エージェント、どこへ行く(2)
午前八時二十八分――薫は、欠伸を噛み殺しながら、駅前バスターミナルの待ち合わせベンチに腰かけていた。何気なく見上げた空は雲一つない快晴。
昨日あった宮前先生からの情報によると、午前九時に対象である若菜康則が、この駅にやって来るのだという。薫達の住むこの町には、駅は一つ。「駅」と言われれば、町の名前を冠したこの栄駅を指す事になる。そして、この町の主だった公共交通機関は路線バスであり、電車に乗るという事は、必然的にこの町から離れる遠出を意味していた。
康則がどちらの交通機関を利用するにしろ、両方を確認できるこの場所で、薫は対象を見逃さない様、周囲に注意を向けていた。
(本当にくるんだろうか……)
薫の中にふと、疑問が浮かぶ。宮前先生の事を信用していない訳ではない。ただ、少し気になった。康則の事は当然として、それよりも今は、今回の調査に不可欠な、軍資金を含めた物資を届けてくれるという、他の奈々子エージェントについてだ。
薫は昨日、電話の後に財布の中身を確認したが、やっぱり心もとない千円ちょっとが入っているだけだった。本当は、お小遣いを母親に貰ってくれば良かったのだろうが、また「デート?」と冷やかされるのが嫌で、何も言わず飛び出して来ていたのだった。
だから、金銭面の補給が一番待ち遠しい。
(でも、わかるだろうか僕の事……)
薫は、見上げたカーブミラーに映る自分の姿を見直しながら、首を傾げた。
曲がりなりにも、互いにその姿を知った者を尾行するわけだ。何かの拍子に正体がばれてはいけないと、薫は、自分なりの変装をしてきていた。できるだけ地味な柄のロングTシャツに、細身のGパン。髪型と表情を隠すために、目深にかぶった野球帽。あと、度なしの眼鏡も用意している。
プライベートを知らないのはお互い様だと、考えた薫が出した結論。顔さえしっかり隠していれば、服装でばれる事はないだろう。でも、物資を運んでくれる人間にも気が付かれないのではないかと、少し不安になった。
足を組んだ膝の上に肘を置いて、それを頬杖にした薫は、カーブミラーから見下ろしてくる自分の視線を見つめ返す。無意識のうちに薫の手の中で眼鏡がクルクルと回った。
「わからないよな……たぶん」
自信と不安が同居する言葉が薫の口から漏れた瞬間、入れ違う様にシャッター音が耳に入った。
(え、何?)
自分に向けられたものではないと思いながら、視線を移したその先――薫に一眼レフのカメラを向けた女性の姿が目に入る。目を丸くした薫の疑念が確信に変わるためには、少しの時間を要した。
(写真を撮られたのは、僕?)
そう眉をひそめた薫の表情に、カメラの持ち主はファインダーから視線を外し、眼を細くして笑う。その柔らかい笑顔の持ち主は、茶色いセミロングにふわっとパーマをあてた大人の女性だった。ブラウスに細身の黒い綿パン。特に着飾った様子もなく、どちらかと言うと、動きやすさ重視といった服装だ。そんな、活発なイメージが先行する女性は、カメラを肩に掛けると薫の側へと歩み寄って来る。
「いきなり、ごめんなさいね」
優しい声。それでも薫の警戒心は解けない。いったい誰なんだ? と記憶を巡らせてみても該当する人物は見当たらなかった。訝しそうに見つめる薫の瞳を、その女性は人差し指をぴんと立て散らす。
「そんな顔しないの。綺麗な顔が台無しよ」
フフフと笑う女性。どこかで同じ言葉を聞いた事がある。そう感じた薫の中に、宮前先生の顔が浮かんだ。この女性は、もしかしたら……なんて、考えてみたが、共通点がなさすぎる。美人であるのは間違いないが、種類が違う気がした。間違いなく宮前先生ではない。強いて共通点をあげるとすれば、性別と年齢くらいのものだろう。そこまで考えてみたが、結論が出ない思考に薫は終止符を打つ。
「あなた、誰ですか?」
その言葉を待っていたかの様に女性は、「実はね……」と含んだ言葉を紡いだ後、薫に一枚の名刺を手渡した。そこには、女性の氏名と職業が記されていた。
「フリーカメラマン。大久保……」
薫の言葉はそこで止まる。何かが物理的に邪魔をした訳ではない。もちろん気にかかる事もない。ただ、見た事のない漢字が読めなかった。軽く首を傾げた薫の姿に包み込むような笑みを見せた女性は「渚。大久保渚よ」と説明する。
「ねえ、あなたの名前は?」
「薫ですけど」
渚の自然な問いかけに、つい手拍子で答えてしまった薫は、「あっ」と声を上げそうになった口をキュッと一文字に結び、渚を拒絶する不機嫌な顔を作り上げた。
「そ、そんな事より、どうして僕の写真、撮ったんですか?」
そんな薫の表情に渚は「僕だって」と小声を漏らすと、薫の頭を撫でる。
「かわいいからに決まってるじゃない」
「か、かわいい?」
戸惑いを見せる薫に、渚は「そうよ」と言葉を続ける。
「私はカメラマンよ。心が揺れる景色を見たら、切り取らずにはいられないの」
写真を撮るのはカメラマンの本能だと告げる渚。しかし、薫は『かわいい』と言われる事に納得がいかない。絶対勘違いしているのだ。速やかに説明をしなければ。薫は慌てて口を開いた。
「だから僕は……」
「わかってる。男の子だって言いたいんでしょ」
ニコッと笑った渚の言葉。
(あれ? 勘違いしてないんだ)
想像と違う回答に、肩透かしを受けた様な感覚を覚えた薫は、いつもと違う話の流れに再び戸惑う。もしかしたらカメラマンという人間は、外見というより中身を見抜く力があるのではないだろうか。そんな考えを巡らせながら薫は、未だ自分が『かわいい』というイメージを抱かれている事に溜め息をついた。しかし……
「服装がそんなコンセプトだもの。わかるわよ、お姉さんには」
(あれ?)
「それに『僕』って、良いキャラ作ってるもんね」
(あれれ? もしかして……)
「何かのコスプレかな? とっても似合ってる」
(やっぱり)
どうやら、渚は薫の事を男装している女の子と勘違いしているようだ。そんな風に理解した薫は、結局女の子として『かわいい』と言われた事に小さく傷つき、男と認識されなかった事に大きく打ちひしがれた。しかし、その気持ちは渚に伝わらない。心配そうに薫の顔を覗き込んだ渚は、古典的なアクションでひらめきを表現すると、財布から五百円玉を取り出した。
「これは、ほんのお礼だから……」
その五百円玉を薫の掌に握り込ませるため、ひやりと冷たい渚の手が薫の拳を包み込む。そして……
薫の帽子がふわりと落ちた。想像もしていなかった展開に、薫は瞳を泳がせながら顔を赤く染める。
「え? え?」
薫の目の前には、渚の胸元がブラウスの隙間から存在感を示している。そして、額に感じる柔らかい感触。つまり、渚の唇が薫の額に触れていたのだ。唐突な事に薫の目が回る。理解したのは、渚がその繊細な指を薫から離した時だった。
そんな薫をもう一度フフフと笑った渚は「それで、美味しいものでも食べてね」と微かに甘い香水の香りを残し、薫の前から去って行った。
そんな後姿をぼーっと眺め続けた薫は、無意識の内に額に手を添える。火照った頭には、今の掌がひんやりと、心地良く感じた。
午前八時四十七分――同バスターミナル。渚が去った空間を未だにぼーっと眺める薫の姿。それを見つけた少女は、巾着袋片手に溜め息をついた。そして、真っ白なミュールで足音を刻みながら、薫の正面にまわり込む。それでも、自分に気が付かない。というか、焦点が合っていない薫の瞳を覗き込むと、もう一度溜め息をついた。そして……
「何してるの、桜木君」
「ふぇ?」
突然聞こえた自分の名前に、薫が情けない声を上げて我に返ると、焦点の戻った瞳には、一人の少女が映り込む。しかし、どう思い返しても記憶にない少女に、薫は訝しそうな目を向け「あの、どこかで会いましたっけ?」と首を傾げた。
そんな薫の態度に、その少女は三度の溜め息をつくと、薫の持っていた伊達眼鏡を掴み、「これでどう?」と、それを掛けて見せる。その姿に薫は見覚えがあった。普段と全く印象が違った少女に、薫は驚きながらも彼女の代名詞を口にする。
「もしかして、委員長?」
「もしかしなくてもよ」
薫は、半眼で返された言葉と眼鏡を受け取りながら、委員長の姿を確認した。普段は三つ編みにしている黒髪を後ろ髪だけ髪留でまとめ、眼鏡もしていない。それに、少しメイクもしているようで、唇がキラリと輝く。服装は弥生のお株を奪う清楚っぷりだ。白いワンピースが眩しい。
それよりどうして委員長がここにいるのだろう? それに、どうして変装が見破られたんだ? と考えを巡らせた薫は、地面に落ちている自分の帽子を見つけ、慌てて深く被り直した。
「それ、変装のつもり?」
委員長の言葉が薫の胸に突き刺さる。薫の変装は、つもりでなく本気だ。帽子の鍔を下げながら「そうだよ」と返し、話題を変えるため最初の疑問を委員長に聞いた。
「それより、委員長はどうしたのさ、こんな所で……どこかに行くの?」
「行くのじゃないわ。来たの」
そう言って委員長は手に持っていた巾着袋を薫の前に突き出した。そして、また言葉を続ける。
「お姉ちゃんに頼まれたのよ。桜木君に渡してくれって」
委員長の言葉で、薫は全てを理解した。つまり、物資を届けてくれる奈々子エージェントは委員長のことだったんだ。
「ありがとう」そう言って薫は巾着袋を受け取った、その時。委員長の背後、そのはるか遠くに対象の姿を発見した薫は、委員長の腕を強引に掴むと時刻表の物陰に身を隠した。唐突な事にも委員長は動じない。瞬時にその動きに対応した。
「どうしたの?」
「若菜君が来た」
薫の端的な言葉でも委員長は「そういう事ね」と理解する。さすが奈々子エージェントナンバー1といったところか。
「で、どうするの?」
委員長が小声で問う。それに薫は、握っていた五百円玉をポケットにねじ込むと、眼鏡を掛けて「後をつける……」と、力強く頷いた。