諸葛亮宮前(1)
諸葛亮孔明:三国志に登場する蜀の軍師。ゲームでは扇で戦い、ビームを撃ったりできる人。意外と強い。
激動の転校初日から、一週間が過ぎ去った。咲き始めだった桜も、今では満開。優しい風が吹けば、綺麗に花びらが舞い落ちる。花びらが舞った空は快晴。時間は朝。薫は大きく背伸びをしながら、市立第三中学校の校門をくぐった。
いつもの登校風景。同じ様に登校する生徒の波に乗って、古風な石畳が敷き詰められた中庭を進む薫は、進路上で直立している、北川大輔に声をかけた。
「おはよう、大輔君」
「おはようございます。桜木さん」
丁寧に挨拶を返す大輔。薫を毎日、同じ時間、同じ場所で出迎える事が、今では大輔の日課になっていた。薫は、そんな大輔を横目に、小さく溜め息をつくと、そのまま口を開く。
「別にここで待たなくても、教室で良いんじゃない? 同じクラスなんだし」
毎朝、大輔に迎えられている薫は、学校中の噂になっていた。その噂には、根拠が無いものが多く、薫の噂でありながら、内容は薫より大輔を悪く言うものが、大半を占めている。
だから薫は、大輔が悪く言われる原因を作っているようで、気が引けていた。しかし、そんな気持ちは相手に伝わらず、大輔は薫を尊敬の眼差しで見つめながら「番長を出迎えるのは、当然ですよ」と言葉を返す。
薫は、周囲の誤解と、妹美咲の悪魔っぷりにより、不本意ながら第三中学校二十六代目番長に就任してしまう。今の所、番長だから何かしなければなならないという事がなかったから、薫は激しく拒むこともしなかった。ちなみに先代番長は、目の前にいる大輔。
番長時代はそれなりに悪い事をしていたみたいだが、本当の大輔は、情に厚く、真っすぐな少年だった。
(本当に律儀だよな)
そんな大輔は嫌いじゃない。
薫は表情を緩めると、行こうよと合図し、歩きだす。大輔はそれに合わせて斜め後ろに付き添った。
「ところで、どうするんですか? 『あいつら』」
大輔の言う『あいつら』とは、大輔が番長だった頃の不良グループ構成員達。薫と出会う前に、美咲に投げ飛ばされた、不幸な人達の事だった。
包帯でぐるぐる巻きになっていた姿を思い出すと、薫の顔に自然に笑みが零れる。
「考えてないよ」
薫の軽い返答に、大輔は声を大にして言った。
「考えてないって、あいつら俺達を騙してたんですよ」
薫には、大輔が言いたい事が良くわかっていた。原因は、あの時大袈裟に巻かれていた包帯。美咲にやられたのを口実に、二中との抗争から、逃げようとしてやった事だった。
大輔はそれが許せないと、声を荒げながら続ける。
「桜木さんは許せるんですか?」
しかし、騙していたと言い切るのは言い過ぎだった。実際に美咲にこっぴどくやられて、怪我をしていたのは事実なのだから……
「許すもなにも、怒ってないから」
薫は溜め息をつきながら言った。その言葉に大輔は、寂しげに口を開き、つぶやく。
「器、でかいですね。俺、桜木さんみたいには、なれないな……」
いつもと違う大輔の言葉に、違和感を覚えた薫は、心配そうに大輔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
薫の声に大輔はドキッとすると、照れ隠しに笑い出し、話題を変えた。
「な、何でもないです。そ、それより、そろそろ教えて下さいよ、どうやって二中をやっつけたのか」
大輔の質問はいつもの事。薫は「秘密、秘密」と、はぐらかし、大輔と共に、校舎の中に入って行った。
いつも通りの昼休み。雲一つない青空の下、薫は森本陽太と大輔と三人で弁当を広げていた。
そんな中、陽太がペットボトルの蓋を開けながら、突然薫に話し始めた。
「なあ桜木、部活とか入らないの?」
薫が答えようと、口の中を空にする前に、米粒を飛ばしながら、大輔が勢い良く口を開く。
「おい森本、何度言えばわかるんだ? 桜木さんだ。桜木さん」
「おい、何だよいきなり。きったねぇな。……何でだよ、桜木は、桜木だろ?」
陽太は顔に付いた米粒を取ると、薫を見ながら同意を求める様に言った。薫が箸をくわえたまま、黙って頷くと、大輔は堪らず声を上げる。
「桜木さん」
「何で、北川は桜木に『さん』付けなんだ?」
陽太の素朴な疑問に、薫が三中の番長だと喉元まで出かけたが、大輔はそれをゴクリと飲み込んだ。そして、薫を黙って見つめる。
大輔は、薫が番長だという事を口止めされていた。
『言わせて下さいよ、桜木さん』と、言いたげな大輔の瞳に、薫は首を横に振る。それを見た大輔は、唸りながら「どうしてもだ」と不完全燃焼な言葉で言った。
とりあえず薫は、安堵の息を漏らすと、陽太に目をやる。
陽太はペットボトルのお茶を飲み終え「どうしてもって」と、不満げにつぶやいた。その瞬間、どこからか薫を呼ぶ声が聞こえる。
「お〜い、桜木ぃ」
三人は反射的に声のした方向に目を向けた。
その中で大輔が不機嫌そうに振り返りながら「桜木さんだろうが」と言葉を飛ばす。しかし、声の主を確認した瞬間、大輔は濁った声を漏らした。
「ゲ、奈々子」
大輔の言う通り、そこには薫達の担任である宮前奈々子先生が、仁王立ちで三人を見下ろしている。
「なんだ北川、最近あいつらと一緒にいないと思ったら、桜木達とつるんでたのか」
宮前先生は、ニヤリと笑いながら大輔を見る。そしてさらに続けた。
「しかも、桜木さんか……恋、するんじゃないぞ、こう見えても桜木は男だ」
「恋なんてするかよ!」
大輔の叫び声が、青い空に吸い込まれる。
「そこまでムキになるか、余計に怪しいぞ」
顔を真っ赤にして叫んだ大輔を指差し、宮前先生は豪快に笑い出した。取り残された薫と大輔は、二人揃って溜め息をつく。
(何しに来たんだ? 宮前先生は……)
薫が心の中で考えていると、陽太が宮前先生に向かって口を開いた。
「で、先生は桜木に何の用ですか?」
豪快に笑っていた宮前先生は、陽太の言葉で、思い出した様に笑うのを止め、薫の方に視線を移す。
「そうだった、桜木に言う事があったんだ……」
薫は微妙な宮前先生の間に、ゴクリと唾を飲んだ。
しばしの沈黙。
その後、宮前先生の口がゆっくりと開き始める。
三人の視線が一点に集中した。その口から出てきた言葉は……
「忘れた」
期待ハズレな答えに、薫達は、揃って肩透かしを受けた様に、力がぬける。
「悪い悪い、放課後までには思い出しとくから、桜木は放課後私の所まで来るように」
笑いながら言い放つ宮前先生に、多少の疑問を浮かべながらも、薫が「わかりました」と応えると、宮前先生は「ちゃんと来るんだぞ」と念を押し、踵を返して帰って行った。
嵐が去った後、茫然とした三人の間を暖かい風が通り過ぎる。それを機に大輔の口からは、三人共通の疑問が零れた。
「いったい奈々子は、何しに来たんだ?」
大輔の言葉が空に消えると、学校のチャイムが鳴り響き、昼休みの終了を告げていく。
放課後、教室で薫はいつもの様に、帰り支度を進めていた。
「さっくらぎ〜」
聞き覚えのある明るい声が、教室内に響く。薫は教科書を詰め込む手を止め、声の主に目をやった。記憶通り、駆け寄ってくる小林梢と葛城弥生の姿が目に映る。
「桜木、今日こそ付き合ってもらうからね」
梢はそう言いながら、いきなり薫の腕に絡み付いた。
「え、あ、い?」
薫は顔を赤らめながら、戸惑いを見せる。そんな薫に弥生は「部活の……見学の……話だから……」と、つぶやく様に言った。
「え、ああ、部活の話ね」
薫は舞い上がった気持ちを、無理矢理抑え付けながら、平静を装う。
「ほら、この前言ったでしょ。オススメのクラブがあるって」
梢はそう言いながら、薫の腕を引っ張った。
(そういえば、そんな事も言ってた様な……でも、今日は……)
薫は申し訳なさ気に掌を合わせ、伏せ目がちになりながら梢の顔を覗き込む。
「ごめん、今日はダメなんだ。放課後、宮前先生に呼ばれてて……」
梢は薫の腕を離すと、つまらなそうに口を尖らせながら言った。
「ふ〜ん。じゃあ、仕方ないか……次は、逃がさないからね」
梢はビシッと薫に向けて人差し指を突き出す。
「ごめん、明日は行くから」
薫がもう一度二人に手を合わせると、弥生の唇が小さく動く。
「約束……だから……」
「うん、約束するよ」
そう薫は言うと残りの教科書を詰め込み、職員室へ向かった。ちょうど教室の出入口で委員長と擦れ違う。
薫が擦れ違いざまに「じゃあ」と言うと、委員長は背中越しに「またね」と返し、梢と弥生の話の輪に入って行った。