ミッションインポッシブル?(1)
姫川の一件から、早一ヶ月が過ぎようとしている。あれ以来、薫の周りでは、そういった問題は一切起こっていなかった。よほど美咲が恐ろしかったのだろうと、薫は、特に何も起こらない平凡な日常を満喫していた。
しかし、今日は平凡な日常の中執り行われた、中間テストの順位が気になると、やけに鼻息の荒い陽太に誘われ、薫は廊下の人だかりを陽太と一緒に眺めていた。
市立第三中学校では、定期テストの結果を順位にして廊下に張り出す習慣がある。PTAからは賛否両論あるらしいが、生徒の意欲向上にと学校はそれを続けていた。正に今、その結果が廊下に張り出され、生徒の注目を集めているのだ。
「どうだ? 見えるか桜木?」
背伸びをしながら何とか順位を覗こうと試みる陽太の言葉に、あまりの人に最初から見る事を諦めていた薫は「頭しか見えない」と冷静に返した。
他の生徒の口からは、順位が上がった歓喜の声や、逆に下がった落胆の声が廊下に溢れ出す。そんな空間に、薫は溜め息をついた。理由は簡単――薫は人ごみが嫌いだった。人がたくさんいる空間に入ると、空気が薄くなる様で、気分が悪くなる。
どうして、そんな薫がここにいるのかと言うと、陽太に誘われたからに他ならない。薫一人だったら、絶対この場所には来なかっただろう。
皆が見た後で、最後に見れば人ごみを回避できるし、テストの結果から、自分の成績がどの位置にあるかは想像できる。そう考えた薫は、もう一度溜め息をついた。
「ねえ、森本。また後で見よう。今は無理だよ」
その言葉に陽太は勢い良く薫に視線を移すと、大きく口を開ける。
「いやだ。この順位次第で、携帯が買ってもらえるかどうか決まるんだ」
必死な陽太の表情。その瞳には、携帯電話が欲しいという切なる願いが込められている様に見えた。
「だけど、もう順位は決まってるんだし、後から見ても一緒じゃない?」
温度差のある薫に陽太は「ちっ、ちっ、ち」と舌を鳴らし「違うんだよ桜木。今が良いんだ」と熱弁を始める。それに薫は、鼻から息を漏らした。
「何が、違うの?」
「何が違うってそりゃ……午後の授業のモチベーションが違う!」
よほどテストの結果に自信があるのだろう。逆に駄目だったら、午後からは地獄なんじゃないだろうかと考えながらも、薫は、陽太に笑顔を見せる。
「わかった。じゃあ、今見よう。すぐ見よう。無理にでも見よう」
そう言って、陽太の背後に回った薫は、戸惑う陽太を尻目に、ぐいぐいと人ごみの中に押し込んでいく。それに合わせる様に、陽太は「すいません」「ごめんな」と周りに声を掛けながら進んでいった。
分厚い人の壁を掻い潜り、無理矢理ではあるが、なんとか最前列までたどり着いた二人は、張り出された模造紙に並ぶ、文字列の中から陽太の名前を探し始める。
「ところで、森本。何位までに入れば良いわけ?」
必死に自分の名前を探す陽太に、薫は目線を激しく動かしながら問い掛ける。
「ん? あ、え〜っと……半分んより上」
具体的な数字は返って来なかった。薫達の学級は、総員百八十三名。つまり、九十一番目か九十二番目以上に陽太の名前があれば良いのだ。とりあえず、九十番台から逆にカウントダウンしようと、薫は目線を移動させる。
九十番台――該当なし。
八十番台――該当なし。
七十番台――該当なし。
六十番台――六十二番、葛城弥生。順位の中に弥生を見つけた薫は、少しテンションが上がる。
五十番台――該当なし。
四十番台――該当なし。
三十番台――該当なし。
二十番台――二十三番、若菜康則。
ちょうど薫が、康則の名前を見つけた瞬間。少し離れた所から、陽太の声が聞こえた。
「あった!」
少し上ずったその声の方向に薫は、視線を向ける。しかし、その方向じゃ……と首を向ける方向に違和感を感じつつも薫は、陽太の視線の先を見つめた。
森本陽太――百二十五番。
(だめじゃん)
大きく溜め息をついた薫は、体を細くして、陽太に近付く。どうやって声を掛けようか迷ったが、薫はとりあえず思った事を口にした。
「森本……残念」
「よっしゃ〜! 携帯GET!」
思わず両手でガッツポーズを決める陽太。あまりのショックに現実逃避かと、薫は溜め息交じりに瞼を閉じた。そんな薫の両手を掴み、陽太は周りの目線を省みず、振り回しながら「やったぜ、桜木」連呼する。瞼を閉じていても、聞こえてくる周りの言葉から自分達が注目されている事に気が付いた薫は、いい加減、目立つのは嫌だと、軽く陽太の手首を極め、振り回されている腕を抜き放った。そして、陽太に現実を突き付ける。
「残念、森本。携帯GETならず」
半眼で、淡々と現実を告げた薫に、陽太は「何言ってんだよ」と訝しそうな顔をした。その表情に薫は首を傾げる。
「何言ってんのは森本だろう? どう考えても、この順位じゃ半分以上じゃないだろ?」
その言葉に陽太は、もう一度舌を鳴らすと、自信満々に説明を始めた。
「桜木。この学校に何人生徒がいると思ってんだ……」
そこまでで、わかった。陽太が言わんとする事全てが。何がそういう理屈でそうなるのか理解した薫は、後の言葉を聞き流し、頭の中に浮かんだ結論を噛み締める。
つまり、陽太は救いようのない幸せ者だと。
そんなへ理屈は、きっと親には通用しないだろうと憐みの眼を陽太に向ける。音声をカットしていた薫の瞳には、胸を張って手振りを繰り出す陽太が、少しかわいそうに映った。そろそろ、説明も終わったころだろうと、薫は、音声ミュートを元に戻す。
「……だから、俺は携帯GETというわけだ」
まだ、説明が終わっていなかったのかと、溜め息をついた薫に「何だ? 携帯買ってもらえる俺が羨ましいか?」と陽太は笑顔を見せる。
特段、携帯電話が欲しいわけではない。羨ましくもない。そんな薫は、ぶっきらぼうに言い放つ。
「別に」
その言葉を、嫉妬の裏返しだと感じ取った陽太は、満面の笑みを浮かべ、薫の肩を軽く叩いた。
「まあ、そんなに妬むなって。今度、絶対見せてやるから。そうだ、この事を皆に報告しなくては」
呆れた薫の空気を読み取らない陽太は、鼻歌交じりに一足早く人ごみをかき分け教室に走り去っていく。どこか、あの雰囲気は自分の担任に繋がる事があると、薫は少し頭が痛くなった。
「お〜い、桜木ぃ」
陽太に一人置いて行かれた薫は、教室へと向かう途中、聞き覚えのある声に、背後から呼び止められた。噂をすれば影。そんなことわざがある。これはきっと、死亡フラグに近い物のだと、薫は声の主に溜め息をつく。反射的に振り返ったその先には、予想通りの顔があった。薫の担任――宮前奈々子。
「どうだった? 張り出される順位を見た感想は?」
「どうだった? って……」
宮前先生の言葉で、あの人だかりを思い出した薫は「気持ち悪いです」と素直に怪訝な顔を見せた。
「そうか、やっぱり賛否両論だな。前の学校ではなかったのか?」
「ありませんよ。テストの結果は、三者面談の時に親に知られるくらいです」
「前の学校で、そうやって桜木は、自分の結果を一人でほそく笑んでいたわけか」
ニヤリと笑う宮前先生に、薫は半眼で淡々と言葉を紡ぐ。
「してませんよ。それに、ほくそ笑むです」
薫の指摘に、宮前先生はあさっての方向に視線を移した。
「他の人は、そう言うのかもしれないな」
「間違いを認めましょうね。先生」
「可愛げのない生徒だ」
宮前先生は眉をひそめる。
「元々です」
堂々と言い放った薫。しかし、この言葉は、転校してきたころの薫からは考えられない言葉だ。転校当初、いつも周りの機嫌ばかり窺って、本心は常に心の内に秘めていた。しかし、様々な事が薫の内面や、行動に少しずつ影響を与え、今では、数が少ないながらも、ちょっとした本音を言う事が出来る様になってきていた。多少やり方は陰湿だったが、その、きっかけを作ってくれたのは、最初からずっと目を掛けてくれる宮前先生だ。
普段は飾りっけのない無茶苦茶な性格で、とんでもない事を要求してくる宮前先生も、実は生徒思いで、本当はすごい先生なのだと、少し薫は尊敬していた。
「はっはっは! 言う様になった。これも、私の教育の賜物だなぁ」
あくまで、口にしなければの話である。
薫が大きく溜め息をついたその時、午後の授業を告げるチャイムが響き渡った。
「もういいですか? 授業始まるんで……」
「ああ、構わん。が、桜木。放課後、奈々子の部屋まで来るように。少し話がある」
薫はその言葉に頭を捻る。奈々子の部屋――以前番長の事で呼び出しがあった生徒指導室の事かと、薫は言葉の真意が気にかかった。
「今度は、何ですか?」
「まあ、慌てるな。内容はその折話そう。さあ、午後の授業に行くがいい。美人で知的な先生が桜木を待っているぞ」
意味深な言葉に、薫は首を傾げながら「わかりました」と半ば強引に納得し、自分の教室へと向かった。
教室に戻ると、皆がきちんと席に着いていた。しかし、幸いな事に、教壇には先生の姿はない。それを確認した薫は、皆の視線を照れ笑いで何とか切り抜け、自分の席に着く。
さて、午後一番は何の授業だろうと、薫が教室に貼られている時間割に目を移したその瞬間、「元気か? 諸君」と聞き覚えのある声が聞こえた。
(美人で知的って、自分の事ですか……)
今日何度目かわからない溜め息をついた薫は、静かに国語の教科書を取り出した。