5.語るに落ちたり、ウマル・アブドゥルラザク
泣いていた。
じぶんが泣いていることも意識にのぼらないほどに、全身で、全霊で、泣いていた。
「よくやった、アザム」
背後から、あの教師の声がする。
悲嘆に暮れていたはずの俺のからだは、反射で動いた。声の聞こえた高さから頭の位置を推定し、無反動でその位置へ向かって背面跳びを行う。驚愕に目を見開く教師を宙から見据え、そのくそいまいましい喉に、必殺のナイフを突き立てる――。
しかし、その企ては遮られた。
横から伸びてきた鉤爪によって。
「――っ!」
「気が立っているのだな。私にも経験がある」
鉤爪を装備した暗殺者が、ハスキーな声で言う。
全身を黒いマントでくるんでおり、表情は伺いしれない。腕の長さと頭の位置からして、身長は相当に高いようだが、からだつきは意外なまでにほっそりとしていた。
しかし、十二歳の子供とはいえ、俺の全体重と全技術を乗せて放った必殺の一撃を、たやすく防いでみせたのだ。その膂力がどれほどのものか――想像するだにおそろしい。
”鉤爪”ナイラ。
真っ先に、その名が浮かんだ。
暗殺教団の誇る、最強の矢。
構成員二〇〇〇を数える教団中で、任務達成件数が一〇〇件を超えるエースが集められた「十二席」の筆頭にして頂点。任務達成件数は優に五〇〇件を超えている。
「だが、刃はもう納めろ。戦闘は終わった」
”鉤爪”がいるということは――。
俺は、まがまがしい気配に振り向く。
「よくやった、わが子よ。
すばらしい働きであった。見事な殺しぶりであった。あの冷徹なる刃、あの舞い踊るような動き。血しぶきを浴びながら狂乱するさまは、さながら剣舞のよう。
……”踊り子”と、おまえを名付けよう」
そこに、大教祖――ウマル・アブドゥルラザクがいた。
肥った巨体を椅子にうずめ、両脇に露出の高い寵姫を控えさせたすがただ。丁寧に梳かされた白髪と白ヒゲとが、つやつやと輝いている。こずるい眼光は、皺のなかに潜め、あくまで好々爺然とほほ笑んでいる。しかし、俺は嫌悪感に身を焼き切られるような思いだった。
ウマルを中心に、十二席の暗殺者たちがずらりと居並んでいる。
そのなかに、クロエのすがたもあった。
俺の有様を見て、小刻みに震えながら、唇を噛み締めている。駆け寄りたい。そういう思いを押し殺しているのだと知れた。唇からは、ひと筋の血すら流れている。
「”踊り子”アザムよ。
おまえは見事にやり遂げてみせた。これよりおまえの暗殺者見習いとしての任を解き、われらが暗殺教団の正式な暗殺者として迎え入れることとしよう。
まず、わがまえにひざまずくのだ。
そしてわたしの足に、くちづけよ」
「なにをしている、アザム!
大教祖様の御前であるぞ、ひれ伏さぬかッ!」
教師が居丈高な声を上げる。
だが、大きいだけの声に圧されるほど、やわではない。俺は流れつづける涙を二の腕で拭い、ウマルにまっすぐ眼光を向ける。
「われらが神の代行者、誉れ高き大教祖、ウマル・アブドゥルラザク閣下に問いたい」
「謹め、アザム!」
「よい」
鷹揚に手をひらつかせて教師を御すと、ウマルは皺の隙間から鋭い目を覗かせて俺を見据える。
「なんだね、”踊り子”よ」
「なにゆえ、われらは殺しあわなければならなかったか。
なにゆえ、われらは殺しつづけていかねばならないか」
問答である。
この形を取られれば、上の者は答えなければならない。それが教団の掟であった。論を交わし、それを通じて更なる真理へと到達する一助と為す。それがウマルの掲げる「平等」だった。論を通じて、教祖と信徒とは平等である、というのだ。
実情は有名無実といえど、こういう場面で利用するにはいい制度だった。
ウマルはあくまで悠然と答える。
「答えよう、わが子、若き信徒、栄えあるこたびの勝利者こと”踊り子”アザムよ。
なにゆえ、おまえたちは殺しあわなければならなかったか。
おまえたちは未熟である。神の理を現世に実現するという大義よりも、目のまえのちいさな同情に心を奪われ、判断を過てることが多い。これをあらかじめ防ぐためには、すべての同情を振り捨てて、大義のために刃を振るい、肉親でさえも殺害することが必要である。また、暗殺者は失敗を許されぬ。失敗すれば骸を晒し、敵に手がかりを残すという最悪の結果さえも招きかねない。これをあらかじめ防ぐためには、弱きものの間引きがいちばんよい。暗殺者は少数精鋭でよく、最良のひとりを残すのが理に沿っている」
ウマルが、にこりと笑う。
「なにゆえ、おまえたちは殺しつづけなければならないか。
わたしが指し示す標的は、世界に害を為す者たちである。捨て置けば、神の理を実現するにあたり、障害たる者たちである。神の声を聞くことでわたしは標的たる人間を知り、おまえたちにその実行を委ねている。ひとりを殺せば、神の理を実現した世界――すなわち、理想世界にひとつ、おまえたちは近づくことになる」
「では重ねて問う。
神の理とはなにか。それは命よりも重いものか。
閣下の描く、理想世界とはなにか」
ウマルの笑顔がひきつった。
「答えよう、わが子。
神の理とはなにか。
神の理について語ることは、このわたしには許されていない。このわたしは神意の代行者に過ぎず、神を代弁することは許されえない。わたしの職分は、神の理を語ることにあらず。神の理を代行することにある。雄弁ではなく、実行である。
それは命よりも重いものか。
命の軽重はおのれが決めるものではない。常に他者によりて価値を測られるものだ。また重ねて言うのなら、われら教団員の命は神によりて決められるものだ。どちらにせよ、神意と命とを秤に掛けることは許されない。あまねくすべての命は神によりてつくられたものであり、神意を上回ることなどあろうはずもない。
わたしの描く、理想世界とはなにか。
これについても、語ることばをわたしは持たない。わたしは理想を描く者にあらず、理想を実現するべく実行を重ねる者である。理想を描くは全能なる神の御業にあり、わたしはそれにただひれ伏すのみである」
朗々と語り終えると、ウマルは満足げに口を閉じた。
かつてクロエの語ったとおりだった。ウマルは、「神の理」という謎めいたレトリックで相手を煙に巻き、誤魔化しを重ねているだけだ。
情けない。
こんな男のために。
こんなペテン師のために。
俺は、かけがえのない友を、失ったのか。
俺は息を吸う。
そして、大きな声で言い放った。
「語るに落ちたり、ウマル・アブドゥルラザク!
きさまは神の理を騙りながら、神の理を語れぬという!
ゆえに、教団の長たる資格はない!
きさまは理想を騙りながら、理想の世界を描けぬという!
ゆえに、組織の長たる資格はない!
きさまは命を騙りながら、命の価値を決められぬという!
ゆえに、死と殺しを弄ぶ資格はない!
きさまのことばは、いつわりとまやかしに満ちている! 欺瞞と破綻にまみれている! 虚偽と装飾に覆われている! 真理を語ると抜かしながら、その実、一片たりとも真理を語ったためしがない! 私利私欲のために神のしもべたる暗殺者を用いて、なお顧みることがない!
きさまはわれら暗殺者にひれ伏せという!
勘違いするな!
われらは神のまえにひれ伏すものであり、きさまごとき贋物に屈する膝など持ち合わせてはいない!」
「ぬっ……!」
ウマルが一歩退いた。
焦りと動揺に満たされた顔が、しだいに、激怒へと覆われていく。当然だろう。じぶんの領域であるはずの神学問答において、小僧が真っ向から歯向かってきたのだ。
「おまえごとき小僧が! よくもこのわたしに!
殺せナイラ! こやつは生かしておくに値せぬ!」
大声の下知が飛ぶ。
俺は重ねて叫ぶ。
「情けないぞウマル! おのれの掲げた『問答』という規則までをも曲げるか!」
「やかましい! 殺せえええええええええええええ!」
ナイラが躊躇っているうちに、俺は跳んでいた。
ただこの一瞬だけは、誰もが反応し切れない。いや、反応できたとしても、一瞬の躊躇が隙を見せる。このウマルという男を、無条件で身を挺して庇う人間はいないのだ。
これが、神を騙り、神を語らなかった男の限界だ。
「受け取れウマル! これが、きさまへの引導だ!」
俺の刃が、ウマルの喉を貫いた。
どす黒い血液が、暴飲暴食で弱った心臓の鼓動に合わせて、間欠泉のように噴出する。おおきく開かれた目が、急速にその光を失っていく。
「うぐ……あ……なぜ、だ……ナイラ……”鉤爪”よ……」
かたわらの腹心たちに、ウマルは問いかける。
なぜだ、と。
それが分からないのであれば、もう、この男に救いはない。
俺は、ウマルが死にゆくさまを、ただ眺めていた。感情に、さざ波ひとつ立ちはしなかった。死ぬべき者が死んだとしても、なにも思いはしない。
これで、終わった。
俺のやるべきことは、すべて。
ようやく我に返った暗殺者たちが、おのおのの武器を手に殺到するなかで、俺は天を仰いだ。