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エージェントは見た(3)

 午前十一時五十分――同コミュニティーホール内。

 そこは、一言で言ってしまうと、殺風景な体育館といった雰囲気がある。しかし、床一面に深緑のシートが敷かれ、その上に場所を確保するために並べられた長机が印象的だ。ブースの様なその長机群の間を、様々な格好をした人たちが忙しそうに動いていた。時折「準備できてる」とか「もう、時間ないわよ」など、何かイベントの準備をしている掛け声が響き渡っていた。

 知っている人は知っている。知らない人は全く知らない。そんな独特の空気の中薫は、目の前にいる女性たちに急かされていた。

「ほら、薫ちゃん。お願いだから」

 優しい声の女性。丸い眼鏡と、おさげが彼女の代名詞だ。その彼女が両手を合わせ、瞼を閉じる。

「ね、今日だけ。今日だけなりきってくれれば良いから」

 明るく透き通った声。ショートカットの茶髪と鋭い目つきが彼女の代名詞。その彼女が薫の目の前に一冊の本を取り出し、その表紙を見せつける。

「で、でも……」

「衣装は問題ないわ。そのままで十分魅力的よ」

 甘い声が薫の戸惑いを制する。ウェーブのかかった長い髪と、しっとりとした厚い唇が代名詞の女性がフフフと微笑む。

 なぜ、彼女たちが薫に詰め寄るのか。それは、順を追って説明しなければならない。


 このコミュニティーホールでは、今日を含めた土日に一つのイベントが予定されている。それは、物書きやファンにとって至宝の祭典。同人誌即売会。有名なフェスと比べればとても小さいものだったが、そこにまで足が伸ばせない者たちにとっては待ちに待ったイベントなのだ。

 開始時刻は午後零時三十分。最初は参加するサークルや、その関係者のみの入場となっているのだが、もうすぐ始まるイベントに関係者は慌ただしく準備に追われているという。ちなみに、一般入場は午後三時。

 その様な説明を彼女たちから受けた薫は、大雑把に理解し「はあ……」と言葉を漏らしている。

 そして、その事を踏まえた上で彼女たちは薫に、あるお願いを持ちかけたのだ。

 それは……

「コスプレしてくれない?」

 同人誌のイベントで、やはり人々の目を引くには人気キャラクターのコスプレだろう。それを、薫にやって欲しいというのだ。


「どうして僕なんです?」

 怪訝な表情を見せる薫に、女性陣の瞳が一斉に輝く。

「可愛いから」

「その一人称が素敵」

「食べちゃいたい」

「って、僕は……」

 慌てて、彼女たちの認識を訂正しようと口を開いたその時。すっと伸ばされた人差し指によってその先を制された。

「知ってるわよ。男の子なんでしょ」

 どこかで聞いたことのある含み笑いに薫は、渚の事を思い出す。確か、自分の存在を渚から聞いていたと彼女たちは言っていた。

「でもね、薫ちゃんにお願いしたいの。僕少女でも内面は関係ないじゃない」

(ああ、やっぱり勘違いしたまま伝わってる)

 そう心の中で溜め息をついた薫は、語調を強く切り返す。

「だから!」

「引き受けてくれるのね。良かった。ありがとう薫ちゃん」

 おさげの女性が両手をポンと合わせ、笑みを浮かべる。

「へ?」

 強引な彼女たちの解釈に薫の目が丸くなった。

「じゃあ、さっそく着替えましょうか? って言っても、ほとんどそのままでいいわよね。でもアレが足りないわ……。日香里ひかり睦美むつみちゃん」

「わかりました。かえでさん」

「確か念のために準備したアレがあったはずです」

「ちょ、ちょっと!」

 薫を置いてけぼりに、話がどんどん進んでいく。わかった事は、おさげの女性が楓。ショットカットの女性が日香里。ウェーブのかかった女性が睦美。という名前だという事だけだった。しかし、それよりも薫は委員長や康則の事が気になる。一応任務終了とは言われているが、康則の行動や委員長に任務終了を告げなければならないと、思ってはいるのだが、どうもその話が切り出せない。言いたい事が言えない。そのもどかしさが、どんどん募っていった。

 すると、段ボール箱をゴソゴソと探っていた二人が笑みを浮かべて戻ってきる。

「楓さん。これ」

 日香里がテンション高く差し出したアレを認めた楓は、「うん。ばっちり」とOKサインを作りあげ、ビシッと薫を指差す。

「さあ、薫ちゃんにさっそくソレを、パイルダーオン!」

 アレやらソレやら表現されていたもの。それは……


 猫ミミカチューシャ。


 そして、それが三人の気迫に押され動けない薫の頭にパイルダーオンした。一斉に上がる黄色い声。

「「「かっわい〜!!」」」

 カッコいい。男らしいならまだ良かった。でも、かわいいだなんて言われてしまうと、やっぱり薫は面白くない。

(もう嫌だ。この人たちに嫌われても良い。僕は男だ。委員長たちを探すんだ!)

 心の中で気持ちが爆発する。

「こんなの嫌です」

 そう言いながら、猫ミミを外そうとする薫。それを見て楓は、慌てて口を開いた。

「ああ、取らないで。恐ろしいぐらいに猫ミミが似合ってるのに。何が嫌なの? 耳の作りがいけなかった? カチューシャが合わないの?」

「そうじゃなくて。僕にはやる事があるんです。委員長を探さなきゃいけないから、あなたたちにはつき合っていられないんです」

 そこまで言って薫は、「しまった」と口を噤む。勢いとはいえ、かなり厳しい事を言ってしまった気がする。彼女たちは、怒るだろうか。悲しむだろうか。そう思いながら薫は目の前の女性陣を俯き加減に観察する。

 皆の体が少し震えている様にも見えた。後悔しても、もう遅い。でも、これで委員長たちを探しに行くことができる。薫は一つ溜め息を吐き出した。

「薫ちゃん……」

 楓の声に、優しさが消えた。ああ、やっぱりと薫は身構える。

「委員長はあなたでしょ!」

「はい?」

 意味がわからなかった。怒られている意味も、言葉の意味も、想像していたものと全然違った。素っ頓狂な声を上げてしまった薫に、日香里と睦美も間髪入れずに口を開いた。

「どうしたの? 胸が必要だった? パジャマが必要だった?」

「家族関係で何か問題でもあるのかしら? 二十歳になったら独立するんでしょ?」

 どうも、意味がわからない。どこが怒りのポイントだったのだろう。そう考えても元ネタを知らない薫の頭に答えが出てくるはずもなかった。彼女たちにとって猫ミミをつけた薫はもうあのキャラクターなのだ。だから、委員長が委員長を探しに行くなんておかしいでしょ? と言ったり、胸が巨乳ではなかった事や、パジャマが用意してなかった事を心配されたりとか、血の繋がっていない両親との事を心配したりしているわけだ。この説明も、知らない人には全く伝わらないだろう。薫は正にその状態に陥り、全く言葉を返す事ができない。だから、とりあえず溜め息をついてみた。

(どうしよう……)

 この状態を打開する策が全く浮かばない。謝れば良いのだろうか。怒れば良いのだろうか。悲しめば良いのだろうか。笑えば良いのだろうか。

(ああ、もうどうでもいいや)

 色々と考えてみたが、結論が出ないのだ。そんな時、人間がとる行動。それは……


 逃走。


 心に決めた瞬間。薫は長机に手をつきながら跳び越えた。そして、ダッシュでその場から逃げ出し始める。

「あっちょっと待って。翼ちゃん。って逃げる姿もカワイイわ」

 呆然と薫の後姿を見送る楓の言葉に振り返りもせず、薫は脱兎のごとく逃げ出した。


 午後零時三十分――同コミュニティーホール内。

 イベント開始の放送が流れると、ホール内にどんどん人が増えてくる。そんな環境の中薫は、委員長を探していた。そこまで広い空間ではない。注意して探せば委員長を発見することは容易だった。

 呼びかけようと右手を挙げた薫だったが、今呼びかけたとしても委員長の視線がこちらには向きそうにない。そんな委員長は左手に紙袋を吊り下げた状態で、同人誌を物色している最中だ。それだったらと薫は、右手を下しこっそり近づくことにした。

「委員長……」

「さ、桜木君?」

 少し小さめに呼びかけた薫。その声に敏感と言うより大袈裟な反応を見せ持っていた紙袋を落とした。どうしてそこまで驚くのかと薫は首を傾げながら、委員長の顔を覗き見る。

「どうしたの? それより若菜君は?」

「べ、別に驚いただけよ。若菜君は……ほら、あそこで同人誌を販売しているわ」

 一瞬顔を赤らめたかと思えばすぐにいつもの表情を作りなおし、委員長はすっと右手を伸ばした。その先には、「ありがとうございました」と同人誌を手渡す康則の姿。

 ああ、そういう事だったんだ。薫の中で全ての疑問が繋がった。宮前先生は、今日ここで、このイベントが行われる事を知っていたのだ。だから、学業怠慢だって結論付けたのだろう。もしかしたら、ある程度の当たりを康則に付けていたのかもしれない。だから、あれだけの情報を自分に提供してくれたし、車の事も知っていた。テレフォンカードの事だってそうだ。この場所に公衆電話が設置されている事も知っていたから、自分に渡したのかもしれない。

 薫は色々と考えを展開するが、まあ、今となってはどうでもいいかと、当初神妙な悩みが含まれているのではないかと思っていた自分を笑い飛ばした。

 そして、安堵の息を漏らす。

 何もなくて良かった。と……

(何だ、結局成績が落ちたのは、このイベントを準備してたからか)

 そう結論を出した薫は、宮前先生の言葉を思い出した。そういえば、委員長にも任務終了を告げなければいけない。

「ねえ、委員長」

「何?」

「宮前先生に連絡したら、もう任務終了だから帰っていいよって」

「そう、わかったわ」

 そう言うと委員長は、再び同人誌に目線を移そうと体の向きを変えようとしたが、薫の存在に気が付き、動きを止めた。それを認めた薫は首を傾げる。

「「帰らないの?」」

 二人の声が重なった。

「僕は帰るけど、委員長が帰らないみたいだったから……」

「わ、私は、その、もう少しだけ見ていこうかなって」

「そうなんだ。ところで同人誌っていったいどんなの?」

 そう言いながら、薫は委員長が物色していた同人誌を手に取った。表紙は普通……しかし、BLやR−18という文字が目に入る。もしかして、と薫が表紙をめくろうとした時、委員長が慌ててそれを制した。

「だめよ。桜木君にはまだ早い」

「早いって、委員長も同じじゃない?」

 不満そうに目を細める薫。その薫に委員長は、一冊の同人誌を突き出した。

「私が見ていたのはこっち」

 委員長が持つ同人誌に表紙絵はなかった。その代りに明朝体で書かれたタイトルがあるだけ。もちろんR−18なんて警告は存在しなかった。

「これ?」

「そうよ」

 そう言いながら委員長は、もう一度ズイっと薫に向って押し出す。それを受け取りながら「まだ早い」と言われた本を几帳面に戻した。そして、パラパラと受け取った本を流し読む。

 第一印象は、文字ばかり。第二印象は、どうやら複数の作者が書いた短編集だというものだった。確かに、委員長だったらこんな本を読むんだろうなと、薫は一人で納得した。

「私の好きな同人作家さんの作品が入ってるの。欲しいんだけど、もう、お金がね……」

 そう言いながら、委員長は足元に落とした紙袋を見下ろす。かなり買い込んでいる様に見える。これだけ買えば、お金がなくなってしまうのは当然だろう。

「だから、悩んでたんだ」

「そうよ。明日まで残ってるかわからないし……」

「そうなんだ……だったら……」

 少し寂しそうな委員長の言葉に、薫は宮前先生が用意してくれた巾着袋を思い出した。きっとこの中に軍資金が入っているはずだ。そう思いながら薫は巾着袋の中を探す。

 入っている物は……

 眼鏡。

 乾パン。

 方位磁石。

 世界地図。

(いったいどこへ行けって事だよ?)

 そして……

 ニンジン。

(どうしろと? ああ、投げろって事かな。大丈夫ですよ先生。月曜日にはお望み通りぶつけてあげますよ。先生)

 そんな事を思いながら、軍資金が入っていないか確認するも、発見することはできなかった。つまり、初めから軍資金は入っていなかったのだ。

(使えない……)

 そうやって心の中で呟いた薫を、委員長が逆に覗き込んだ。

「どうしたの?」

「あ、えっと、委員長。その本っていくら位なの?」

 突然の事に戸惑いながら薫は、本の値段を確認する。六百円位だったら財布の中の小銭と、バス代の残りで買えるかも。そんな淡い期待を持ちながらの問いかけに、委員長が言葉を濁す。

「それは……」

「七百円です」

 委員長の代わりに、売り子の女性が端的に答えた。微妙に足りない。それでも一応とポケットの中に手を入れる。中にあった小銭を取り出した薫は、残った掌に乗せ金額を数えた。やっぱり、四百円位しかない。もしかしたらと、淡い期待を乗せ、反対のポケットも確認してみる。すると、カツンと当たるコインの感覚。

(ああ、そう言えば……渚さんの)

 五百円玉がそこにあった。

 それを、手に取った薫は掌の小銭と合わせ「この本下さい」と躊躇ためらわず口にする。

「ありがとうございます」

 そう言った売り子の女性は、薫から代金を受け取る。そして、薫は持っていた本を委員長に差し出した。

「どうぞ、委員長」

「いいの?」

 心配そうに聞き返した委員長に薫は、笑顔を返す。

「今日、手伝ってもらったお礼」

 少し戸惑った委員長。しかし、その本を受け取りながら、徐々に表情が緩んでいく。そして、いままでの委員長からでは全く想像できない、女の子らしい可愛い笑顔が浮かび上がった。

「ありがとう……」

 眩しい笑顔。優しい笑顔。子供みたいな笑顔。そんな全てを足してどんな数字をかけたって、委員長の笑顔にはかなわない。薫の体温が一気に上昇した。

「帰ろうか、桜木君」

 委員長は受け取った本を紙袋に入れると右手に持ち、あまった左手で薫の右手を優しく握った。委員長と手を繋いだのは初めてじゃない。でも薫は、初めて優しい掌に触れたような気がした。


とりあえず、エージェント桜木編、終了です。嗚呼、予定の三倍……長かった……。

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