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 白い蛾に殺意が芽生えた。目についた、それだけの理由でだ。

 蛾では通行の邪魔をするには体が小さすぎる。道の中央を陣取っているが、簡単に通り抜けられる。それなのに、絵堂の足は遅くなった。

 ほぼ無意識的に踏んでやろうと決まる。子供の頃から、虫を殺すのには慣れていた。この蛾もそうなるだろう。

 蛾はいるだけで何もしていない。絵堂の行為は八つ当たりだ。自覚しても、振り上げられる足は止まらなかった。

 危険を察知したのか、蛾は飛び立とうとする。しかしもう遅い。白い蛾は黒い革靴と地面に挟まれた。道にあった唯一の白が隠されて、足元は全て黒に変わった。

 静かな道に一人分の足音が響く。夜風が木の葉を揺らす音もあった。

 この路地にいるのはたった一人。絵堂だけだ。昼間であれば買い物へ向かう主婦や学生など、通行人があったかもしれない。今は絵堂以外には誰も居ない。一人きりだった。

 時間帯を考えると夕飯の匂いが漂ってきそうだ。しかし、それもなかった。ここ近辺が完全な無人になっていて、世界を独占しているようだった。

 ため息をすると、広がり消えていく。息が、月のない空に溶けた。

 絵堂の足取りは重い。帰宅という一部の人以外が永遠に飽きずに続けられるような行為の真っ最中にあるにも関わらず、気が重かった。

 もう嫌になる。

 そう心で叫んだ。当たり前だが、誰も言葉を返してくれない。必然の無言が、まるで今の状況を肯定したように思えた。これは現実だと。


 ……仕事をクビになった。これで何度目だろうか。五回目までは数えていた記憶がある。順番に過去を辿れば正確な数が出そうだが、やっても誰一人救われないだろう。自爆をする趣味は持ち合わせていない。

 この場所は、なんて静かで平和なのだろう。忙しない人は存在しない。時間が緩やかに流れている。絵堂にはそれが嫌味に思えた。

 自分を嘲笑するように鼻で笑う。これがスイッチになったのか、感情が浮き出てきた。

 ふざけるな、と舌打ちが出た。ちょっとしたミスをしただけじゃないか。人は大なり小なりミスをするものだ。一々、ケチをつけていたらキリがないのに、あいつらときたら。

 思い返してみれば、ミスと言うには規模が大きかったかもしれない。しかし、誰だってあのくらいの問題は起こすはずだ。

 どうして自分だけと思いが湧いてくる。そんなことを考えたところで、納得できる答えは出てこない。自分が気落ちするだけだ。考える意味がない。

 木の棒よりはマシ程度の動きしかしていなかった足に、小さな力が入った。牛歩だった足に燃料が注がれたのか、いつも通りの速さで歩き、早歩きになり、小走り、そして最後には両腕を振った全力疾走まで届く。

 くたびれた鞄を振り回し、無理をさせても気に留めない。絵堂は鬱憤を晴らすために地面を蹴飛ばし走った。

 ふざけるなと心で連呼しながら、全力で身体を動かす。これは効くようで、徐々に楽しさがやってくる。

 絵堂の家は集合住宅だ。それが見えてきた。上下に動く視界には、たまに利用する自動販売機と、ゴミ捨て場が入った。その奥にある白い壁で四角い建物が、絵堂が寝起きしているインテリハイツ。七階に絵堂の部屋がある。

 全力で走ったが、まだ落ち着かない部分もあった。あの元上司の顔を思い出すと、拳を我慢しなければよかったと後悔しそうになる。

 でも、このまま全力疾走で家に突っ込むわけにもいかない。家は全力で走れるだけの広さがないのだ。

 落ち着くまでどこかを一周走ってもよかったが、今日はもう帰ると決めた。精神的に疲れてしまった。

 減速をかけ、通りに入る。家はこの通りを渡ればすぐだ。

 この通りは今までの裏道とは違い、少しだけ広くて車通りもある。横断歩道はない。車が来ない瞬間を見計らって渡るのが常なのだが、今日はそれをサボってみた。

 車通りが多い道ではないのだ。いつもであれば、問題はない。しかしたまに面倒がってみたときに重なるものだ。

 やわらかな布が撫でるように、絵堂の右頬で光が滑る。ほんの微かに温かさを感じた。

 顔が右側に引っ張られ、顔全体に光が当たる。眩しさで目がくらんだが、すぐに慣れた。

 瞼を開くと、よく見えた。暴走していると表現しても差し支えないような軽トラックがこちらへ向かっている。

 その軽トラックは、法定速度を知らないようだった。もしくは、ここを高速道路と勘違いしている。高速道路でも速度違反だが。

 真っ直ぐ続くこの道を有効活用しようと、必死にペダルを踏んでいるらしい。それでも、チーターよりは遅かった。

 絵堂は冷静だった。このままでは軽トラックとぶつかる。そう確信しながら、心の中では漣すら起きない。

 どうやら軽トラックはブレーキを付け忘れているようだ。減速は全くしなかった。

 仕事をクビになった絵堂には、もはや失うものはない。どうなろうとも、何も持っていないという点は変わらない。

 絵堂は八つ当たりの意味を込めて、避けようとすらしなかった。このままぶつかれば、不幸な人が増えるだろうから。

 最後、運転席と目が合うまで瞼を閉じなかった……。フロントガラスの向こうには、黒い髪、茶色い瞳。流れる汗があった。汗は焦りによるものだ。急いでハンドルを切ろうとしているが、もう遅い。絵堂との衝突は避けられなかった。


 酷い音がした。タイヤが擦れる音、シャーシがへしゃげる音、フロントガラスが細かく砕けて周囲に雨のように降り注ぐ。

 止まった頃には、軽トラックにもはや原型はなかった。くしゃりと握られた紙に描かれた絵のようだ。

 もうすぐ誰かがここに来るだろう。耳をつんざくほどの轟音があった。誰の耳にも届いていないとは考えにくい。野次馬目的であれ人目は増える。

 今はまだ、誰もいない。軽トラックが動かなくなってしまえば静かなものだった。

 血とオイルが混じり合う異臭の中、絵堂は小さく開けた口から零す。

「弱い」

 軽トラックに轢かれれば、少しは痛みがあるかと思っていた。しかし現実は、おもちゃのプルバックカーに轢かれるようなものだった。

 スーツは少し汚れてしまったようだが、他に損害はない。スーツを叩いて埃を落とした。

 そうしていると、手にべたりと何かが付着した。街灯を頼りに手を見ようとしたが、それよりも先にオイルの匂いが鼻を刺した。汚れを損害と言うなら、手にもダメージを追ったわけだ。

 対する軽トラックの損害は悲惨の一言しかなかった。運転席は生死を確かめるのが馬鹿らしくなるほどの状態だ。

 運転席では、首が外れかかっているように垂れ下がっている。首が折れているのかもしれない。実際にそんな人を見た経験はないので、推測するしかないが。

 他には、蛇のように折れ曲がったシャーシが、腹部にトンネルを作っている。フロント全てが潰れていてよく見えないが、シャーシの伸び方と運転手の位置から、体を貫通しているのは間違いないだろう。

他にも酷い箇所は多い。肋骨が捻れて見える角度で露出しているし、肘が間違った方向を向いている。どこかに眼球が転がっていても不自然には思わないほどに、体全体が崩れていた。


 絵堂は唇を噛む。それは後悔の印だった。血の泉を見ても、楽しいと思える感性は持ち合わせていない。

 避けられない事故だった。しかし事故の直前に、八つ当たりの意図があったことが尾を引いた。加害者みたいな気分だった。

 この場に埃の一つも落ちていないなんてことはない。絵堂まで至るだけの証拠がこの現場には残されているはずだ。足跡も残っているだろうし、もしかしたら目撃者がどこかにいるかもしれない。明日には絵堂の元に警察がやってきて、話を求められるだろう。

 最終的には鉄格子の向こう側に入れられる。それだけであれば問題はない。鉄格子なんて粘土みたいなものだ。

 やはり仕事が懸念点になる。もし報道でもされてしまえば、絵堂の悪いイメージが広がるはずだ。仕事が見つからなくなる。八つ当たりで死人を出すなんて聞いたこともない。

 しかしそれ以上に……。絵堂は潰れた軽トラックを見つめる。彼に家族がいなければいいけれど。

 惨状から目を背けてから、絵堂は自室へとつま先を向ける。野次馬共に注目されたくなかった。誰も来ないうちに立ち去りたい。

 我が家と呼んでいる集合住宅まで、たった数歩だ。絵堂はいつもの足取りで、自室へと向かった。建物に入ってすぐの階段を登る。絵堂の部屋は、最上階付近の七階にある。

 階段を上る間に、大きな声が聞こえてきた。絵堂の次に惨状を見た人は大きな声で叫ぶ。「なんじゃこりゃ!」と。


 部屋は朝と同じで汚かった。足元には衣類か雑貨か、食事後の容器が常にある。興味のないジャンルの雑誌も転がっていた。いつ何を思って読んだのか記憶にない。ちょっと惹かれて持ち上げてみると、一年以上も前のものだった。表紙にいるおばさんも、今ではもう少し皺が増えているのだろう。

 我が家は、自分でも呆れるくらいに何もなかった。ゴミは沢山あるけど、家具や娯楽がまるでない。ゴミが片付けば、ほとんど空き部屋みたいになる。

 いつも何をしているのか思い出してみると、寝て起きるばかりだった。あとは、窓からの景色を眺めたり、夏なら隣人が鳴らす、馬鹿みたいにでかいテレビの音を聞くくらいだろうか。

 今日はなにもない。強いて挙げるなら、外が騒がしいくらいだろうか。事故現場にもう多くの人が集まっているらしい。

 警察が来るのは翌日とは言わず、今夜中になるかもしれない。だとしたら、笑えないな。

 それまで休みを取っておこう。

 絵堂は不自然に陥没したクッションへと向かう。ゴミを大股で二歩、跨いで辿り着く。そのクッションは食卓でもあるから、周囲には弁当や惣菜のゴミが特に多かった。ただ牛乳だけは、ここでは絶対に飲まない。

 着替えもせずに屈んで、黄ばんだカバーを纏った長年の相棒に体重を預けた。もはやこのクッションに柔らかさはない。酷く硬かった。人によっては雑巾と呼ぶだろう。染み込んだ汚れも相まって、反論の余地はない。

 寝床を買い換えようと初めて思ったのはいつだったか。あの雑誌よりも昔だったっけ。過去を思い出すと、きっとこの先もゴミみたいなクッションに睡眠を助けてもらうのだと確信した。新調しようと思うだけで、実行は絶対にしないのだ。

 絵堂はバカバカしいと笑いながら、瞼を落とした。


 突然、光が現れる。閉じていた瞼が瞬時に覚醒し、何事かと首が自動に左右する。

 目に入ったのは円形の模様だった。絵堂を中心に部屋の半分を埋めている。その模様は器用で、紐を垂らしたようにゴミに曲線を描いていた。

 試しにゴミを蹴飛ばしてみる。これで模様が崩れるかの実験だ。結果、模様は壊れない。ゴミは壁に当たるまで空中浮遊を続けたが、模様は床に落ちて留まった。

 模様は光を強くする。絵堂にはこの模様は理解できない。しかし只事でないくらいは察した。

 とりあえず模様から離れよう。決めてからすぐに動いた。しかしもう遅かった。

 起き上がろうとして床に手をつく。指が模様に触れ、熱を感じた。それに驚いていると、あっと言う間に光が強くなり、部屋中に満ちる。

 周りが光だらけで、目を凝らしても何も見えない。模様から離れようと数秒前に考えたが、頭の中は空っぽになって何もできなかった。

 光が収束していく。瞬きを少なめに周囲の確認を第一にした。

 気がつけば、絵堂は自室にいた。光が完全に収まって、床の模様も消えている。

 部屋にはゴミばかり。ほとんどはそのままだが、絵堂の周囲だけゴミが消えていた。模様があった場所のゴミが片付けられ、綺麗になっている。

 一体何が起きたんだ。説明してくれる優しい色男、もしくは麗人のどちらもいない。なんて不親切な世界なのだろう。自分で考えるしかなかった。しかし判断材料が欠けている。

 まず、あの模様は何だったのか。今では跡も残っていない。唯一の手がかりは、絵堂の周囲にあった消えたゴミだ。さっきまで寝ていたクッションも消えている。新しい寝床を買うしかなくなったようだ。

 一部のゴミが消えただけで、かなり綺麗になった。感嘆の声が漏れ出たくらいだ。突然起こされたのは気分が悪いが、総合的にはとてもありがたい。

 あまりにも突然のことで、いろいろと判断が遅れた気がする。それが勿体なかった。

 絵堂は部屋を見回す。模様の痕跡があるなら見つけたかった。

 痕跡は発見できないまま、絵堂の意識は別へと吸い取られる。外が光って見えた。

 今は夜のはず。それなのに、外は明るかった。いいや、昼間にしても明るすぎる。

 絵堂は窓を突き破り、ベランダへと出る。手すりを両手で握り潰して、体を乗り出した。

 外を明るくしている光は白。地面から湧き出ている。まるで所狭しとスポットライトを並べて空を照らしているような密度だ。

 視界が続く限り、その発光は続いていた。遠くに見える山も、すぐ近くにある豪邸も光の中にあった。

 唯一、光から逃れているのは、絵堂がいる集合住宅だけ。このインテリハイツだけが世界から孤立しているようだった。

 光はどんどん強さを増す。絵堂はすぐに、光りの心当たりに行き当たった。さっき、自分の周囲に現れた模様に似ている。

 気づき、はっとした。模様が発した光は、部屋にあったゴミを消した。外に溢れる光が、あの模様の光と同質のものなら、夜が戻ると街はどうなってしまうのだろう。人が築いたこの街が、ゴミと同じ扱いだとしたら……。

 光の強さが増して、答え合わせの時が来る。

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