諸葛亮宮前(3)
薫は、宮前先生が準備していた鏡の前に立ち、深く溜め息をついた。
薫が睨みつけた鏡の中では、妹の美咲が、同じ様に薫を睨み返してくる。
再び溜め息をつくと、薫は試しに微笑みながら、ロングヘアーのカツラをなびかせた。鏡に映ったその姿は、美咲の動きそのものだ。
薫がまぶたを閉じると、自然に深い深い溜め息が、零れ落ちる。
(認めたくない……)
薫は、悲しみが宿る瞳を見開くと、慣れないスカートを翻し、意地悪い笑みを浮かべる宮前先生に叫んだ。
「良いんですか、これで!?」
遅れてやってきたカツラが、薫の顔を覆い隠す。薫は、そんな髪の毛を荒っぽく振り払った。
宮前先生は、睨みつける薫の全身を、舐める様に確認すると「うむ」と頷き、言葉を続けていく。
「良く似合っているぞ、桜木。それでは説明しよう……」
宮前先生の交換条件は、薫の事を秘密にする代わりに、新しい制服のモニターをしろという不思議なものだった。しかも、女生徒の……
そして、事の詳細が宮前先生の口から明かされる。
「今回の君の任務は、その姿で校内を歩き回る事だ。しかし、それだけではない」
そう言いながら、宮前先生はプリントを十数枚を、机の上に静かに置いた。
「何ですか、これは?」
薫がプリントに目を落とす。首を傾げる薫に、宮前先生は説明を続けた。
「部員募集のポスターだ。ただ歩き回るだけというのは、不自然だろう。だからついでに、校内の掲示板にこれを貼って来てくれ」
薫は、さらに首を傾げた。
(カツラや制服まで準備して、本当は僕に、何がさせたいんだ? この人は……)
いくつかの疑問が、頭の中に浮かんでくる。
(こんな事で、本当に大丈夫なんだろうか……)
難しい顔をする薫に、宮前先生は軽い言葉で言った。
「何だ? 簡単過ぎて納得できないか」
「少し……」
薫が不安げに答えると、宮前先生はニヤリと笑い、楽しそうに続ける。
「じゃあ、ミッション追加だ」
「え?」
嫌な予感が、薫の頭を過ぎった。
「もし、校内で誰かに桜木薫として声を掛けられたら、声を掛けた人間の言う事を何でも聞く。例え『好きです。俺と付き合って下さい』でもだ。これなら、文句はあるまい」
完全に墓穴だった。薫は一人、頭を抱える。そんな薫を見ながら、宮前先生は笑うと、薫に塩を送り始めた。
「大丈夫、見た目じゃ、すぐに桜木だとは、わからんさ。……だが、気を付けろ。仕種なんかでばれる事があるからな、女子に成り切れよ」
宮前先生は言い終わると、薫の両肩をバシッと叩き「さあ行くんだ、その顔を上げて」と歌い始める。
薫は、全てをあきらめ、溜め息をつくと、机の上のプリントを抱えた。
(とりあえず、やるしかないか……)
楽しそうに歌い続ける宮前先生を一瞥すると、薫は生徒指導室を後にした。
薫は、ヒラヒラと落ち着かないスカートを気にしながら、順調にポスターの枚数を減らしていた。
廊下の窓からは、グラウンドで練習する、野球部や陸上部の元気な姿が見える。逆に学校の廊下は、時間が時間だけに、行き交う人影もなく閑散としていた。
(案外、楽勝だな)
薫は、鼻歌混じりに最後の一枚を残して、全て貼り終える。
(いくら、宮前先生でも約束は守るだろ)
薫は安直な考えを巡らせ、一息吐き出すと、最後の目的地に爪先を向けた。
その場所は、図書室前の掲示板。
例え放課後であったとしても、誰かと遭遇する危険性が一番高い場所だと判断していた薫は、そこを一番最後に回していた。
しかし、最初は慎重な計画を立てていた薫も、つい気持ちが盛り上がってしまい、小走りで廊下を進んでいく。
そんな油断しきった薫の鼓膜を、突然透き通った声が刺激した。
「桜木さん?」
完全に不意を突かれた薫は、自分の名前が呼ばれたままの状態で、固まってしまう。
(しまった……バレた)
普段流れる汗とは異なる汗が、薫の額から流れ落ちた。
不自然に止まった薫は、ぎこちない動きで声の主を確認する。
視線の先には、一人の少女が立っていた。
長い髪を両端でまとめているその少女は、大きく綺麗なブラウンの瞳を不安げに下げて、薫の顔を覗き込んでくる。
どこと無く、日本人離れした彼女の雰囲気は、どれだけ記憶をさかのぼっても、見付ける事ができなかった。
(誰?)
薫の素朴な疑問を見透かす様に、少女は薄い唇を動かし始める。
「覚えてないですか? 志倉美月の妹、志倉皐月です」
薫は、首を傾げる。
名前を聞いても、わからない。
(お家を聞いても、わからないだろうな……)
つまらない童謡が、薫の頭を巡っていると、皐月の口から、思いがけない言葉が飛び出した。
「桜木、美咲さん……ですよね?」
以外な言葉に、薫は目を丸くする。
まさか、妹を知る人物が同じ学校にいるなんて、思ってもみなかった。
(志倉美月が、美咲の学校友達で、美月の妹の皐月が、僕と同じ学校だったって事か……)
これなら全て、つじつまが合うと、薫は勝手に納得した。
(つまり、まだ、僕だって事はバレてない)
ここで宮前先生の言葉が、薫の心を突き動かした。
『女子に成り切れ』
つまり、今は『美咲に成り切れ』だ。
とりあえず薫は、できる限り美咲の声色に似せて口を開いた。
「ゴメンね、皐月ちゃん。急に声を掛けられたから、ちょっとびっくりして……まさか、こんな所で会うなんて……」
ぎこちない話し方だったが、薫の笑顔が効いたのか、覚えていてくれた事が嬉しかったのか、皐月の顔がパッと明るくなる。
「よかった! 人違いじゃなかった。……でも美咲さん、こんな所で何してるんですか?」
皐月は軽く首を傾げながら、質問した。それに薫は適当な嘘で答える。
「ちょっと、薫の様子をね……」
「薫さんって……あ、確か、美咲さんの双子のお兄さんでした?」
皐月の顔が、徐々に薫に近付いてくる。その勢いに薫はたじろいだ。
(あの、近いんですけど……)
気が付けば、皐月の顔が、正に目と鼻の先。微かに香るシャンプーの香りがくすぐったい。
薫は一瞬、我を失いかけたが、必死にこらえて、言葉と共に皐月を押し返す。
「近いから」
残念そうに口を尖らせていた皐月は、薫の言葉に微笑んだ。
「美咲さんは、本当に恥ずかしがり屋ですよね。でも、そんな所が……私、大好きです!!」
衝撃だった。薫の開いた口が塞がらない。
そんな薫を無視し、皐月は頬を赤色に染めた。
何かいけない事を聞いてしまったと感じた薫は、本能的にその場から逃走を試みる。
(逃げるが、勝ちだ)
もじもじと余韻に浸る皐月を置き去りに、薫は全速力で廊下を駆け出す。しかし、それに気付いた皐月も、侮れない速度で薫を追い掛け始めた。
「待ってぇ〜! 美咲お姉様ぁ〜!」
背後から迫り来る皐月に恐怖を感じながら、薫は走った。
振り返ると、恍惚の表情を浮かべる皐月が、さらに速度を上げる。
もう、自分の姿が美咲だという事を忘れ、薫はスカートを振り乱し、全力で皐月の追跡を逃れようと、無我夢中で校内を駆け巡った。
しかし、いつかは体力の限界がやってくる。薫が、酸素不足になりつつある頭を精一杯振り絞ってみても、良い考えは浮かばなかった。
(どうしよう……)
薫の心に、あきらめが広がりかけたその時、文字通りの救いの手が、薫を掴んで教室に引っ張り込む。しかし、引っ張り込む力が少し弱かったこともあって、薫は勢い良く扉の枠に顔面をぶつけた。
「あだっ!」
薫が激しい痛みと共に、なんとか教室内に転がり込むと、扉が勢い良く閉められる。
ターゲットを見失った皐月は、猛烈な勢いで、そのまま廊下を走り去って行っく。
(助かった……)
扉越しにそれを確認した薫から、安堵の息が漏れる。
(でも誰が、僕を?)
呼吸を整えながら、その答えに視線を移すと、そこには眼鏡の位置を直す、我らが委員長の姿があった。
(委員長……)
薫が口を開くより先に、委員長の声が薫を気遣う。
「大丈夫? 桜木君」
いつもと変わらない、委員長の語調が、薫にはとても優しく感じられた。
「ありがとう、委員長。助かったよ」
呼吸が調い始めた薫は、言葉と一緒に安堵の息を漏らす。そこで薫は自分の姿を思い出した。恥ずかしさが急に込み上げてくる。
薫がバタバタと慌てる姿は、とてもかわいらしく、そして滑稽だった。
そんな薫を見て、委員長は笑みを零す。初めて見る委員長の笑顔は、何だか以外で、薫はつい、見取れてしまった。
(こんな顔もするんだ……)
つられて薫の顔にも笑みが浮かんだその時、教室の扉が勢い良く開く音がする。
薫は、まさかと、反射的に音のする方を見た。
そこにいたのは、予想外の人物。ニヤリと笑う宮前先生が薫達に歩み寄りながら、溜め息を漏らし、口を開いた。
「残念だったな、桜木『君』」
その言葉が示すのは、宮前先生との約束。
「しまったあ〜!」
薫が声を上げながら、その場にへたり込むと、宮前先生は「さあ、約束通り委員長の言う事を聞くがいい……」と、大袈裟な身振り手振りで委員長を促し始める。
言う事を聞くという約束に、少し薫は戸惑ったが、全然知らない人間に求められる事でもないし、助けてもらった委員長の願いだったら聞いても良いかと、心を落ち着かせ、委員長を見上げた。
そんな薫に委員長は、突然の申し出にも困った顔一つせず「じゃあ」と考えた後、薫の握り締めたポスターを指差し、口を開く。
「桜木君は、その手に持ったポスターの部活に入部しなさい」
「え? ポスター?」
薫は、図書室前の掲示板に貼る予定だったポスターに目を移す。
(確か、部員募集の内容だったよな……)
『部員募集!
来たれ演劇愛好家!
次の主役はあなただ!
第三中学演劇部
入部希望者は
部活顧問、宮前奈々子
または、
部長、3年2組委員長、宮前遥まで』
「え、演劇部? 顧問は宮前先生で、部長は委員長?」
薫の頭の中を、パニックにするには十分な内容だった。薫は一つづつかみ砕いて整理していく。
宮前先生の言動。
部員募集のポスター。
登場のタイミング。
そして、委員長のためらいのない、言葉。
徐々に整理されていく薫の頭に、一つの筋書きが浮かび上がった。
(まさか……)
そんな薫に、委員長は宮前先生と同じ、意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「私の書いたシナリオは、常に完璧よ」
その言葉で、薫の全身の力が抜ける。
そんな薫を尻目に、宮前先生と委員長は、同じ様に笑いながら、口を揃えて「約束は、約束だから」と言った。
薫は、宮前先生と委員長に導かれるがまま、演劇部の部室前にやってきた。
第三中学校の部室は主だったクラブ全てに当てられている。運動部はグラウンドの隣にプレハブのクラブハウスが、文化部には校舎と渡り廊下でつながる部活棟と呼ばれる建物に用意されていた。文化部である演劇部の部室は、もちろん部活棟に存在する。旧校舎を利用した部活棟は木造で、音響設備はスカスカ。だから廊下からでも、部室内が賑やかであることから現在も活動中だということが容易に感じ取れた。
薫が、聞こえてくる声に耳を傾けると、どことなく聞いた事がある声が耳に残入って来る。
(あれ? この声って……)
答えがすぐそこまで、出掛かっているのに、出てこない。むず痒い感覚に襲われる薫は、腕を組んで唸り始める。そんな薫を横目に、宮前先生は部室の扉を勢いよく開けた。
「元気か? 諸君!」
宮前先生の声に、演劇部員の視線が集まる。狭い部室内には、様々な小道具や大道具が所狭しと詰まっていた。その中心に辛うじて開けたスペースに並んだパイプ椅子には数人の学生の姿が……部員全員の顔が薫の視界に入った。そして、瞳に映った声の主の答え……
森本陽太。若菜康則。小林梢。葛城弥生。そして……志倉皐月。
開いた口が塞がらない薫に、それぞれの演劇部員が、手を上げたり、笑ったり、俯いたり、『ゴメンネ』と手を合わせたり、自分なりの表現を見せる。
それが全てを物語っていた。
(まさか、ここまで……)
ぎこちない仕草で、薫は委員長に向かって振り返った。そんな薫に、委員長の眼鏡が輝く。
「私は、完璧主義だから」
(完璧主義だからって、正攻法で良かったんじゃないのか? いくらなんでも、これは……)
委員長の言葉は、薫の中のストッパーをはずした。
「やりすぎだって!」
薫の叫びに、宮前先生はニヤリとした後、豪快に笑いながら、薫の肩を抱いた。
「それだ、桜木。私は、飾った桜木を見たくない。ここにいるメンツだったら、地で行け。地で」
豪快に笑う宮前先生の言葉は、全てを見透かしていた様で、薫にとって、とてもありがたかった。
正直、この一週間、薫は仲間外れにならないように、いじめに遭わないために、周りに気を使ってばかりいた。人の顔色ばかり窺って、言葉も当たり障りのない言葉を選んで、窮屈な生活を送っていた。それを、面頭向かって否定して、飾らないで良い、嘘をつかなくて良いと言ってくれた宮前先生が、それを受け入れてくれる友達を示してくれる。
心の中に広がる安心感。そんな落ち着いた気持ちが心の中に広がると、薫は演劇部の全員に言った。
「今日から、演劇部に入ります。これからよろしく!」
薫の言葉に、皆が微笑む。
「こちらこそ」と康則が、「よろしく」と梢が、「お願いします……」と弥生が、順番に返すと、陽太は、胸を張って言った。
「今度無茶しようとしたら、俺が先生を止めてやる」
そんな陽太を、ニヤリと見つめ宮前先生は、腕を組み言い返す。
「何だ? 宣戦布告か? 良いだろう。受けて立とう」
なんだか、そんなやり取りがとても楽しくて、薫は声を上げて笑った。
皆もつられて笑い出す。
部室内が笑い声で包まれたその時、一人の少女が部室内に飛び込んできた。
誰かと、確認する前に、少女は凄い勢いで口を開いた。
「奈々子てめぇ、こんな格好までさせて、何が無罪放免だ!? よくも騙しやがったな!」
(今の声まさか……大輔君?)
薫と同じ制服を着る大輔。金髪のカツラが妙に似合っている。そんな大輔を見つめた宮前先生は「あ!」と口を開き、あっけらかんと言い放つ。
「忘れてた」
「忘れてたで、済むか!!」
大輔の絶叫が、辺り一面に響き渡った。
「ただいま〜」
薫は、自宅リビングの扉を押し開ける。
するとそこには、美咲が仁王立ちで薫を待ち構えていた。異様な雰囲気に、薫は少し後ずさる。
そんな薫を見るなり、美咲は口を開いた。
「薫。学校の友達から電話で聞いたんだけど。今日、あんたの学校で、私が走り回ってたそうじゃない。何でだろうな〜」
美咲の含みのある言葉で、薫の頭に皐月の顔が浮かび上がる。まさかと考えるが、薫は言い訳ができなかった。
黙ったままの薫に、美咲はさらに続ける。
「まあ、今回は適当に、ごまかしといたけど……二度と変態みたいな事は、しないでよね」
溜め息混じりの美咲に、薫は言葉をためらってしまう。どう言ったとしても、事実は事実。悩んだ挙句「ゴメン」と素直に頭を下げた。
そんな、薫に溜め息をつき美咲は「貸し、一だからね」と残してリビングを足早に出て行く。
(美咲に、でかい借りが、一つできた……)
薫は、借りが値上がりしない事を願いつつ、大きな大きな溜め息をついた。