エージェント、どこへ行く(1)
薫は、自宅の湯船につかりながら、ぼーっと天井を見上げていた。少し霞がかった視界の中、薫の額に水滴が一つポタリと落ちてくる。
「つべた」
とっさに出た言葉と共に額を拭うと、部室の出来事が思い出される。
結局あの後、薫は下校時間まで待ってみたが、陽太の他に誰も部室の戻って来る者はいなかった。その代り、宮前先生が「明日と明後日は、テストの慰労を兼ねて休みにするから」と、一言顔を出し、「今いないメンバーには適当に私から連絡しておくから、お前たちはさっさと帰るんだぞ」と、端的に消えていった。
薫を除く三人は、それぞれに「押忍。ありがとうございます」とか「わーい」とか「携帯買いに行くぞ」とか喜びに浸っていたのだが、薫は部活が休みになる理由を知っている。だから、少し複雑な心境で「わかりました」と返したのだった。
「どうしよう……」
静かな浴室に、薫の呟きが広がる。宮前先生が、明日の土曜日と明後日の日曜日を休みにした理由は、康則の素行調査のためだ。その調査員として指名されている薫は、明日からどうやって調査すれば良いのか頭をひねった。
学校であれば、それなりに接点のある康則だったが、休日となると全くどこで何をしているのかわからない。演劇部のほかに親しくしている友人も知らなければ、康則の家がどこにあるのかさえ知らなかった。唯一わかるのは、部員の連絡網に書かれている電話番号だけだが、もし、電話で「明日、どこで何するの」なんて聞いてしまったら、変な勘ぐりをしていると、警戒されてしまうかもしれない。正に八方塞がりの状況に、明日はとりあえず、康則を見つける事から始めなければならないのかと、薫は溜め息を漏らした。
その時、遠くから薫の名前を呼ぶ声が聞こえる。そして、浴室の扉が勢い良く開いた。唐突な事だったが、薫は反射的に身を縮めながら、開いた扉の方に羞恥心のこもった声を飛ばす。
「な、何だよ!? せめてノックぐらいしろよ」
顔を赤らめながら視線を移した薫は、不機嫌そうな美咲の視線にビクッとなった。
「電話」
「はい?」
「だから、薫に電話」
こんな時間に、薫宛の電話なんて珍しい。いったい誰からだろうと首を傾げた薫に、美咲は半眼で溜め息交じりの言葉を続ける。
「宮前さんって、女の子から……」
最近聞かない苗字に、一瞬誰だか見当が付かなかったが、身近な女の子で検索した結果、薫の頭に該当が一件。
(委員長だ)
まさか、委員長から電話が架かって来るなんて考えていなかった薫は、疑問よりも、戸惑いよりも、驚きが先行し、電話に出るため勢い良く立ち上がった。その瞬間、扉が勢い良く閉まる。
「変態」
扉越しに聞こえた目一杯の軽蔑を含む言葉に薫は、自分の姿を思い出しザブンと湯船に身を隠した。今さら隠れてももう遅いのだけれど、そうしなければならない気がした薫は、体温の上昇を感じながら、精一杯言葉を返す。
「架けなおすって、伝えてくれる」
「嫌」
「どうしてさ?」
「変態の言う事なんて聞く耳持たないの」
美咲はそう言うと、スリッパの音を残して扉の前から姿を消した。
(変態って、美咲が勝手に見たんじゃないか……被害者は僕だよ……)
心の傷を残した薫は灰色のスウェットを纏うと、湿った髪をそのままに、バスタオルを頭にのっけた姿で電話のあるリビングへと続く扉を押し開けた。
リビングには、ソファーに腰かけテレビを見ている母親と美咲の姿。父親の姿は相変わらず見られない。と、そんな事よりもと薫は、電話に視線を移した。電話台に置かれる電話機。保留のランプが赤と緑に点滅している。
この先に委員長がいると思うと、なんだか緊張してしまい、受話器を取ろうとする薫の手がまごついた。いったいどんな話だろう? 月曜日まで待てない、学校では言えない事なのだろうかと考えを巡らせてみたが、これ以上委員長を待たせてはいけないと頭を振って、母親と美咲が聞き耳を立てていないかどうか確認した薫は、受話器を手に取り保留ボタンを押した。
第一声はもちろん薫。
「もしもし……」
しかし、その言葉に対する反応は受話器から聞こえてこない。もしかして、待ちくたびれてその場を離れてしまったのかと、戸惑った薫は、もう一度声を出した。
「もしもし……委員長?」
「なあ〜に? 桜木く〜ん。私に何か言いたい事があるんじゃないの〜」
受話器から聞こえて来た甘えるような声に薫は、溜め息をつく。委員長と似たような声だったが、間違いなく委員長ではない。どうして薫がそう感じたのか? その答えは簡単だ。委員長は誰にも甘えない。甘えた所を見せた事がない。だから、唐突に甘えた声を出されては絶対に、委員長とは思わない。
だったら、電話の主は誰なのか? こんな事をする人間を薫は一人しか知らない。もちろん、もう一人の宮前だ。
「それは、こっちのセリフです。何ですか? こんな時間に?」
薫の皮肉交じりな言葉を宮前先生は軽く笑うと、声のトーンを一つ落とした。
「情報だ。エージェント桜木」
少ない言葉だったが、それで全てを理解する。つまり、明日康則がどう動くか宮前先生は情報を届けてくれたみたいだと。気持ちと表情をシリアスに戻した薫は、電話機の横に置かれたメモに視線を移すと、ペンを手に取った。
「どうぞ……」
「対象は明日、午前九時、駅前に現れると情報が入った」
「九時ですか?」
そうやって聞き返しながら、薫はペンを走らせる。
「そうだ。電車に乗るとの噂も聞いている。準備は怠るな」
「準備って……」
薫は財布の残高を思い浮かべる。確か千円くらいは入っていたはずだが、少し心もとない。それを、感じ取ったのか、受話器の向こうでドンという音が聞こえたと思うと、宮前先生がむせ返った。任せておけと胸を叩いたのだろうが、勢いが良すぎたようだ。そう理解した薫は、鼻から息を抜くと、一応相手を心配した。
「大丈夫ですか?」
「う、うむ。問題ない。それではエージェント桜木、くれぐれも対象に悟られぬ様にな。そして……」
「報告は随時……ですよね」
「そうだ。少しの事も見逃すなよ。一応必要と認める物資は、他のエージェントに現地へ届けさせる。それらを活用し任務を全うしてくれ」
「わかりました」
薫はそう言いながら、メモに書いた午前九時をくるりと一回丸で囲むと、ペンを元の場所に戻し、メモを破り取る。
「それでは、成功を祈る。なお、この音声は自動的に消去され……」
「ません」
最後の言葉を、やんわりと遮った薫は受話器を置いた。ふざけた内容も少し含まれていたが、必要な情報が揃った。渡りに船とはきっとこの事なのだろう。心の中で「よし」と気合いを入れた薫は、破り取ったメモをスウェットのポケットにねじ込んだ。そこで、一旦息を吐き出す。さて、明日のために、今日は早く寝ようと、薫が振り返ったその目前には、興味深々と言わんばかりに耳を突き出した、母親の姿。
「か、母さん!?」
驚きの表情が隠しきれない。最初に確認した時は、美咲とソファーでくつろいでいたはずだ。いったいどうやって、こんな所まで……もしかして、会話の内容を全部聞かれたのだろうか? 薫の頭に疑問が浮かんだ。
そんな薫に、取り繕うような笑顔を見せた母親は、一度大きく伸びをすると、何もなかったかのようにソファーへと戻っていく。美咲は相変わらず、テレビに映ったお笑い芸人を見ながら、とりあえずダメ出しをしていた。
あまりにも自然な流れに感じてしまった薫は、しばらく次の言葉を出す事が出来なかったが、『やっぱりおかしい』と口を開く。
「母さん。盗み聞きは良くないよ」
半眼で送られたその言葉に母親は、肩をすくめ「何の事かしら?」と、おどけた素振りでしらを切った。
「だから……」
そこで、薫は言葉を止める。もし聞こえていないのであれば、母親の思うつぼだ。宮前先生と話をしていると、そんな小さな事も勘ぐってしまう。ある意味副作用と取れる過敏な反応に、薫は自分で溜め息をついた。
その溜め息に被せる様に、今度は美咲が口を開く。
「だから、何?」
どこか不機嫌そうな語調に、薫の頭に『変態』と呼ばれるやり取りがよみがえる。あの恥ずかしさが徐々に込み上げて来た。
「何って……」
薫は言葉に詰まる。そんな様子を笑い飛ばした母親は、美咲に向って「薫は明日デートなのよ」と意地悪な笑みを浮かべていく。
「「な!?」」
薫と美咲の驚きが、完全にシンクロした。
「か、薫がデート!? 薫のくせに生意気よ!」
「な、何言い出すんだよ母さん。ち、違うって!」
同時に飛び出したそれぞれの言葉。傍から聞いていれば、何を言っているのかわからない。それでも母親は、どことなく満足げな笑みを浮かべた。ああ、楽しい。と言った感じで……
「絶対、邪魔してやる」
本気なのか、冗談なのか判別の付かない表情で美咲が薫を見据える。それを呆れた顔で「デートじゃないから……」と薫は押し返した。
「それでも邪魔してやる」
(何を?)
美咲の言葉に心の中でツッコミを入れた薫は、事の元凶である母親に視線を向ける。意地悪く笑う母親に、薫は半眼で声を出す。
「母さん」
少し低めの薫の声に、これはやりすぎたかなと苦笑いを浮かべた母親は、美咲の頭をグシグシと撫でた。
「美咲。明日は私とショッピングに行こう。私達を見捨てた薫なんてほっといて、美味しい物を買いに行こう。ほら、なんて言ったっけ? 美味しいチーズケーキのお店……」
「ア・ズマン?」
「そう、そのお店に行こう」
「薫は? お父さんは?」
「いいのよ、あんな甲斐性なし達は……私達だけで行きましょう」
(父さん、僕達、甲斐性なしかな……)
今も会社で、家族のために一生懸命仕事をしている父親を思い浮かべながら、薫は少し遠い眼をした。しかし、そんな薫をよそに、女性陣のトークはヒートアップしていく。もう、どうでも良い。そう感じた薫は、呟くように「お休み」と踵を返し、「使えない」とか「面白くない」とか様々な言葉の飛び交うリビングを後にした。