6.このくそったれな世界を変えることができるとすれば
もうすぐ俺は死ぬ。
十二席の手によって、八つ裂きにされて。
仕方ないな、と俺は思う。
じぶんが間違ったことをしたとは思っていない。斃れていった友に顔向けができないことはしなかった。しかし、彼らの命を奪った罪は消えない。死をもって償うことができるとは思えないが、俺に差し出せるものは、もはやこの命くらいのものだ。向こうで会ったとき、せいぜい謝るしかないだろう、とも思う。
天を仰いで、俺は待った。
断罪の刃を。
憤怒と憎悪の攻撃を。
しかし、いつまで経っても、俺は死ななかった。
目を開く。
俺のまえに、クロエが立ちふさがっていた。
「控えよ、皆の者」
クロエは震える声で、告げる。
「わたしは闇の神の化身、【ダークエルフ】クロエ・リシャール。
ウマル・アブドゥルラザクは神の理を解せず、私利私欲に神聖なる暗殺者のちからを行使した。故に、鉄槌を下した。
これはわたしの命である。
これは神の御意志である」
なんだよそれ、と俺は思う。
そんなことばでひれ伏す連中であれば、いつまでもウマルのまえにひざまずいていただろう。権威に疑いを抱いているからこそ、俺がウマルを殺せる隙が生まれたのだ。いまさら神の御意志などを大上段に掲げても、意味がないのに。
クロエの肌が粟立っているのが、ここからも見えた。
怯えている。怖がっている。
十二席の十一人を相手どって、クロエが生き残れるわけがないのだ。相手には、最強の”鉤爪”までもが控えている。戦ったら、生き残れるわけがない。
だから、怯えている。
あたりまえだ。こいつは、ちいさな黒猫なのだ。三〇〇年生きていようと関係あるものか。俺にとっては、ひとに差し伸べられた手にさえ怯えてしまう、ちいさなちいさな黒猫だ。
「……もういいよ、クロエ」
俺は、その震える背に、できるだけやさしい声を掛ける。
「ありがとうな。庇ってくれたんだな。怖いだろうに、悪かったな」
「先輩、だめっ!」
素の声で、クロエは叫ぶ。
「いいんだ、クロエ。もう、大丈夫だ」
それから俺は立ち上がり、十一人に対して言う。
「さあ、もう用は済んだ。
俺を殺せ。事ここに及んで、もはや足掻きはしない。ただ、クロエに手を出すな。もしクロエを傷つけようとすれば、俺は全力で抵抗して、ひとりは必ず巻き添えにしてやる。いいか。クロエには、絶対に、手を出すな。こいつは俺の猫だ」
「せんぱ……っ」
クロエは緊張が途切れたのか、膝から崩れ落ちてしまった。
俺はその落ちた肩に、ふわりとマントを掛けた。血糊で手に張り付いてしまったナイフを、床に落とした。
これで、晴れて丸腰だ。
「さ、やれよ」
十一人は、黙っている。
黙って、俺を見守っている。
それから、お互いに顔を見合わせ始めた。なにを考えているのか、表情は黒覆面に隠されてうかがい知ることはできない。しかし、彼ら自身は互いに通じるものがあるらしい。うなずき合い、中から長身のひとりが進み出る。
”鉤爪”ナイラだ。
ナイラが覆面を取る。
なかから現れたのは、優美といってもいい程のうつくしい面差しだった。頭頂部できれいに束ねられた金髪と、透き通るような白い肌。貴族に感じるような、女性的な印象だ。これがあの禍々しい”鉤爪”を振るい、五〇〇もの標的を殺した男とは思えない。
「……”踊り子”アザム。おまえに、聞きたいことがある」
「問答か?」
「いや。あんな形を取る必要は、もうないだろう。おまえのことばを、おまえの語り方で、わたしたちは聞きたいと思う」
雲行きが怪しい。
しかし、死を覚悟していたのだから、もはやなにが起きても驚くまい。
「いいよ。なんだい?」
「……ウマル師が、道を誤っていることはわれらも気づいていた」
ハスキーな声を低くして、ナイラが言った。
「おまえの指摘する通りだ。ウマル師のやっていたことは、神の理を現世に実現するどころか、薄汚れた殺し屋稼業だった。某国の王子を殺し、報復攻撃に見せかけて敵国の貴族を殺し……わざと戦争を引き起こさせては、繋がっている武器商人から金を得る。
そんなことばかりを繰り返していた」
さすがに、顔をしかめてしまった。
ペテン師……というのはクロエの評だが、ここまで酷いとは。
「われら十二席は、直接命を受ける立場にあったし、密使を歓待する場面にも居合わせている。それだけに、事情は完全に透けて見えてしまっていたのだ」
「じゃあ、どうして黙ってたんだ」
厳しいと承知で、俺は言う。
「神の理に沿うばかりか、神を汚すような真似ばかりしているウマルを、なぜあなたたちは放置したんだ。あなたたちなら止められた。ウマルを殺すこともできただろう」
「それが、できなかった」
ナイラは歯噛みする。
「ウマル師を殺せば、道が失われる。
誤った道でも、道は道だ。
それを示すものがいなければ、教団は完全に制御を失う。われらには、ウマル師の穴を埋めるだけの力がなかった。思想がなかった。理想がなかった。
だから、騙されていると知りながら、『もしかしたら』との思いを捨てられなかった。
『もしかしたら、ウマル師はほんとうに神の理を知っているのかもしれない』
『もしかしたら、彼が命ずる暗殺の十に一つは、神の理に繋がるものなのかもしれない』
そういう期待を、捨てることができなかった」
だから、とナイラは顔を上げる。
「おまえに、教えてほしい。
神の理とは、なんだ?
神は、われらになにを望む? われらの使命とはなんだ? われらがこの世界をよりよくするために、いったいなにができる? 理想世界とはなんだ? われらの殺人技術は、ほんとうに必要なものなのか?」
ナイラの目が、輝いている。
悲痛な懇願に、光っている。
こんな十二歳かそこらの子供になにを聞いているんだ、という指摘は、もはや野暮というものだ。彼は、彼らは本気で望んでいる。正しい指針を。すくなくとも、正しいと思える指針を。じぶんを賭けられる、なにかを。
「――」
それは、俺が示せるものだろうか。
確かに俺はウマル師を否定した。ウマル師の悪行を糾弾した。けれども、だからといって、彼に代わって暗殺教団を導くような、大それた使命を確信しているわけではない。
俺が黙りこくっていると。
「……すまなかった。
わたしはいったい、なにを聞いているのだろうな。おまえのような子供に。
また『もしかしたら』などと考えてしまった。
『もしかしたら、このひとこそが、われらを導いてくれるのではないか』――などと。
いかんな。夢を見るのはたいがいにしなければ、また同じ失敗に陥ってしまうな」
自嘲気味に、ナイラが笑う。
たまらなかった。
そういう顔をされるのは、たまらない。
「……俺は」
いけないと思いながら、口を開いていた。
「俺の、考えていたことしか語れない。
この教団がどちらに向かうべきかなんて、考えたことはなかった。俺が考えていたのは、じぶんがどうしてひとを殺さなくちゃいけないのか、ということだったんだ」
俺は、語り始めているらしい。
いつのまにか、ナイラが、十二席の皆が、クロエが、俺のことばに耳を傾けていた。
「なぜ、ひとを殺すことによって、世界をよくできるのか。ずっと考えていた」
四歳のころ。
暗殺者としての訓練を開始したときに、俺はその考えに取りつかれた。
周りの仲間たちのように、ほんものの四歳ではない。目のまえのことに没頭するだけではなく、その先を、考えてしまう。十七歳の面倒くさい頭を、俺は持っていたからだ。
「そもそも、いまの世界はどうか。
そう考えてみたとき、俺の頭に浮かんだのは『理不尽』ってことばだった。
理不尽に、ひとは死ぬ。
理不尽に、ひとは傷ついている。
これを改めることができたら、世界はもうすこしよくなるかもしれない。そう思った。じゃあ、『理不尽』って、どういうことだろう? どう思う、クロエ?」
「え? わ、わたしっすか? ……ええーっと、なんすかね。うまくいかないってことですかね、えへへ」
「うまくいかない。それも正しいな。うまくいくはずなのに、うまくいかない。そのとき、ひとは『理不尽』だと感じるよな」
「そ、そうっすね! そういうことっす!」
クロエが勢いごんで同意してくる。
「つまり、原因と結果が結びついていないとき、ひとは理不尽だと感じるんだ」
「原因と結果?」
「いいことをしたのに、不幸になる。これは理不尽だ。
悪いことをしている人間が、幸福になる。これも理不尽だ。
つまり、そのひとの作った原因に対して、正しい結果がもたらされていない。これが、理不尽な世界なんじゃないかって、俺は思ったんだ」
そこまで考えて、俺は思い当たったのだ。
聞きなれた熟語に、ぴったりのことばがあるということに。
「因果応報。そういうことばがある」
「インガオーホー?」
ナイラが首をひねった。
「因に応じて果が報いる。
原因によって結果がもたらされるという意味のことばだ。俺たちの故郷ではこのことばを、善悪に対して用いることが多い」
「俺たちの故郷……?」
いけない、口が滑った。
よく考えたら、俺はこの教団で生まれた子供なのだった。別に前世のことを隠す必要があるとは思えないが、まあ念のため。
「まあ、そこは置いておくとして。
とにかく、因果応報っていうのは、善人がいい思いをし、悪人が嫌な思いをすることだって、思ってくれたらいい。
もし神様がいるとするなら、俺は、因果応報がなされるべきだと思う。
善人や弱者は助けられるべきだし、悪人は打ち倒されるべきだ。それでこそ、ひとびとが感じる『理不尽』はなくなる。
そのためなら、俺はひとを殺せるかもしれない。そう思った」
「それはつまり……」
「弱者は絶対に助ける。できることなら、不幸を感じるまえに。
悪人は絶対に殺す。自分の罪の重さを、徹底的に思い知らせた上で。
ごくあたりまえの、正義の味方のやりかただよ」
「因果応報……」
クロエがつぶやく。
「どこまでやれるのかは知らない。
どこまで意味があるのかも分からない。
もしかしたらそれは、そびえ立つ大きな壁に、卵を投げつけるような、途方もない仕事なのかもしれない。でも、やってみる価値はあるんじゃないかって、俺は思ってる」
俺は、皆を見渡した。
「このくそったれな世界を変えることができるとすれば、
俺たちの身につけた殺人の技術にだって、意味はあるかもしれない」
ナイラが、笑った。
はじめて見る顔だった。人形めいた硬い表情は崩れ、親しみやすい顔がすがたを表す。当初の印象よりも年若いのかもしれない、とふと思った。
「因果応報……因果応報か! なるほど面白い! なあみんな!」
十二席の残りも、いつしか覆面を取り去っていた。
熱っぽい顔が、お互いに期待と喜びの笑みを浮かべていた。
ナイラの顔が、こちらを向き直る。
「おまえは、ウマル師とは違うな」
「どこが?」
「大仰なことばを使わない。思わせぶりな言い方をしない。率直で等身大で、いかにも子供っぽい。慣れないが、悪くない聞き心地だ。この声に命令されるのであれば、悪くない。そう思える」
それからナイラは、俺のまえに膝を屈した。
残りの十二席も続々と膝をつき、クロエだけが俺の隣に立った。
「われら暗殺教団、総勢二〇〇〇名。
これより”踊り子”アザム師を頭領と仰ぎ、この身滅び去るまで忠誠を尽くすと誓う」
「誓う」
口々に、暗殺者たちは言った。
ちょっと待て。
どうして、そうなった。
「いや……待ってくれ。まずは顔を上げてくれ」
「ご命令とあらば」
「いやいや命令とかじゃなくて。どうしてこうなったんだよ。そもそも俺は教祖になるつもりなんて……」
「であるから、頭領です」
「いや名前の問題じゃなくて」
至って真面目なナイラに、なんと説明したものか悩んでいると。
「しょうがないんじゃないっすか、先輩」
クロエがにゃふふ、と悪戯っぽく笑う。
すっかりいつものペースを取り戻したように。
「しょうがないって、おまえ」
「さっきのことばを聞いたら、しょうがないっす。夢を見せた人間には、その夢への道筋を示す義務があるんすよ」
「む」
「たぶんこのひとたち、来るなと言っても付いてきちゃいますよ。わたしとおんなじで。諦めてください」
さて、とクロエが言う。
「じゃあ始めましょっか。……因果応報を」