諸葛亮宮前(2)
薫は職員室に向かう廊下を進みながら、クラブ活動について考えを巡らせていた。
(部活か……今から始めても、すぐに受験で引退だよな……)
転校する前は、学校が終わると、美咲と同じ合気道道場に通っていたため、薫は今まで、クラブ活動をした事がない。実際、合気道が楽しかった事もあって、向こうでクラブ活動をしようとは考えた事がなかった。しかし、引っ越して来てからは、合気道の道場に顔を出せなくなっていたこともあり、時間を持て余していた薫にとって、学校のクラブ活動に興味がないと言えば、嘘になる。
そんな薫は、試しに未経験のクラブ活動を想像してみた。
『桜木君、今日は私と、クラブ活動だね』
『違うわよ、私とクラブ活動なんだから』
教室での梢の印象が強すぎたのか、薫の中で、美少女達から引っ張り凧にされる、見当違いな妄想が広がっていくと、自然と口元が緩み出す。
薫も健全な男性だった。
(クラブ活動も、良いかな……)
独りよがりな妄想にふけっていると、ふと、窓に映った情けない自分の顔が目に入る。薫は我に帰った。恥ずかしさが薫の顔を赤く染める。
(何考えてんだよ……全く)
薫は心の中で、くだらない妄想をしていた自分に呆れた。
「どうした桜木、やけに、楽しそうじゃないか」
突然飛んで来た言葉に、薫は本能的に身構える。前を見ても、後ろを振り返っても、声の主が見つからない。
(いったい、どこから?)
しかし、あの声に聞き覚えがある。あれは間違いなく、担任宮前奈々子の声だった。
「こっちだ、こっち」
再び聞こえた宮前先生の声。今度は、聞こえた方向を突き止めた。
(右だ!)
薫は、心の中で叫びながらその方向を見ると、少し開いた扉の陰から薫を覗く、宮前先生の姿があった。
「何してるんですか?」
薫が冷ややかな目線で問い掛けると、宮前先生はニヤリと笑い、薫を手招く。
薫は首を傾げながらも、宮前先生に導かれるまま、半開きの扉をくぐった。
扉をくぐると、小さな部屋に机が一つ、その机を挟んでパイプ椅子が二つ。今までの学校生活で薫に、もっとも縁遠い場所。ここは、生徒指導室。窓から差し込む光りを背に、宮前先生は奥の椅子に腰掛けた。
「ようこそ、奈々子の部屋へ……桜木薫君」
いつもと違う宮前先生の雰囲気に、薫は溜め息をついた。今までの経験上、たいていこんな口調の時、宮前先生は、まともな事を言わない。
(こんな事だったら、小林さん達と部活見学に行けばよかった……)
そんな事を巡らせた薫が、不満げに口を開く。
「何ですか? 突然」
薫の言葉に、宮前先生は眉一つ動かさず「まあ、腰掛けたまえ」と、促した。
言われるがまま、薫は目の前の椅子に目線を落とすと、黙って席に着く。
その姿を確認した宮前先生は、わざとらしく咳ばらいをした後、薫の目を真っ直ぐ見て言葉を紡ぎ出す。
「さて、桜木薫君。私が君をここに呼んだのは他でもない……北川大輔との事についてだ」
「北川君との事?」
意外だった。まさか、ここで大輔の名前が出て来るとは予想できず、目を丸くする。そんな薫を見つめたまま、宮前先生の言葉は続く。
「そうだ……周りからは色々と聞こえて来るが、実際に本人に聞いた方が早いだろう?」
とっさに浮かんだ事は、もちろん薫の番長就任。どう答えたら良いかわからず、薫は口を閉ざして俯いた。
薫のしぐさで宮前先生は、何かを確信したかの様に、大きく息を吐き出し、寂しそうな表情で口を開く。
「沈黙は実際の言葉より真実を語るという……残念だよ……」
「残念って」
宮前先生の言葉が重くのしかかる。場所が場所だけに、薫は妙な不安に包まれた。そんな薫の気持ちを、知ってか知らずか、宮前先生は言葉を付け足す。
「そのままの意味だ、他意はない」
「別に、僕は何も……」
薫は転校初日を思い出し、口から出始めた言葉を飲み込んだ。不可抗力とはいえ、大輔を投げたのは事実。本当に何もしていなければ、番長にもなっていなかっただろう。
「先生はな、それ自体は悪い事ではないと思う。しかし、先生には正直に話して欲しかった」
言葉が出ない薫に、宮前先生は優しく諭す。何だか先生の気持ちを裏切ってしまったようで、薫の心に罪悪感が広がった。
「先生……」
「もう、何も言うな……」
絞り出した言葉も、宮前先生の言葉に遮られて続かない。少しでも疑った自分が恥ずかしくなる。薫は、次の言葉が何であろうとも、真摯に受け止めると心に決めた。
しばらくの沈黙の後、宮前先生はゆっくりと口を開く。
「愛し合ってるんだろ大輔と……」
前言撤回。
やっぱり、くだらない話だった。
「は?」
想定外の言葉に、変な所から声が漏れる。宮前先生は薫の声を無視し、両手で顔を覆いながら、溜め息をつくと、さらに言葉を続ける。
「噂では、男と男の関係があったとか」
「ないから!」
激しく否定。
「実は、体は男で、心は乙女らしいじゃないか」
「違うから!」
さらに否定。
「じゃあ、何で北川は、桜木に『さん』付けなんだ?」
「番長だから!」
とりあえず説明。
「あ」
薫が慌てて口を押さえても、もう遅かった。激しく否定するのに夢中になり、つい口を滑らせてしまう。『聞きたかった言葉はそれだ』と言いたげに、宮前先生は両手を開いて『ばあ』と、したり顔を薫に見せる。
「引っ掛かったな、桜木」
「え?」
宮前先生は、薫の血の気が引いて行くのを目で見ながら、意地悪く笑った。
「実はな、お前が転校する前日、不良やヤクザを投げ飛ばすのを見ていたんだ」
薫の座るパイプ椅子が音を立てる。薫は『それは、妹の美咲が……』と言いたかった。しかし、今度は美咲に矛先が向くのではないかと、不安になる。反論はできない。開いた口をそのままに、目線をそらした。
「こんな事になるだろうと、委員長に調べてもらった。そうしたら、案の定だ。……本当は昼休みに確認しようとしたんだが、他に生徒がいたからな。放課後一対一で確認しようとしたわけだ」
宮前先生は足を組み変えながら一呼吸置くと、威圧するように声を出す。
「暴力事件は、重罪だぞ」
目をそらしたままの薫を見つめ、宮前先生は溜め息をつくと、寂しそうに口を開いた。
「転校して来て、一週間で退学か……寂しくなるな」
具体的な宮前先生の言葉に、薫の背筋を冷たい汗が流れ伝う。薫は目線を宮前先生に戻すと、弱く、つぶやくように声を絞り出した。
「退学? ……どうすれば……」
弱々しい薫の表情に、宮前先生は不敵な笑みを浮かべる。
「心配するな、ここまで知っているのは私だけだ。私の気持ち次第で、桜木の運命が決まる。……どういう意味かわかるだろう」
そこまで、言うと宮前先生は立ち上がり、机を回り込み、薫の隣で立ち止まる。
「何をすれば良いんですか?」
薫が、そう言いながら見上げると、宮前先生は、目を細めながら、そっと薫の頬に触れる。そして、薫の耳元で、怪しく囁いた。
「なぁに、簡単な交換条件だ……」