11
着いたのは、大きな扉の前だった。
ここは下階とは違い、床も天井も壁も石材だった。光を取り入れる窓はゼロで、照明の類も見当たらない。それにも関わらず、明るかった。
目の前の大きな扉は、塔の構造を考えると外に繋がっている。外壁についている扉のはずなのだ。
しかし誰も外に出るとは考えていなかった。扉から伝わってくる冷たい雰囲気は、さっきまで浴びていた外気とは全くの別物だったからだ。
「開けるよ」
絵堂は槍をクリシェに返してから、扉に手をかける。
誰かが唾液を飲み込んだ。それは恐怖からか、緊張からか、期待からか……。
その扉は藍色で、二階建ての建物に勝てる高さを持ち、二車線も飲み込める幅があった。両開きで取っ手がないが、まさに扉としか言いようがない代物だ。
扉はこの塔で最も装飾がない物だった。扉のすぐ横の壁にも絵が掘ってあるのに、扉にはなにもない。等間隔で四角くへこんでいるだけだ。小さくすれば、お家にありそうな扉になる。
扉を両手で押し込んだ。見た目よりも軽くて、思った以上に簡単に動く。
そこは光りで満ちていた。扉という巨大な窓から大量の光りが流れ込む。しばらくは真っ白で前が見えなかったが、徐々に四人の目は慣れていく。
「ここは?」
夜だった。しかし明るい。空は暗いが、太陽があった。極小の太陽だ。三階建てよりちょっと高いくらいの跳べば届きそうな高さに、とても小さな太陽が燃えている。
太陽に照らされているのは、天井が崩落した廃墟だった。崩れかけの壁、散らばる瓦礫にヒビが入った足元。今上ってきた塔と比べたら寂れすぎている。
そんな円形の広間の中央に、ジエンドこと、サイグルがいた。
「早かったね」
サイグルが座る椅子は、とても座り心地が悪そうだ。四角い石を組み合わせて布を掛けたような雑加減の椅子だった。パイプ椅子をプレゼントしたら喜ぶのではないだろうか。
絵堂が一人で進む。まっすぐサイグルを見据えながら、二メートル位の距離を残した。知らない顔を前に、自分の都合ばかりを考える。サイグルは一体なんなのか。殴るのはそれを聞いてからだ。
「聞きたいことがある。お前は誰だ?」
「サイグルだよ。こちらは君たちを知っているから名乗りは結構」
「そうじゃない。お前は俺の何だ? 元上司か? クラスメイトだったか?」
「被害者ってところかな?」
後ろでローレルが魔法を始めた。サイグルの目が一瞬だけローレルに移るが、すぐに絵堂まで戻ってくる。
「絵堂さんの仲間はせっかちが多いみたいだ」
サイグルの余裕ばかりの態度に苛立つ。拳を握りながら、殴ってしまわないよう感情を我慢した。
「せっかちね。確かにそうだ」
後ろから足音がする。鎧の音だ。クリシェで間違いないだろう。振り返ってみると、予想通りクリシェだった。槍を構え走ってくる。狙いはサイグルで間違いない。しかしそれ以前の問題があった。
穂先が徐々に下に落ちている。このペースだと、サイグルに辿り着く前に、槍は床を突く。実際そうなってクリシェの足が止まった。
「届かない……か」
サイグルは動いていない。全てクリシェの一人芝居だった。
クリシェが勝手にギャグをかましている間に、ローレルは魔法を完成させる。
「――奉ずるは彼の毛皮。賛の印として、愚か者に極寒の針を貫き通せ!」
ローレルの杖が光ると、サイグルの周囲に、数えれば日が暮れるほど無数の氷の針が現れた。氷の針は重力に逆らい、浮いている。時を待たず、完成した針から順番にサイグルに襲いかかる。
対するサイグルは何もしなかった。椅子の背もたれがある背中側は安全かと思われたが、針は椅子を貫通して襲っているようだ。全方位から絶え間なく針に刺されても、サイグルは涼しい顔をしている。氷が涼しいってわけではなさそうだ。
針の雨の中、サイグルは絵堂にだけ聞こえるように声を押さえた。
「実のところ、魔法は効かないんだ。特性でね、例外なく無効化する」
もしこれが事実なら、ジエンドを倒すためだけに魔法を学んできたローレルの人生は一体何だったのだろう。確かに、これは大きな声では言えない。実に哀れだ。
「しかし、椅子に穴を空けられるのは嫌だなあ」
サイグルが立ち上がる。左手を振ると、残っていた針が全て砕けて消えた。新しい針は生まれない。
「魔法の無効化! 持続時間が利点になる魔法は効果が薄いってことか」
ローレルは悔しそうに唇を噛んでいる。どうやら一点集中型の魔法に切り替えるようだ。くるりと杖を回してから目を閉じる。
「陽は西から昇り、北に沈む。濁った泉に捕らわれた女神よ。朝露で食いつなぐ精霊よ。只今より無償の奉公を乞う。嘘は真実。我は白。あるのは慰み。しかし何もない――」
サイグルはほんの一瞬だけ目元を歪めた。
「この魔法は、あまりよくない。この場所がなくなる。……よしこうしよう」
サイグルの目の色が変わった。青い瞳が、危険信号のような濃い赤に染まる。
絵堂とサイグルとの距離は変わっていない。それなのに、遥か遠くにいるような違和感が強く現れた。
「魔法の真理に接続する。真理の追加、詠唱破棄を禁止。変更。魔法、プロトスピアの詠唱をラウル・ハロステロム王の自叙伝、全三十二巻に差し替える。以上」
絵堂は何かが切り替わる光景を幻視した。赤い瞳が青に戻り、サイグルが笑顔を取り戻す。
「何をした?」
反射的に尋ねる。サイグルは黙ったまま、絵堂の後ろ、ローレルを指し示した。
「私は王だ。何時どこで生まれたかは一般常識です。知らないなら勉強してね。私は生まれた瞬間から天才だった。おっと、これは書くまでもないことだったね。無駄な言葉で時間を使わせてしまってすまない。謝るのは、私がみんなを愛しているからさ。本当だよ」
魔法を唱えるように、意味不明な言葉を続けるローレルがいた。なんと声をかければいいのかがわからない。
「絵堂さんは、魔法には詠唱があるって知っているかな。詠唱を聞けば、どの魔法がいつ襲ってくるかの判断もできる」
「よくローレルが言っていたアレだろう。わかるさ」
サイグルは満足げに頷く。
「ついさっき、世界のシステムの魔法部分に割り込んで、一部だけ自分勝手に変更させてもらった。あの娘が使おうとした魔法の詠唱を、あの悪名高い、王の自叙伝にしたんだ。詠唱の破棄も封じた。これであの娘は、王の自叙伝を言い終えなければ、次の行動に移れない」
絵堂はサイグルを無視して振り向く。ローレルは頑張って毒にしかならない言葉を連ね続けている。顔を歪め、目を閉じながらだ。目元や目尻から、光の筋が顎に向かって伸びている。あれは間違いなく涙の跡だ。
「なんてエグいことを」
王の自叙伝は三十二巻ある。それを読み終えるには、何時間かかるのだろうか。それまで食事も水も口にできない。酷いという言葉が生ぬるく感じるくらいだ。
「王の自叙伝はやっぱり酷い。あまり聞きたくないね。自叙伝に設定した身だけど、早速後悔し始めているよ。あの娘の声が広がらないよう制限しよう」
ローレルの声が全く聞こえなくなった。しかし口はしっかりと動いている。涙の川は次第に流れを強めた。そろそろ紅い雫が流れてきそうだ。
「サイグル、おまえを倒す理由が一つ増えた」
もうローレルは駄目だ。延々と王の自叙伝を暗唱する存在になってしまった。しかしそれでも、絵堂たちの目的は変わらない。
「隙きあり!」
クリシェは乱暴に盾を投げつける。縦に飛ぶ円盤は一直線にサイグルを襲った。
しかしサイグルは浮いていた羽根を払うように、盾を払いのける。クリシェの盾はまるで無駄だった。払われた盾は、サイグルの椅子の裏に落ちる。あの位置では取りにいけない。永遠に腐るのみだ。それでもクリシェは果敢に攻めた。
次にクリシェは槍を持つ。穂先を十分なまで上げてからサイグルに向けて突っ込んだ。やはり槍は下を向いていくが、今回は床に刺さるよりも先にサイグルまで届きそうだ。
サイグルがクリシェへ手のひらをかざす。
「状態の参照。なるほど、身体能力、技術共に高水準だ。問題は装備にあるのかな。それなら、身体能力をより向上させ、装備の重量を一まで落とそう」
次の瞬間、クリシェが凄まじい勢いで吹っ飛んだ。クリシェが踏んだと思われる床がえぐられて、クリシェ自身は砲弾のように射出される。壁に激突して突き破り、どこまでも落ちていった。
「この場はもう塔との接続を切った。もうあの扉からは帰れない。ついでにこの場そのものを空高く浮かせた。ここは空の上にある。落ちてしまったら最後。彼女はもう帰ってこられない」
空を見上げるとわかる。雲がいつもより近くにある。確かに高い位置にあるのは間違いないようだ。
クリシェとは一体何者だったのだろうか。突然現れて、あっという間に消えた。チームにいてもいなくても、全く変わらない存在だったと断言していい。
残ったのは絵堂とモニカだけだった。モニカは人形のようにじっと立っているだ。絵堂はサイグルが何をしているのか全く理解できず、面食らって動けないでいる。
「そっちのおとなしいお嬢さんはいいのかな?」
「爆破を待つように言われたから必死に我慢してる」
「頑張ってるね。そんな君に一つ伝えておくよ。こちらからは手を出さない」
モニカは頷いた。
絵堂はローレルを見る。次にクリシェが出ていった壁の穴を見る。
彼女らが陥った現実を反芻した。絵堂の目か頭が悪いのでなければ、人の理解を越えた現象が起きた。そもそも、魔法自体が絵堂の常識にはないのだが。
「一体何をやったんだ? おまえは何なんだ」
絵堂の頭の中がぐるぐると回る。とても整理がつけられそうにない。納得をしようとサイグルを睨みつけてみるが、サイグルは一人で笑うだけだった。
「質問は順番にしてくれないとわからないよ。答えるから。絵堂さんとは話をしたいと思っていた」
サイグルは背もたれに穴が空いた椅子に腰を戻す。
「まず、この私が誰かという話から始めようか」
椅子が爆散した。絵堂を巻き込みそうになった爆発は、サイグルの姿を火と煙の奥に隠す。
爆発、その一点のみで、絵堂はたった一つの心当たりに当ってみる。モニカは親指を上げながら、最高と頭に付けても申し分ないほど清々しい笑顔になっていた。
今回ばかりは絵堂も笑顔になれた。
「いつ仕掛けた?」
「さいこうだぜー」
モニカは親指を立てるだけで、具体的には説明しない。勿体ぶっていると爆煙が晴れた。
「絵堂さん、躾けはちゃんとしないと駄目だよ」
サイグルが指を鳴らす。それと全く同時にモニカの姿が掻き消えた。まるで最初からそこには何もなかったかのように、影も爆弾も残っていない。
「どこへやった?」
「安全なところへ」
「そうか。なら安心だな」
サイグルは座れなかった椅子を見下ろす。今ではもう無数の欠片に姿を変えていた。ローレルに通気性をよくされて、モニカにバラバラにされる。そんな酷い目にあった元椅子に、サイグルが手をかざす。
「再生」
ぴくりと椅子の破片が動き出した。サイグルが『再生』と口にしたので察しはつく。しかし、それでも目の前の光景は、絵堂が否定したくなる非常識だった。
椅子の破片が集まって、元の形に戻っていく。出来上がった椅子に、欠けも傷もなかった。その椅子にサイグルが腰掛ける。何もなかったかのような態度だった。
絵堂は何も言葉が思い浮かばない。すごいですね、とでも言えばよかったのだろうか。
椅子が元通りになってから一呼吸空く。
考えてもわからない。それなら、考える必要はないと気がついた。順番に教わればいい。
「それで、おまえは誰なんだ?」
絵堂は脅すように睨んだ。実際脅していた。しかしサイグルは身震い一つしない。ピエロを前に笑うように平然と足を組む。
「その前に一つ答えてほしい」
サイグルに、突然黒雲が立ち込める。
「どうしてあの夜、軽トラックを避けなかった? 絵堂さんが避けずに衝突したから、私は死んでしまったんだ」
あの夜、軽トラック……。絵堂は一つの出来事を思い出す。仕事をクビになって帰る途中、法定速度を無視して爆走する軽トラックと出会った。
避けなかったから、……死んだ。絵堂はサイグルの正体に行き当たる。
会った覚えはあっても思い出せないわけだ。なぜなら挨拶すら交わしていない相手だから。絵堂に衝突した軽トラックの運転手。名前は知らない。それがサイグルの正体だ。
絵堂は目を伏せる。
「謝る。悪かった」
軽トラックは速かったが、避けようと思えば避けられたかもしれない。いいや、避けられなかったか。とにかくぶつかってしまった。その結果、軽トラックがへしゃげて、運転席で挟まれた人一人の命が失われた。
絵堂は自分でも驚いたが、少し嬉しかった。自己満足だが謝れた。サイグルが許しても許さなくても関係ない。悪かったと伝えられた事実が絵堂にとって素晴らしかった。
サイグルは必要ないと首を振る。
「謝らなくてもいい。こちらもスピードを出しすぎていた。絵堂さんとぶつかってなくても、他の何かにぶつかっていたさ」
実際はどうだったのだろうか。超絶テクニックで目的地まで問題なく着いていたかもしれない。
絵堂は、ふと頭の中に現れたモヤを認識する。死んだのに生きている人を見るのは初めてだった。
「死んだと言ったよな。無事なのか?」
笑われて絵堂はむっとする。
「転生したんだ。違う世界で生まれ変わり、その世界で超常的能力を得た。もう懐かしい。絵堂さんを恨みながらの鍛錬は身が入った。いずれ絵堂さんを召喚してボコボコにする未来を夢見ていたんだ」
「恨まれていたとは、知らなかった」
サイグルは目を伏せて、表情を抑える。落ち着いた雰囲気を演出しながら始めた。
「あの夜、息子が事故にあったんだ。命が危ないと聞いて、法定速度を忘れて爆走した。それでも、息子には会えなかった」
恨みの理由はこれか。絵堂は自分で考えていた恨まれた原因を訂正する。殺されたからではない。命が危険な息子に会えなかったから。
絵堂がいなければ、無事に会えていた可能性もあった。よく恨まれるだけで済んでいるものだ。これから報復ってところだろう。
絵堂は身構える。しかし、それは空回りに終わった。
「でも、今では殺してくれて感謝している」
「どうしてそうなる?」
恨みの次に感謝が出てくるとは思わず、絵堂は面食らう。
「異世界で得た能力があまりに強大だったんだ。もはや時間や空間、世界の壁すら障害にならない。この能力で恨みを晴らすよりも先に、息子の命を救った。事故があったあの時に戻って、本来なら失われるはずだった命を救えたんだ。ついでにアカシックレコードに接続して、家族の不幸を永遠に取り除くまでできた。絵堂さん、あなたが殺してくれたからだ。ありがとう」
「そりゃあ、よかった」
他に言葉が浮かばなかった。敵だと思っていた相手に、殺してくれてありがとう、なんて言われるとは予想できるはずがない。
「お礼をして終わり、が一番いいのかもしれない。でも」
サイグルが一人で声を上げて笑う。もう絵堂はついていけなかった。心配そうにサイグルを見守るだけで精一杯だ。
「恨みはなくなった。だが、黒い感情は残っている。あの夜、いとも簡単にぐちゃぐちゃにしてくれたあなたを越えてみたい。一度そう思ってしまったら止まらなかった。だから絵堂さんをこちらの世界に呼んだ」
「よく喋るな」
「絵堂さんが長年の目標なんだ」
絵堂はあちらこちらと目を泳がせる。もうしばらくサイグルの独り言が続きそうだったので、暇を潰せる物を探すためだ。しかし何もない。一番見ていて楽しそうだったのが空だった。ここは空が近い。
「本当を言うと、呼べなかった。絵堂さんに召喚の魔法を無効化されたから。そこで考えた。絵堂さんがこちらに来られないなら、こちらから絵堂さんの元に行けばいいと。二つの世界を入れ替えさせてもらった。細かく説明すると、絵堂さんとインテリハイツだけをこの世界に残して、宇宙まで含めた他のすべてを別の世界へ移動。そちらでもインテリハイツを生成して他の住民は問題なく過ごせるようにする。絵堂さんとインテリハイツ以外が無くなった世界に、都合いいように作成した別の世界を移動させた」
「すまん。途中から聞いていなかった」
本当は初めから聞いていなかった。
ちょくちょく耳に入った単語『別の世界』と『インテリハイツ』と『移動』を繋いで、話の内容を想像する。こっちで話をまとめてやれば、長い独り言の必要はなくなるだろう。
「要するに、サイグルが俺をこの世界に連れてきた存在ってことでいいんだな?」
「それは違うと言ったんだが、実質はその通り。他にやった。絵堂さんと対立するために、この世界に勇者とジエンドの対立を根付かせた。絵堂さんを勇者にするために、近くにいただけの狩人たちを、歴史から家系まで作り変え、勇者チームにした。そのチームをピンチに追い込んで助けるように仕向け、絵堂さんが聖剣を取るようにした。他には脱獄の罪を着せたり」
考えるのも忘れていたな。ローレルたちが戦いの最中に換装したのは、サイグルの仕業ってことだ。
「なるほど。つまり、あの時ローレルの仲間を殺したのはサイグルってことでいいのか?」
「そうとも考えられるかな」
「倒す理由がまた一つ増えてしまった」
ローレルはもはや放心状態だった。王の自叙伝を強制的に口に出し続ける行為に耐えきれず、心を手放していた。絵堂とサイグルの声も全く聞こえていないだろう。だから語り掛ける意味はない。言う意味はない。それでもローレルに告げる。
「どうでもいいとか言いそうだけど、ローレルの元仲間の敵討ちをしてやる」
どうでもいいとすら言ってくれない。無視されるのはわかっていたが、妙に寂しいものだ。
唯一、この場で会話ができそうな存在に向き直る。
「サイグル、他に言いたいことはあるか?」
絵堂は聖剣を抜く。もはや聖剣には慣れている。体の一部のようには思えないが、無意識に抜くくらいするようになっていた。
「他にもあったはずだ。でも思い出せないな。礼は言えたからいいかな」
「こっちも謝れたから、他に言うことはない」
絵堂とサイグルの距離は近い。まだ聖剣の間合いではないが、一歩踏み込めばもう届くだろう。
一歩縮めば聖剣に手が届く距離でも、サイグルはまるで慌てない。『洗濯機め。呼びやがって。面倒だけど干すか』くらいの感覚で椅子から立ち上がった。
「始めるか!」
同意を取れたと判断して、絵堂が突っ込んだ。聖剣を上段から乱暴に振り、剣先に半円を描かせる。しかし刃はサイグルへは届かない。サイグルは軽々と椅子の上に跳び乗っていた。
サイグルは椅子の背もたれにつま先を乗せて、更にそこから後ろへと跳ぶ。跳びながら絵堂に手を向ける。人差し指と中指の間に、絵堂が入るようにしていた。
「体力の最大値をゼロにする。駄目か。対象に死を適用。効くわけがないか。胃の内側にビックバンを生成」
絵堂は耐えきれずゲップを漏らす。少しだけ恥ずかしかった。
「絵堂さん、あなたは何者なんだ?」
「さっきから独り言が達者だな。独り言発表会があれば、ヒーローになれるぞ」
「殺そうとしているんだよ。しかし、どうも通らない」
サイグルは何もない空間で手を動かす。まるで本のページを捲るような動作だった。
「正確には通っているんだ。絵堂さんの体力の最大値はしっかりゼロになっている。ここに来た頃には、世界の認識では絵堂さんは死んでいた。それなのに、どうして動けるんだろう」
「言っていることの殆どは理解できないけどな、一つだけ理解できたことがある。俺が死んでいたってどういことだ?」
「その聖剣は持ち主を殺すんだよ。常に奪命の能力を展開し続けているからね。そうするように作った。だから絵堂さんはその剣を持った瞬間から死んでいるんだ。少なくとも、世界と運命の中では死んだことになっている。それなのに生きているから不思議なんだよ」
サイグルの顔に冗談はない。
「耐性で弾いているなら、その耐性を強制的に剥がせばいいんだけど、絵堂さんの場合、耐性もなしで、しっかり効いているのに、効果が現れていないという意味不明の状態だから、次の手が浮かばないんだ」
「聖剣って認めた主も殺そうとするのか?」
「絵堂さんは認められていないよ。今も絵堂さんを殺そうと頑張っているはず」
「そういうことね」
絵堂は聖剣を見つめる。いつ見ても装飾が素晴らしい。コレクションできればこれ以上はないだろう。やっぱり物好きに売りつけるのが最高の使い道に思える。
そんな聖剣は常時、絵堂を殺そうとしている。初めて手にした瞬間からずっとだ。絵堂は悲しみを覚える。聖剣には認められたと思っていたのに、まさか認められていなかったなんて。
サイグルは自分のすぐ横に手をかざす。
「盗賊を生成。死を適用」
盗賊が突然現れ、死んでいった。
「……死の概念に細工をして耐えているわけでもない……か」
サイグルは絵堂が知らないところで結論を出す。拍子抜けなほど戦意を放棄して、遠くを見つめていた。
「絵堂さんを調べて協調性が無いとか無職だとか知る内に薄々感づいていた。殺害を勝利とするなら勝てそうにない。どうしても勝とうとするなら、勝利条件を別で設定する必要があるか」
絵堂にはサイグルが何を考えているのか関係はない。距離があるなら走って詰めて、聖剣をサイグルに押し込むだけだ。
それを実行しようとした。しかし絵堂の足は動かない。サイグルが指さした先にローレルがいたからだ。
「絵堂さん、その娘は大事な仲間かな」
「……俺に聞くな」
「よくわかった。じゃあ個人的に納得できる勝利条件として、あの娘を殺すを目的にしよう。世界を弄って殺すのは簡単すぎるから、こちらも絵堂さんと同じ土俵に上がらなければね」
サイグルの手に一本の剣が現れる。それは絵堂が持つ聖剣と瓜二つだった。二本目の聖剣と言っても差し支えないだろう。
「剣は知らないんだ。うまく扱える自身がない。だから、お手柔らかにお願いしたい」
「独り言はもういいのか? 剣の扱いに関しては、こっちも似たようなものだ。でもいいのか? ローレルの生死は俺には関係ないんだが」
「そうか」
サイグルが一瞬だけローレルに目を向けて、その後にローレルに手を向ける。その指先から弾が放たれた。椿のような赤い線が、一直線にローレルへ向かっていく。
絵堂の無意識が働く。弾とローレルの間に割り込んだ絵堂は、その弾を聖剣で弾いた。
聖剣は激しく振動する。ローレルに当ったらどうなっていたか、あまり考えたくはない。
「これは気まぐれだ」
絵堂は振り向いてみる。ローレルが必死に口元を動かしているのが見える。声は聞こえないが、口の動きで言葉を察するくらいはできた。非常に下らない文言を延々と続けていた。
絵堂は溜め息を漏らす。大きな荷物を抱えてきてしまった。置いてくればよかった。
しかし、ローレルがいなければ、道に迷ってここまで来られなかったが。
ローレルの命が危険だとか、そんなことはどうでもよかった。本当にどうでもいい。嘘じゃない。本当に嘘じゃない。これ以上言わせるな。
それでも絵堂はサイグルの射線を遮る。絵堂の頭にあるのは、敵対しているサイグルの好きにさせたくない、という言い訳だった。
「質問していいか? ローレルの魔法詠唱? を止めるにはどうすればいい?」
「絵堂さんが勝てば、開放すると約束するよ」
「要するに自分は殺すなってか? きっつい枷だな」
「お互い、不可能という意味で殺せない。此方の敗北条件は、攻撃を当てられる、でいいかな」
「即死はない場所に当てろってことだな?」
「そこは気にしなくていい。こちらも頭や心臓を始めとした急所を潰されて絶命するほど軟じゃない」
悪趣味なサイグルは持っていた聖剣を自分の心臓に突き刺す。しかし血の一滴も漏らさない。まるで聖剣が体の一部のように自然に生えていた。
「接続。真理の設定。一、私は常時無敵である。二、この場で起こる現象は、世界に影響を与えない。終了」
お互い口角を上げる。それは笑顔と言うよりも一種の威嚇だった。
「用意はできた。じゃあ始めようか」
サイグルが手品のようにコインを生み出す。それを高く放った。ゆっくりと回転しながら、下から上に、上から下に向かった。地面に向かって落下していく。
コインが落ちた瞬間が、始めの合図だとは誰も言っていない。コインが地面に触れる直前に、サイグルは隠し持っていたもう一枚のコインを指で弾いた。
コインの軌道は絵堂の脇の下からローレルを狙っていた。本来であれば反応すらできない神速だ。しかしコインは絵堂の手のひらで容易く止められた。
「焦りすぎじゃないか?」
「今のコイン、絵堂さん以外に誰が止められる? 楽しいってのは認めるよ」
絵堂はコインを摘んで眺める。見たこともないコインだった。貨幣ではなさそうだ。しっかりとツヤ消しされた銀色で、子どもの顔と女性の顔が刻まれている。
「息子と妻だ。軽トラックで絵堂さんと会うまでの――」
「家族を武器にするなよ。泣かれるぞ」
「それなら、次はこれで」
カチャリと、サイグルの聖剣が鳴く。
「いくぞ」
時間が止まったかと思うほど速かった。実際似たようなものだったのだろう。絵堂の目がサイグルの動きを認識するよりも早く、サイグルの聖剣と絵堂の聖剣が触れ合った。
剣の扱いを知らない子供のように、暴力的な一撃だった。それでいて速度は光を凌ぐ。手に伝わる振動が最初で、次に目で見て、最後に音が届く仕組みだ。正確には、音を聞くよりも先に、二撃目、三撃目が先にやってくるのだが。
よく防ぎきれている。絵堂は自分を褒め称えた。光を超える速さで剣を打ち込まれたのはこれが初めてになる。こんなデタラメな攻撃を防げる感覚が己に備わっているとは知らなかった。
同時に絵堂は聖剣も褒めた。聖剣の名は伊達じゃない。酷い嵐の中でも刃こぼれすらしない。普通の鉄の剣なら、束にしても一瞬で砕け散るだろう。
ここにきて聖剣を好きになれそうだ。もう少し、頑張ってくれ。
絵堂は聖剣を握る手を持ち替えてから聖剣を振る。
聖剣が二人の間で交差する。聖剣もしくは自分が潰れてもおかしくない震えが伝わってくる。それでもお互い押し負けない。
絵堂は初めて自分の本気を知った。面白いことなんて何もないのに、笑わずにはいられない。力いっぱい押しても、押し返してくる。絵堂が他の全てを頭から排斥していると、ついに絵堂の聖剣にヒビが入った。
サイグルが踵を軸に回りながら横にズレて、ローレルを正面に見る。サイグルの勝利条件はローレルの殺害。このままローレルに飛び道具を投げれば決まりそうだが、それでは絵堂に防がれる予感があった。だから自分で突っ込む。
しかしそれも絵堂の聖剣が行く手を遮る。
絵堂の横薙ぎがサイグルに襲いかかった。そんなものにやられるくらいなら、もう決着が済んでいるはずだ。サイグルは聖剣の間合い分、後ろに退く。
サイグルは、なんとか絵堂をどかして、ローレルに一撃を入れなければいけない。そのために、サイグルは上段から一撃を入れる。全力の一撃。過去にも未来にも防がれない一撃。しかし今だけは通らない。絵堂は難なく受け止めるのだ。
そのときサイグルは一つの異変を見つける。それは聖剣のヒビだ。
本来有り得ないはずだ。聖剣は壊れないようにできている。しかし現実に絵堂の聖剣にはヒビが入っていた。狙わない手はない。
サイグルは限界まで絵堂と向合う覚悟を決める。一時的にローレルを意識から排斥して、聖剣のヒビに集中する。
好機はいくらでも転がっている。サイグルはそれを拾い上げた。
もう一度、上段から一撃を叩き込む。今回は角度をずらして、絵堂がひびの部分で受け止めるよう仕向けた。サイグルの計算は完璧で、未来は予想通りの絵を描く。
剣の破片が飛び散った。聖剣が折れる。
その現象に対しての反応は、絵堂とサイグルで差があった。
絵堂は聖剣を信頼し始め、折れるなんてこれっぽっちも考えていなかった。驚きに捕らわれる。
サイグルは狙っていた。聖剣が折れると知っていた。だから次の行動へ自然に移れる。
二人の差異が、距離になって現れた。
ローレルを狙うサイグルは、まっすぐローレルに向かって突っ込んだ。行く手を阻む聖剣はもうない。光を置いてくる速度で、ローレルに刃を向けた。
絵堂には手元の折れた聖剣を見つめている時間はない。どうするか考える時間もない。サイグルは文字通り一瞬でローレルの首を飛ばすだろう。
「させるかよ」
絵堂がゼロ時間で紡いだ言葉は誰にも届かない。なぜなら、絵堂は自分の声をぶっちぎってサイグルの背中を叩くからだ。
走るのは得意だ。子供の頃からやっている。絵堂が走ると、家屋が倒壊したり話にならない被害が発生した。身近な大人から、走るな、騒ぐなと止められ、走らなくなっていった。
今はその走りが求められている。求めているのは絵堂自身。もしかしたらローレルも。
サイグルは勝利を確信していた。聖剣を握り直し、ローレルの首を飛ばす準備を終える。
唯一の懸念点である絵堂は、ずっと背中に置き去りにしてきた。そのはずだった。
突然、サイグルの背中が熱くなった。その熱は留まらない。まるで酸で焼かれるようだった。
原因は想像できる。後方から凄まじい圧が迫ってくるのだ。その圧は瞬く間に膨れ上がり、雁字搦めに纏わりついてくる。
振り向きたくはなかった。しかし振り向くしかない。このままでは、ローレルに届く前に圧力だけで押さえつけられる。
絵堂の対処をするために振り向く。しかし、もう遅かった。指の間にコインを一枚挟んだ拳が見える。
後ろから追いつけるはずがない。サイグルは他には何も思わなかった。思う時間がなかった。
「遅いな」
サイグルはそう言われた気がした。絵堂が何かを言ったのは確かだが、内容は定かではない。言葉を聞く前に、絵堂の拳がサイグルを貫いたのだから。




