん大きくなれるようで、近くには人の腕くらいの大きさや、木の幹ほどの太さまで成長した奴もいた。

 安全な森は撤回しなければいけない。食べた分だけ大きくなる、この虫によって森は枯れていくだろう。

 虫は苦手だ。共存する気にはなれない。

 絵堂は遠くから石を投げつけて、大きすぎる虫だけは二度と動けなくした。この程度じゃ応急処置にもならないだろう。なぜなら、ここにいる虫はほんの一部。飛び散った粘液はいたる所に落ちているはずだから。

 もしこの粘液を被っていたら、この虫に全身をガジガジやられていたのだろう。想像しただけで気持ちが悪くて吐き気がする。

何も見なかったことにして、絵堂は走った。

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