今日から中三(2)
宮前先生は、3年2組とプレートがかけられた教室の前で立ち止まると、薫の方に振り返った。
「ここが、お前のクラスだ。とりあえず、私が合図するまで廊下で待機。わかったか?」
薫は破裂しそうな心臓を押さえながら頷く。
宮前先生は「うむ」と、頷くと入口の扉を開けて「おはよう、諸君」と、教室の中に入って行った。
薫はこっそり、隙間から中の様子を覗き見る。一クラスは大体三十人くらい。綺麗に並べられた机に、これからクラスメイトになる同級生が座っていた。
「さて、今日から三年生になった君達に、転校生を紹介しよう」
宮前先生の声が教室内に響く。自信満々に見えるその表情が、薫の緊張をさらに強いものにしていった。
突然の発表に、生徒の中から声が上がる。
「先生、その子は、男ですか? 女ですか?」
宮前先生は、その生徒を指差しニヤリと笑った。
「何だ、森本。食いつきが早いな」
「死活問題ですから」
森本と呼ばれた少年は胸を張って立ち上がる。クラス内に笑いが起こった。
「そうか、じゃあ実際に見た方が早いな」
宮前先生は、鼻で笑うと、廊下から覗き見ている薫に、ウィンクをする。これが合図なんだろうと、薫は意を決して、教室の扉を開けた。中に入るとクラスメイト全員の視線が薫に集まる。
男子生徒からは「おぉー!」と、飢えた野獣のような雄たけびに似た歓声が聞こえ、女子生徒からは「ふーん」と冷ややかな反応が見て取れた。いつもならば、絶対勘違いしてるだろ? と、心の中でツッコミを入れるところだが、今の薫には、そのような余裕は一切ない。緊張でガチガチに固まりながら、宮前先生の横に立つと、勇気を振り絞り、口を開いた。
「今日から、このクラスに転校して来ました、桜木薫です。よろしくお願いしまふ」
最後の最後で、噛んだ。
しまった。と、心の中で舌打ちしても、もう遅い。静まり返ったクラスメイト達の反応を、恐る恐る確認する。
(こんな事でいじめられたら怨むよ、僕の滑舌)
そんな薫の不安は、一人のクラスメイトの言葉で吹き飛んだ。
「かわいいよ、薫ちゃん」
声の主に目線をやると、森本少年だった。薫からは、安堵の息と笑顔が零れる。
「笑った顔も素敵だよ」
必死で自分の事をフォローしてくれる森本を見ていると、なんだか薫は、照れくさくなった。
そんなやり取りを傍観していた宮前先生が、意地悪な笑顔で口を開く。
「さて、男子に質問だ。こんな美人がうちのクラスに来て嬉しいか?」
「「「おぉー!!」」」
「手をつないで、お喋りがしたいか!?」
「「「おぉー!!!」」」
「抱きしめて、キスがしたいか!!?」
「「「おぉー!!!!」」」
「最っ低」
女子の間から軽蔑の言葉が零れる。
「桜木薫が男でもか!!!?」
「「「えーーー!!!!!」」」
男子の声を掻き消して、女子の悲鳴とも取れる絶叫が、教室内に響き渡った。そんな絶叫をまるで罠に掛かった子ウサギを見る様に、宮前先生は、してやったりの笑顔が浮かべる。その横で薫は、複雑な心境で肩を落とした。
(そこまで驚かなくても)
教室内に動揺が残る中、宮前先生は真面目な顔をして再び口を開く。
「お前ら、桜木の格好を見たらすぐにわかるだろう? どれだけお前たちが相手の顔しか見ていないかが良くわかった。人は見かけじゃないんだ。騙されるんじゃないぞ」
(途中まで良かったのに……最後が……おかしいでしょ)
「はい先生」
森本が大きな声で言った。
(だから違うって、気が付けよ、本当に)
心の叫びは、表に出ることはなかった。頭を抱える薫に、宮前先生は背中を叩き、教室のほぼ中心にある空席の机を指差す。
「あそこが桜木の机だ。それで……委員長、桜木を頼むぞ」
自分の机を見つけた薫は、委員長という言葉に反応する。薫の席の隣に座っているのは、今朝職員室の前で会った。委員長(仮)。
薫は一人驚いた。
(本当に委員長だったんだ)
頭の中で委員長(仮)の(仮)を取り掃う。
委員長は、静かに「わかりました」と眼鏡を上げた。その際眼鏡がキラリと光る。何か思わせぶりだが、薫は深く考えないことにした。
自分の席まで行くと薫は、委員長に「よろしく」と言って席に着く。
「よろしく」
委員長の乾いた言葉が、何だか自分を避けているに感じた薫は表情を曇らせる。
(なんと言うか、これが前途多難と言うやつなんだろうか……)
そんな顔の薫をよそに、宮前先生は「ホームルームを始めるぞ」と、教鞭を振るい始めた。
昼の休み時間、薫はクラスメイト数人に囲まれていた。自分の机を中心に出来上がる輪っか。その中には、唯一名前と顔を知っているクラスメイト、森本の姿もある。こんな事は生まれてこの方初めてで、緊張が薫の心臓を握り締めていた。
慌しく、自己紹介が始まる。初めに口を開いたのは、やっぱり森本少年。
「俺、森本陽太。よろしく」
目と口が大きくて愛嬌のある顔立ち、屈託のない笑顔がまぶしかった。
次に口を開いたのは、いかにも勉強ができそうなイメージが先行する、優等生風の少年。眼鏡の奥に見える鋭い眼光は、少し怖い。
「クラスの副委員長をしている、若菜康則だ。困ったことがあったら気軽に言ってくれ」
そう言いながら、康則の口元が緩む。敵対心が感じられないその言葉に薫は、目が怖いのは、きっと藪睨みなんだろうと、一人で勝手に納得した。
「まあ、委員長が隣だったら、心配事も少ないか」
康則は、隣の机で文庫本を開いている委員長に目線を移す。薫もつられて委員長に目をやった。すると委員長は、文庫本のページをめくりながら「何も問題ないわ」と静かに応える。
環境に馴染み切れない薫には、委員長の姿がとても頼もしく見えた。嬉しさからか、薫の顔に自然と微笑みが零れる。
しばらく委員長を見ていると、活発な声が横から飛んできた。
「私は、小林梢。よろしくね」
薫が声の主に目をやると、そこにはショートカットの少女がいた。声と同じように活発な雰囲気の少女はスラッとしていて、陸上部の選手といった印象を受ける。
梢は、自己紹介を手短に済ますと、隣にいた日本人形の様に黒く真っ直ぐな髪の少女を、前に引っ張り薫に紹介した。
「この子は、葛城弥生。……ほら、弥生も」
梢に促された弥生は、伏せ目がちに口を開いた。
「よ、よろしくお願いします……」
つぶやく様な声の弥生に溜め息をつきながら、梢が薫に「とりあえず、よろしくね」と、笑う。薫は、顔と名前を必死に覚えながら「こちらこそ、よろしく」と返した。
そこからは皆からの質問攻めだった。あちらこちらから言葉が飛び交う、質問の嵐。
「前はどんな所に住んでいたの?」
「前の学校はどうだった?」
「どこに引っ越してきたの?」
「誕生日は?」
「血液型は?」
などなど……
クラスに打ち解けているみたいで、薫は自分の気持ちが高ぶるのを感じていた。
一つ一つ丁寧に答えていると、梢からさらに質問が飛んでくる。
「彼女はいるの?」
その質問に、薫はドキッとした。今まで誰とも彼氏彼女の関係になったことがない。実際、薫は好きな子がいても告白する勇気のない少年だった。気持ちを拒絶されるくらいなら、現状維持を選択する。そんな保守的な恋愛観を持っている薫は頭を掻きながら恥ずかしそうに「いないよ」と、苦笑いを浮かべ俯いた。
薫の言葉に、梢は一人盛り上がりを見せる。それを見た陽太はニヤリと笑うと、梢をからかい始めた。
「あれ、梢って、そうだっけ?」
「はあ? 何言ってるのバカ本」
急に梢の頬が赤く染まる。
「違った?」
「これだからバカ本は」
どんどんヒートアップしていく陽太と梢のやり取りを見ていた弥生は、梢の隣で一人、どうして良いかわからないといった表情で、おろおろと、うろたえる。
そんな状況を見守っていると、教室の隅で薫達の方を見ている茶髪の少年と薫の目が合った。ブレザーを着崩したその姿は、まじめな校風のこの学校においてなんだか浮いて見える。
(不良……なんだろうか?)
その少年は、不機嫌そうに舌打ちをしながら、教室を出て行く。なんだか、いやな予感が薫の頭によぎった。
(誰なんだろう?)
そうこうしていると、そんな状況を見かねた康則が、溜め息をつきながら二人を制しに動いた。
「もう少し大人になれよ、二人共」
康則の言葉に、弥生は激しく首を縦に振る。その姿を見た梢は、もう良いかと笑い、話題を切り替えた。
「そうね、お腹空いたし……弥生、食堂行こっか?」
梢の言葉に、さっきまでうろたえていた弥生は、安心した様にコクリと頷き。それを確認した梢は「じゃあね」と言って、弥生と一緒に教室から出て行った。康則もそれを見送ると「じゃあ昼飯にしようか」と言いながら自分の席に戻っていく。
そんな康則を横目に、陽太は薫に問い掛ける。
「桜木はどうするんだ昼飯?」
その言葉に、薫は鞄から弁当を取り出す。
「じゃあ、一緒に食べようぜ。取って置きの場所があるんだ」
薫がうんと頷くと、陽太は自分の弁当を取りに席へ戻った。
そんな陽太を目で追うと、ふと、隣に座る委員長が視界に入る。相変わらず文庫本を読み進めている姿のままだ。気になった薫は、委員長を誘う。
「委員長も一緒にどう? 昼ごはん」
「もう食べたから」
薫の誘いは、読書中の委員長に軽くあしらわれた。
(え、いつ食べたんだ?)
頭の中に疑問符が浮かんだところで、陽太が弁当箱を持って戻って来る。
「さあ、行こうぜ」
「あ、うん」
薫は、後ろ髪を引かれながらも、この学校初めての友達と、昼食に向かった。
放課後、薫が帰宅の準備をしていると、机の中に一枚の紙切れが入っている事に気が付いた。もしかして、と高ぶる感情を抑えながら近くを見渡すと、隣の机で相変わらず本を読む委員長の姿があるだけ。薫はこっそり紙切れの差出人として書かれた名前を覗き込む。すると、差出人は北川大輔と記されていた。
北川大輔――薫には聞き覚えのある名前だった。
薫が陽太と屋上で弁当箱を突付いていた時、教室で見た茶髪の少年を思い出し、思い切って陽太に質問していた。
薫に返ってきた答えは「名前は北川大輔。不良グループの一員だな」という簡単なものだったが、薫の不安をあおるには十分だった。
そして、不安は的中する。
薫は、頭の中で紙切れに書かれた文章を読み上げた。
『放課後、体育館裏まで来い。逃げたらどうなるか、わかってるだろうな』
とてもわかりやすい文章だった。それだけに薫は深く溜め息をつく。不良に目を付けられる事は、予想の範囲内だったが、まさか転校初日に呼び出しがあるとは、予想外だった。逃げても良いのだろうが、後々、面倒なことになりそうだと感じた薫は、意を決して鞄を手に取る。
(話し合いで解決できないかな)
心の中で楽観的な希望的観測をしながら、読書に耽る委員長に「それじゃあ、また明日」と声を掛けた。
委員長は、薫を一瞥し「また明日」と返すと、再びページに視線を落とす。
そんな委員長を横目に、薫は多少の不安を抱え、文面にあった体育館裏に向かった。
薫の姿が教室から消えると、委員長は浅い溜め息をつき、読んでいた文庫本をパタンと閉じた。
「さてと……」