リンシャン学校(1)
薫たちの通う中学校では、夏休みに入る前に林間学校という行事が執り行われる。
テストも終わり、受験勉強で一杯の頭をリフレッシュさせようと実施されるその林間学校は、三年生限定。二泊三日の山登りツアーなのだ。
貸し切りバスで、向かうは飛騨高山。青少年の家なんて名前が付いた文部科学省推薦の、施設が宿。クラスごとで六人前後の班を作り、その班で行動する。さすがに宿泊は男女別だが、それ以外はずっと一緒だ。
このイベントを機に付き合う男女も少なくないと躍起になる男子生徒を尻目に薫は、周囲に森しか見えない山道を登るバスの窓から、外の景色をぼーっと眺めて溜め息をついた。
「どうしたんです? 桜木さん」
そう言いながら大輔が、隣の座席で心霊スポットと題された分厚いコンビニなどで販売されている漫画をパタンと閉じる。その声に何とかこたえようと、大輔の向けられた薫の顔は死んでいた。薫の唇は真っ青。ただでさえ白い頬も、蒼白になって生気がかなり薄れている。そんな薫に大輔は息を呑んだ。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、うん。あまり、大丈夫じゃない」
震える声で薫は言った。
何が薫をそうさせたのか?
それは、バス酔いだ。
長い時間、左右に振られ続ける峠道。それに、すし詰めの様に、補助座席まで展開されたバスの中は、クラスメイトで一杯になっていた。もちろん、この環境を望まない薫の精神は、気持悪い状況に拍車をかけている。
そんな状況に今のところ頑張って耐えて来たが、それももう、限界が近い。
最悪の事態が想定される。
メルトダウンだ。
密閉空間の中引き起こされる、最悪の化学反応。いや、連鎖反応か。
そのどちらにしても、バスの中が大惨事になる事には変わりない。
未曾有の危機。ゲロマミレンというあだ名をつけられるだけなら、まだ、百歩譲って耐え忍ぶ事ができるだろう。だが、A級戦犯として晒されるのは我慢できない。そう、想像を巡らせ薫はもう一度、流れる緑の木々に視線を移した。
せめて風を感じる事ができたならばと、恨めしそうにバスのはめ殺しの窓に舌打ちを何度した事だろうか。
込み上げる不快感に、何度座席ポケットに備えられた薄緑のエチケットさんに手を伸ばそうとした事だろうか。
しかし、そんな苦難を乗り越えて薫は今限界のすぐそこまで来ている。いや、乗り越えてしまったから、限界のすぐそこまで来てしまったのだ。
(我慢できる。僕は、やればできる子だ。集中するんだ)
そう心の中で言い聞かせた瞬間、バスガイドの代わりにマイクを持った宮前先生が、キーンと一度ハウリングさせた後、言葉を紡ぎ出した。
〈あー、あー、テステス。ただいまマイクのテスト中。ハローハロー聞こえてますか? クラスメイト諸君〉
その問い掛けに、皆が声を大にして「おー!」と応える。ただ一人薫を除いて。
〈よし、良い返事だ。元気があってよろしい。さて、長いバスの旅ももうすぐ終焉だ。目的地である青少年の家まで、後……〉
そこで、言葉に詰まる宮前先生。その助け船にと、このバスのもう一人の引率である三年一組の担任、倉田総次郎が、清潔感溢れる短髪を面倒臭そうに掻きながら、マイクを持った同僚に耳打ちをする。
「五分くらい」
ゾクリとする感覚に宮前先生は、反射的にマイクを倉田先生の脳天に叩き落とす。
グワーンと車内に響いた音が鳴り止まぬまま、宮前先生が、口を開いた。
「馬鹿かお前は! いくら大学の後輩だからと言ってやって良い事と悪い事があるだろうが!」
「先輩。酷いなぁ。僕、何かいけない事しました?」
少し赤み掛った頬を笑いながら、倉田先生がとぼけて見せた。なかなかの猛者だ。細身の体に整った顔立ち、唯一の欠点と言えば、その眼が恐ろしい程に細いという事だろう。遠くからでは閉じているのか開いているのか、わからない。
「その態度が気に食わん。いや、全てが禁則事項だ」
声を荒げながら、マイクをビシッと目の前に突き出してきた宮前先生に、倉田先生は頭を一度掻くと、口角を吊り上げる。
「かわいいっすね。先輩」
…………?
「な、何おぅ!?」
もう、そこからはバスの中が大騒ぎだ。
まず、マイクのスイッチがONのままだったから、その言葉がバスの中に広がる。
それを、聞いた宮前先生が、「な、何を言うんだ馬鹿」と顔を真っ赤にすると同時、生徒たちの恋愛話スキスキスイッチが一斉にONになった。
「きゃー、倉田先生が好きなのって、やっぱり宮前先生だったんだ」
「付き合ってるのかな? かな?」
「え〜。うそ〜」
あちこちから飛び交う、女子生徒の好奇心。
「付き合ってるって事は、あれだよな」
「ああ、間違いなく。やっているだろう」
「宮前先生のあの胸を、あいつは揉みしだいたのか?」
「ガッツリと揉んでいるはずだ」
その中に混じって男子生徒の思春期暴走。
この状況を、誰が止めるのかなんて、誰も考えていない。いや、一人だけいた。薫だ。
だが、それも考えるだけ。行動に起こせる状況ではない。戦う相手が違うのだ。今は自分の事で精一杯。
そう現実から逃避する様に両手で両耳を塞いだ薫は、精神を集中するため一心不乱に窓の景色を眺めた。
蛇の様なカーブをバスはスイスイと進んでいく。ほとんど対向車が来ない二車線の道路。その脇にはうっそうと茂った森がある。時折、森が開けて景色が変わったと思えば、眼下に見下ろす豆粒の様な人間世界。一瞬空を飛んでいる様にも感じられた。
何度かのカーブを抜け、また森が窓枠を埋め尽くす。流れ続ける木々の中、ふと、薫の瞳に一人の少女が映った。長い黒髪。白いワンピース。麦わら帽子をかぶった、同い年くらいの少女だ。
緑と茶色の中で浮かび上がる白が、世界から切り離されている様にも見えた。
不思議な雰囲気と共に、彼女の髪がバスの風圧にあおられ、ふわりとなびく。
追い越す薫が、その姿を振り返って追おうとするが、こんなところで何をしているんだろうと、首を傾げる前に、バスの窓から少女の姿は流れてしまっていた。
(まさか?)
一瞬、大輔が持っていた本の題名を思い出した薫だったが、現在の時間がまだ午前十一時を回ったところだ。幽霊ではないだろう。と、頭を振る。
少女の向かう先はバスの進行方向と同じ。もしかしたら、同じ青少年の家へ向かっているのかもしれない。そう、一人で勝手に納得した薫は、窓からバスの行く先を見つめた。
(それよりこの騒ぎ、誰が止めるんだろう?)
騒ぎの収まらない車内。その元凶であった倉田先生が、そろそろ頃会いかと、満足そうな笑みを浮かべ、宮前先生の手からマイクを奪う。
〈さて、皆。もうそろそろ、着くからな。静かにしろよ。来る前にも言ったが、これから、簡単な説明をするからしっかりと聞く様に。でないと、昼飯抜きだぞお前ら〉
一瞬にして、とはいかないものの、徐々に静かになっていく車内。空腹には勝てないのだろう。素直と言うか、わかり易いと言うか。その状況に悪戯心をくすぐられた倉田先生は、独特の説明を始めた。
〈今から行く青少年の家に泊まるのは、お前たちだけじゃないからな。そこんところ肝に銘じておけよ。騒ぎ過ぎはバツ。もちろんトラブルもだ。聞いた話では、関西人がいるらしいからな。気を引き締めていけ。すぐに取って食われるぞ〉
「なんでやね〜ん」
クラスの誰かがふざけて言った。誰が言ったか薫には、確認せずともわかる。間違いなく陽太の仕業だ。それで、笑いが起こっているのだから、陽太は陽気なクラスの人気者なのだ。計算高いと影で言われる事もあるが、ごくごく一部の人間からしてみればの事だろう。嫉妬だろうな。と、薫は小さく笑う。
〈お前が一番危ないぞ、関西人は面白い奴を見つけると、お好み焼きに混ぜて食べるらしいからな。気をつけろよ〉
それで、バスの中がドッと沸く。どんな偏見だ。関西人を馬鹿にするやつは絶対許さない。いいかお前ら、今度そんな事ゆうたら、ケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタゆわしたるからな。と、バスの中に関西人がいたならば叫びたいところだろう。いや、間違いなく叫んでいるはずだ。そうやって心中関西人を擁護する薫。
〈お好み焼きと言えば、あれだ。東京のモンジャと並ぶソウルフードだな。ところで、皆はモンジャをどれだけ知っている?〉
そこまで言葉を紡いだ倉田先生は、生徒の反応を見る。だが、誰も手を上げる事無く頭を横に振るだけ。その姿を確認すると、言葉を続けた。
〈皆知らないか……まあ、あれは、見た目ゲロだからな。食べない方がいいぞ。吐しゃ物と言うか、胃袋リバースと言うか、あれに酢をかけたら間違いなくゲロだぞゲロ〉
この人はいったい何が言いたいのだ。どこまで、ソウルフードを馬鹿にすれば気が済むのだ。見た目とは裏腹に、この人間は腐っている。小馬鹿にした言い方もわかってやっているのだったら、この人間はどれだけの人間を敵に回したかわかっていない。
もちろん薫も、倉田先生を敵と認識した。
今その話はするべきではないだろう。せっかくその事を忘れていたのに、酸っぱい感覚を思い出させてくれた。込み上げてくる怒りと気持悪さ。
どうやら、もう、止められそうにない。
限界だ。
薫は無言でエチケットさんに手を伸ばした。
メルト……ダウン。