エージェントは見た(1)
午前十時三十二分――同ショッピングセンター内書店。
「いた!」
薫の言葉通り、康則が書店の趣味コーナーで雑誌を立ち読みしている姿があった。薫と委員長は、棚の陰からこっそりと康則の様子を確認する。康則の姿は見失った時のまま変わっていない。しかし、二人が見失っていた間に、康則の持ち物が一つ増えていた。それは、足もとに置かれている大きめの紙袋。店名がプリントされていない真っ白な紙袋は、自らの存在感を純粋な色で際立たせていた。
一体どこで手に入れたのだろうか。それとも、すでに目的たる買物は済ませたという事なのだろうか。ならば、ここで立ち読みをしている行為は、時間調整なのか。それとも……。そんな事を考えながら、薫は委員長に「どう思う?」と問い掛けると、小さい唸りの後、「何が言いたいの?」と疑問符が返って来た。
「何がって? どうしてここで立ち読みしているかなんだけど」
「わからないわ」
いつも通りの回答。しかし、委員長は康則の時計を確認する仕草を見ながら「時間調整ね」と目を細めて言った。
「やっぱり。だったら理由は何だろう?」
薫の言葉に、「理由……」と少し考えた委員長は首を傾げながら「待ち合せかしら?」と息を吐き出す。薫はそれに合わせる様に首を傾げた。
「待ち合せ? いったい誰と?」
「それこそ、わからないわよ。あ、動くみたい」
空気の変わった委員長の言葉に、慌てて視線を対象に移した薫は、雑誌を棚に戻し紙袋を手に取った康則がもう一度時計を確認する姿を認めた。どうやら、場所を移動するようだ。もう、見失ったりしないと薫は巾着袋を握る手に力を込めた。
午前十時四十二分――同ショッピングセンターバス停。
あの後、康則はショッピングセンター内にある店舗には目もくれず、器用に人の波を擦り抜けながら、太陽が眩しい屋外へと出た。そして、ここに降り立った場所。――つまり路線バスのバス停まで戻って来ていたのであった。本当ならば薫達も後に続いてバス停に並ぶところだったが、そこには現在康則しかいない。その事もあって薫と委員長はやむを得ず、近くの物陰から対象を観察する事にしたのだった。
「また、バスで移動かな?」
薫の考察。
「そうね。それが妥当じゃない」
委員長の肯定。
「じゃあ、時間を気にしていたのは、バスの時間だったんだ」
薫の断定に、委員長は一つ息を吐き出す。そして「そう決めつけるのは、早いかもね」と推理の口火を切った。
「バスの時間を気にするということは、その先にある時間を気にしているかもしれないわ」
「その先の時間?」
「そう。予定時間に間に合う様にバスの時間を選択する。当然の事でしょ? バスは目的ではなくて、あくまでも手段よ。だから、その先に若菜君の本当の目的があると思うの。それこそ、お姉ちゃんが感じている何かが……」
「何か……」
その単語を噛み締めながら薫は康則の姿を見つめる。学校では模範的な優等生な康則。その康則を変えてしまった何か。それは一体何だろうか? 薫は少ない人生経験からその答えを探してみたが見つからない。それならばと、フィクションに手を伸ばす。そして、昨日の母親と美咲の事が相まって、薫の中に一つの回答を発見した。
(まさか……)
「女……」
「いきなり生々しい事、言わない」
委員長が薫の頬を軽くつねる。
「痛っ。でも、そうじゃないかな?」
頬をさする薫に、委員長は鼻から息を抜くと「確かに可能性の一つね。でもまだ、断定はできないわ」と康則を見据えた。
「そうかな?」とつられて薫も視線を移す。
「今はまだ、想定の範囲から出ていないわ。状況証拠しかない状態だから当然よね……決定的な証拠がなければ、そう断定するには早いという事よ。もしその程度で断定できているのであれば、この調査をする前にお姉ちゃんが動いているわ」
そう言いながら、委員長は溜め息をついた。そして……
「だから、決定的な証拠を見つけるために桜木君が選ばれたんでしょ」
「え?」
選ばれた。――その言葉に、薫の中に疑問が浮かぶ。「どうして?」自分が選ばれた理由なんて考えた事がなかった。深い意味があるなんて思っていない。だから、ただ単に使いやすい人間だからだと思っていた。しかし、こうやって目の前にいる委員長だって奈々子エージェントだ。それだったら、宮前先生も薫に司令するより委員長に指示を出せば、あんな回りくどい事をしなくても良かったはずだ。考えれば考えるほど、薫の中の疑問が膨れ上がる。
「僕が選ばれた理由、委員長は何か知ってるの?」
「どうして、そう思うの?」
肩をすくめる委員長。
「なんだか、含みのある言い方だったから」
その言葉に目を丸くした委員長は、フフっと笑い「ごめんなさい。ちょっと紛らわしい言い方だったわ」と表情を戻した。そして「でも、私は知らないわ。お姉ちゃんの考えている事なんて……これっぽっちもわからないし、わかりたくない」と付け足す。
「わかりたくないって……」
「いつもそうよ。必死で考えた所で、どうでもいい結論しか待っていないんだから、考えるだけ無駄なの」
「考えるだけ無駄……なの?」
「そうよ。どうせ、ろくな理由なんて用意していないに決まってる。決定的な証拠を見つけたら、お姉ちゃんに聞いてみたら? きっと、何か投げたくなると思うから」
意地悪に笑う委員長。しかし、目は笑っていない。何故だろう? もしかして以前そういった事があったのだろうか。理由を聞いてドカーンみたいな……。そんな事を考えながら、薫はチョークを投げる委員長の姿を思い出していた。
「まぁ、その為にも決定的な証拠を見つけなきゃね」
そう言いながら委員長は、シャドーピッチングを彷彿とさせる手首のスナップで康則に何かを投げる仕草をして見せる。
(え? 何か投げるの前提?)
午前十時五十五分――同バス停。
「動かないね」
「そうね」
変わらず物陰から康則を見つめる薫と委員長。あれからずっと康則に動きがない。
「どう思う?」
薫の今日何度目かと疑う眼差しで委員長が「わからないわ」と返した後、再び時間を確認した康則の姿を見て「でも……」と言葉を続けていく。
「若菜君はバスの予定時間を間違える様な人間じゃないから、こんなに待つなんて事はしないはず。きっと何か理由があるのよ」
委員長の推理に薫は、朝の康則を思い出し『なるほど』と、納得した。駅では少し早かったかと言いながらも、時間通りを狙ってにバス停に来ていた。つまり、ここまで待つことが、康則にとって異様な事だというのだ。いったいそれはどうして? その疑問が薫の中に浮かび上がった瞬間、その答えが決定的な証拠と一緒に現れた。
二人の眼に映ったのは一台の車。――青いボディに太陽の光を反射させたコンパクトカー――そして、青い車の運転席には、若い女性の姿があった。その車が、バス停で待つ康則の前に停車すると、待っていました。と言わんばかりに、康則が助手席に乗り込んでいく。どことなく表情も綻んでいる気がした。
「い、委員長」
「わかってるわ」
薫達の位置からはどの様な女性か見分ける事が出来なかったが、横に流した黒髪が印象的で、大人の女性というイメージが二人に刻まれる。まさか、康則がそういった女性とお付き合いをしているだなんて……考えてもみなかった。しかし、そんな衝撃を受け止める間もなく、その車は動き始める。
バスならば、なんとか追いかける事が出来た。しかし、車で移動されるとなるとどうしても追跡が困難になる。それでも、絶対見失ってはいけない。その衝動が薫を動かした。
(でも、どうやって?)
気持が空回りする。自問しても答えは得られない。それでも薫は周囲を見まわす。そこに、ちょうどお客を降ろしている一台のタクシーが目に入った。
(もうこれしかない)
康則を乗せた車から目が離せない委員長の腕を掴むと、薫は一目散にそのタクシーへと駆け出した。
「ちょ、ちょっと」
戸惑う委員長。
「大丈夫だから」
勢い良く飛び出した言葉。薫の心はいつも以上に鼓動を早くしていく。そして、タクシーの扉が閉まるかどうかのタイミングで後部座席に滑り込むと、驚きの表情を隠しきれない運転手が「ど、どこまで?」と二人を見つめる。それに薫は、ビシッと指を突き出した。
「前の車、追ってください!」