今日から中三(1)
明るい世界。真っ青で透き通るような空と、どこまでも永遠に、地平線の先まで続く色とりどりの花畑。薫はその中で一人、桜色のドレスを纏い、立っていた。
見渡す限り薫の視線を遮るものがない花畑で、他に人の姿が全く見当たらない。皆どこへ行ってしまったのだろう? こんな広い世界で、一人ぼっちなのかと考えると、柔らかい風と共に寂しさが押し寄せてくる。声に出して誰かを呼ぼうと口を動かすが、空気が漏れるだけで、全く言葉にならない。耳を澄ませてみても、聞こえるのは、微かに流れる風の音だけ。薫は不安に押し潰されていった。
そんな不安に居ても立ってもいられず、薫はドレスのすそを振り乱し、何度も、何度も、辺りを見回すが、誰一人見つける事ができない。どうしようもない悲しさに包み込まれ、景色が涙で滲んでいく。
その時、一陣の風が勢い良く通り抜けた。地を這う様なその風は、心待ちにしていたタンポポの綿毛を一斉に舞い上げる。一瞬にして視界が真っ白な綿毛に覆い尽くされた。薫はとっさに両手で瞳を隠すが、バランスを崩してその場に尻もちをついてしまう。その衝撃で、薫の周囲に咲いていた花弁が、ふわりと白いキャンパスを彩った。
不思議と痛みは感じない。地面が優しく薫の体重を吸収した様だった。しかし、両手で覆った瞳からは、涙が止めどなく溢れ続ける。
(誰か……助けて)
「大丈夫ですか? 薫姫」
声が聞こえた。中性的で透き通った声が……
薫の心に希望の光が微かに差し込む。この世界に自分一人ではなかったと。その瞬間、最初の風よりも強烈な風が吹き抜けた。
薫は両手をどかし、世界をもう一度確認する。
真っ青な空。どこまでも続く花畑。その中に、自分以外の人がいた。薫とは対照的な真っ赤に染められた男性貴族の礼服を纏った人が、薫の目の前で跪いている。
声を掛けようとしても、薫の言葉は紡ぎ出されない。代わりに涙が流れ落ちた。その涙をすくい上げる様に貴族の言葉が、薫に触れていく。
「薫姫。あなたに涙は似合いません。さあ、その美しい顔を私に見せて下さい」
俯きかけた薫の頬に、貴族の温かい掌が添えられると、不思議と消える涙とその跡。薫は貴族に促される様に、視線を移す。すると零れていく貴族の溜め息。
「美しい。どんな物語に登場する姫君よりも、どんなに価値のある宝石よりも、あなたは輝いている。花の精霊が嫉妬して、あなたをここに閉じ込めた理由がわかります」
並べられた美辞麗句に、薫は戸惑う。その姿に微笑んだ貴族は、ゆっくり薫の肩を抱き寄せた。
「もう、あなたを一人にはさせません」
貴族は、そこまで口にすると薫の瞳を見つめ、唇を、そっと……
「させませんからー! って、どぅぉわ〜!」
薫は叫びながら体を捻ると、ベッドの上から勢い良く転げ落ちた。その後素早く立ち上がると、戦闘態勢を整え周囲を見回す。
瞳が映し出した映像は、真っ青な空でも、地平線まで広がる花畑でも、美辞麗句を並べる貴族でもなかった。最近引っ越してきたばかりで、片付けが行き届かない自分の部屋だった。乱雑に並ぶ段ボール。簡単なつくりの勉強机。蒲団が弾けているベッド。窓から見える、咲き始めの桜が、薫に現実を思い出させてくれた。
「夢……だった」
安堵の息が漏れる。もう一度自分の部屋を見回した薫は、部屋の壁に掛けられた姿見で自分の姿を確認した。そこには、夢で貴族にたたえられたいつもの自分の顔がある。一度口を開いてみると、鏡の中の薫も同じ様に口を開けた。間違いなく自分の顔だ。そして、もちろんドレスなんかは着ていない。いつも寝まき代わりにしている灰色のスウェットがだらしなく纏わりついていた。
二度三度、瞬きをした薫は、大きく溜め息をついて姿見から視線を外すと、壁掛けハンガーが着ている、山吹色のブレザーに目線を移した。まだ一度しか袖を通した事がない学校の制服。手に取ると、まだ新品の匂いがした。
今日は、薫にとって新しい生活の始まる特別な日。それは、転校初日。そんな不安が、あんな夢を見せたのかと、薫は眉をひそめた。
おもむろに、スウェットを脱ぎ捨てた薫は、ポロシャツを着て、ズボンをはくと、ブレザーに袖を通す。新しい制服のワンセットを纏うと、自然に薫の気持が引き締まる。
しかし、もう一度姿見で、自分の姿を確認した薫は、以前の学校で着ていた学生服とはだいぶ違う印象に、溜め息をついた。
(なんだか、女の子みたいだ)
この物語の主人公――桜木薫はれっきとした男子中学生だ。そして、今日から中学三年生になる。しかし、母親に似た容姿のせいか、同い年の子よりどうしても幼く見えた。と、言うよりセミショートの髪型で、制服のブレザーを着た薫は、まるで女の子。髪の毛を切ってもらえば良かったと後悔しても、今からでは間に合わない。全てが、後の祭りだった。
髪の毛のセットでどうにかならないかと、試行錯誤を繰り返してみても、ボーイッシュな女の子になるだけで、根本的な解決には至らない。諦めの溜め息が漏れた瞬間、下の階から飛んできた母親の催促。
「何してるの? 薫。時間ないわよ」
壁掛け時計を一瞥すると、時間は出発予定時刻だった。薫は、慌て学習机に置いてあった鞄を手に取り、階段を下りる。
玄関先には、準備万端の母親と、セーラー服を着た双子の妹が待っていた。
「遅い、何してたのよ?」
膨れっ面で妹が、薫を睨みつける。
二卵性の双子としてこの世に生を受けた妹は、本当に薫とよく似ていた。例え一卵性の双子であると言われても、理系の人間でなければ、疑う事なく簡単に納得するくらい瓜二つ。もし、髪型と服装が一緒だったら、家族しか見分けがつかないだろう。
妹の名前は、桜木美咲。
前の学校では、かなり評判の美少女だった。友達からは、美咲が誰々に告白されたとか、芸能事務所にスカウトされた、と聞いていたが、薫は絶対にそれを認めようとしなかった。
その理由は簡単――男としてのプライドだ。
「どうしたのよ? ぼーっとして」
母親が、心配そうに薫の顔を覗き込むと、横から見ていた美咲が鼻で笑い「どうせ、私のセーラー服姿に見とれてたんでしょ」と自慢のロングヘアーをなびかせた。
(本当に美咲は……)
「自信過剰……」
つい、薫の本音が零れてしまう。美咲のそれに対する反応は、とてつもなく早かった。
「うっさいわね。この女男」
美咲の言葉にダメージを受けながらも、薫は精一杯反撃する。
「な、何だと。この性格ブサイク」
「言ったわね〜。このKing of モヤシっ子」
「何だよ、King of モヤシっ子って」
「そんなのも知らないの? バカじゃない?」
「バカって、美咲の方がバカじゃないか」
徐々に声のトーンが大きくなる。
「バカはあんたでしょ!」
「バカって言う方がバカなんだ!」
「バカにバカって言う方がバカなのよ!」
バカバカ言い合っていると、隣で母親の溜め息が聞こえた。それが、いつもの合図だ。収拾が着かなくなると繰り出される、母親の必殺技。
タイミングはいつも正確だ。だから、そろそろ来るぞと、二人は身構えた。
「いい加減にしなさい! 二人共、遅刻するわよ!」
鼓膜が破れそうな声に、薫も美咲も黙り込む。いつも以上のボリュームだった。耳鳴りが止まない中、薫は心の中で驚く。
(またレベルが上がってる。このまま行けば、鼓膜が破られるのは、時間の問題だな……。恐るべし、母さん)
二人揃ってしかめ面で両耳を押さえる薫達に、母親は鼻息荒く口を開いた。
「さあ行くわよ。美咲、車に乗りなさい。薫はその前に、顔を洗って来なさい」
薫は美咲と少し睨み合った後、プイっと目線を外す。そして言われた通り、黙って洗面所に向かった。
校門前で一人、薫は車を降りた。後部座席に置き忘れた自分の鞄を見つけると、慌てて取り出し、ドアを閉める。もう忘れものはないかと、制服のポケットを上から順番に触っていった。とりあえず思い当たる物がないと確認した薫は、一息つく。そして、なぜか助手席からいっこうに降りてこない美咲に、首を傾げながら目線を移した。
(あれ?)
そんな薫に、申し訳なさそうな母親の声が飛んでくる。
「ごめんね薫。今日は美咲の学校に挨拶に行くから」
(そうだった、忘れてた)
薫は母親の言葉で、美咲が自分とは違う、女子中学校に転校する事を思い出した。
(これなら静かな学校生活が期待できそうだ)
学校内での、厄介事が一つ消え、薫の口元が緩む。
「何、ニヤけてるのよ?」
助手席から飛んで来た、不満げな美咲の横槍を無視すると、薫は緩んだ口で母親に言った。
「わかったよ、母さん」
薫の言葉で母親は「あっ」と思い出した様に自分の鞄を覗き込む。
「ああ、そうそう、はい、これお弁当」
母親はそう言いながら弁当の包みを取り出すと、美咲越しに薫に渡した。まだ温かい弁当の包みを受け取ると、薫は傾けないように鞄の中に入れる。
「ありがとう」
薫の言葉に、母親は微笑み「じゃあ、行くからね」と、車を発進させる。始終無視された美咲は気持ちが収まらないと窓から体を乗り出し、薫に向けて中指を立てながら遠ざかっていく。そんな美咲が、とても可笑しくて吹き出しそうになった。
二人が乗った車が見えなくなると、薫は踵を返し学校を見上げる。市立第三中学校――男女共学で、クラブ活動が盛んな学校だと、パンフレットには書いてあった。
クスミの少ない四階建ての校舎が、太陽の光を反射して、真っ白に輝いている。
校門前で立ち尽くす薫を横目に、同じブレザーを着た学校の生徒が通り過ぎて、続々と校舎の中に吸い込まれていく。
いざ、ここまで来ると、不安と緊張が込み上げてきた。なかなか一歩が踏み出せない。
(こんな時、美咲がいたら、ぐいぐい引っ張ってくれるんだけど……)
弱音が薫の頭を過ぎると、同時に、美咲が高らかに笑いながら自分を見下す姿が見えた。
『私がいないと、何にもできないの?』
薫は頭を振って、そんな想像を掻き消し「よし」と、声に出して気合いを入れ、校門をくぐる。この一歩は薫にとって大きな一歩だった。
薫は、校内に入るととりあえず、職員室に向かう。しかし、職員室の場所をド忘れした薫は、手当たり次第歩き回り、教室のプレートを一つ一つ確認しながら、校舎の廊下をさ迷っていた。以外と広いんだな。こんなんだったら、パンフレットでも持って来れば良かったと自分の計画性のなさに、溜め息が零れる。
「どうしたの?」
そんな薫に不意撃ちの如く、後ろから声が聞こえた。とっさに薫が振り返ると、そこにはプリントを両手一杯に抱えた少女が立っている。眼鏡をかけて、三ツ編みで、清楚な雰囲気。単純な薫の中で一つの答えが導き出された。
(間違いない。委員長だ)
委員長とは、誰にも優しくクラスでリーダーシップを発揮する存在。そう思っていた薫は助けを求めるために、「えっと……」と最善の言葉を探す。が、すぐには出て来ない。そんな煮え切らない薫を、委員長(仮)は待ってはくれず、冷たい視線と言葉が薫に向かって飛んで来た。
「邪魔なんだけど」
「え?」
突然の言葉に、自分の耳を疑ったが、薫に考える時間を与えず、委員長(仮)から、すぐに追い撃ちが来た。
「そこに立たれると、職員室に入れないでしょ」
「え!?」
薫は、二つの意味で驚いた。探していた職員室がすぐそこにあって、委員長(仮)には初対面なのに、ズバっと斬られた。
(委員長って皆に優しいんじゃ?)
そして、薫の勝手なイメージが、無惨にも砕け散る。
「どかないなら扉、開けてくれる」
「あ、はい」
苛立ちがこもった委員長(仮)の言葉に、薫は慌て扉を開ける。その姿を冷静に見つめていた委員長(仮)は、横目で「ありがと」と言い残し、職員室の中に入って行った。
しばらく現状を理解できなかった薫も、なんとか気持ちの整理をつけ、後を追う様に職員室に入る。職員室は広く、一般的な教室の二倍はある広さだった。そんな室内には、お馴染みである灰色のスチール事務机がずらりと並んでいる。きれいに整頓された机もあれば、資料や本などで散らかっている机もある。そして、様々な年齢の先生が何だか忙しそうに動いていた。さっき薫と接触した委員長(仮)は高齢の男性教師に、手に持っていたプリントを提出しているみたいだ。
物珍しそうに職員室内を見渡していると一人の女の先生が、薫に向けて手招きしているのが見えた。その先生と目が合うと、いっそう手招きが早くなる。
「こっちだ、桜木」
(あの人が、担任の先生かな?)
薫は半信半疑で先生の机まで行くと「やっと来たか」と、溜め息をつかれた。それに薫は黙って頷く。
スーツを着た女の先生は、黒い髪の毛を頭の後ろでまとめながら、ぱっちりとした黒い双眸で、なめるように薫を見ると、ニヤリと笑い、そっと薫の顔に触れていく。
「うん、写真通り綺麗な顔をしているな。男にしておくのは勿体ないぞ」
身の危険を感じた薫は、無意識で一歩後ろに下がる。それを見た先生は、意地悪く笑いながら「悪い悪い、冗談だよ」と、足を組み替え言葉を続けた。
「私が、お前の担任。宮前奈々子だ。よろしくな」
「あ、はい。よろしくお願いします」
緊張で縮こまった薫の声を聞いた宮前先生は、一瞬、怪訝な顔を見せる。
「何だ? 元気ないぞ桜木。スカート履くか?」
「履きません」
薫の即答に、目を丸くすると、宮前先生はポニーテールを揺らしながら、大声で笑い出した。なんとなく職員室の視線が薫達に集まっているのがわかる。
(ああ、痛い)
とりあえず、薫の中で宮前先生の第一印象は、美人だけど、空気が読めなくて、大雑把で、無神経で――とどのつまり、豪快な人になった。
薫は、そんな宮前先生が笑い終わるのを、周囲の視線に耐えながらただじっと待つ。恥ずかしさから体温が上昇するのを感じると薫は黙って俯いた。薫の行動に気がついた宮前先生は、黒い表紙の簿冊を手に持ち「よし、じゃあ行くか?」と、立ち上がる。
そして、ニッコリ笑うと薫の肩を軽く叩いた。
「これから、皆に紹介するけど、元気出して行けよ。元気」
「はい」
いよいよ、新しい学校生活が始まる。期待と不安で薫の小さな胸が一杯になってきた。
すいません。藤咲一です。大人になる前の微妙な時期をコメディータッチに書ければな、と思い書き始めました。ゴールは見えていません。ですが、頑張っていきますので、温かく見守っていただけると幸いです。藤咲一でした。