48.二〇〇〇人のお友達が、あなたを待ってるわ
「いやだ、頼む、許してくれ、お願いだ、やめて、このとおりだ、なんでもする、なんでも、明日四〇〇枚つくるから、頼む……」
懇願は、聞きとどけられない。
けんめいに”姫”へ訴えかけるが、まったくの黙殺だ。Fの両脇をつかんだ暗殺者たちも、覆面をつけたまま、正面を見て迷いなく歩みを進めていく。掴まれたところだけが熱い。ここ数日で、Fの体温はかんぜんに冷え切ってしまっていた。
地下牢の、石造りの廊下を進んでいく。
あっというまに、Fのからだはある部屋に放り込まれた。
「ようこそーようこそーよくきたねー」
待ち受けていた少女が笑う。
眠たげなまぶたの奥で、わずかに赤い瞳がぎらりとかがやいている。じぶんの同類の目だ、とFは気がつく。ひとを傷つけ、ひとをさいなみ、ひとをばらばらにすることに取り憑かれたものの目。つまり、拷問官の目。
部屋の中央には寝台が置かれ、見慣れた拘束具がしつらえてあった。
鉄錆のにおいが、ぷんと鼻をつく。染みついた血と臓物のにおいだ。
――『生まれてきたことを後悔するほどに、無慈悲な拷問』。
「いやだっ!」
Fが絶叫して振り向いた。
「頼む、頼みます”姫”、いいんですか、私をこんなところで殺したら、もう符は手に入りませんよ、私を生かしておいたほうが、よほど得のはずだ! いっときの感情で殺すなんて、ねえ、分かりますよね”姫”、お願いしますよ”姫”、あなたも、あの頭領から解き放たれたいって言ってたじゃないですか、ねえ! なんとか言ってくださいよ! ねえ!」
Fのからだは着々と拘束されていく。
”姫”がようやくこちらを向いた。おだやかな笑いを向けられて、Fの表情が期待にほぐれる。
が。
「まだ、そんなこと信じてるわけ?」
「……はっ?」
「ほら、見てみな」
鉄格子の外を、”姫”が指さす。
そこにいたのは――アザムと名乗ったあの少年頭領だ。こちらにつめたい無関心のまなざしを向けて、たたずんでいる。かたわらには、あの”鬼火”と呼ばれていた赤毛の少女のすがたもあった。
「どういう――これは、どういうことです――?」
「ぜええええええんぶ、嘘さ」
”姫”が少女の愛らしい声で笑った。
「きみをかくまったことを頭領に黙ってるって話も、ぼくが教団を抜けてきみの後釜を狙ってるって話も、魔術符さえ書いてれば生かしておいてやるって話も、ぜんぶね」
「あ……そんな……そんなこと……」
「虫けらとしての死を、俺は命じた」
少年頭領が、しずかに言う。
「それはおまえの招いた因果に対する、報だ。つまりは、おまえに科せられた運命そのものだ。くつがえるわけがないだろう?」
「ぼくが教団を裏切るわけもないじゃんね。
あ、この符はありがたく使わせてもらうから」
ひらひらと、魔術符の束を”姫”は振ってみせる。
「だ――騙したなあっ! 俺を、よくも、よくも騙して、俺は必死で、必死で毎日、死ぬ思いをして……!」
「おまえのやったことと同じだろう、F」
アザムのことばに、Fは息を呑んだ。
「これをくりかえしてきたんだろう?
かわいそうな少女たちに希望を与えて、それを摘んで。少女たちはどれだけ絶望したことだろうな。どれだけつらかったことだろうな。
せいぜい、それを味わって死んでゆけよ、魔術師」
「あ――あ――」
ことばをうしなったFの口に、猿ぐつわが噛まされる。くぐもった声を出しつづけるだけになったFに、あの、拷問官の少女が顔を近づけてきた。
「はじめましてー。かわいいねーかわいいよー。
久しぶりだからたのしみなんだよー。
とりあえずー、指からはじめてみよっかー?」
*
拷問がはじまると、時間の感覚が融けた。
同類だなんてとんでもない。Fのやってきたことは、必要な部品を切り取って、つなぐというだけのことだ。苦痛は結果的に起こるものであって、目的そのものではなかった。
しかし、この少女は違う。
苦痛を、苦痛そのものを、目的としている。
痛みがあふれる。
杯にそそいだ葡萄酒が、許容量を超えてあふれかえるように。恐怖にまみれながら、杯が満たされるのをFは待ち、避けがたいそのときに身を固くし、ついにそのしゅんかんが来ると、激痛と苦悶に身をよじる。
痛い。
痛い。
痛い。
助けて。
助けて。
助けて。
すべての語彙がなくなって、それだけのことばが脳内を塗りつぶしていき、喉がやぶれそうなほどの絶叫が、猿ぐつわのなかに染み込んでいく。
「かわいいよー、いいねー初心だねーほんとかわいいよー」
少女はうれしそうにくりかえしている。
熱っぽく、悦びとともに、くりかえしている。
慈悲を請うことはできないのだと、その声のひびきで分かった。
痛い痛い痛い痛い。
助けて助けて助けて助けて。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
発音できないままに、そのことばを口のなかでFはくりかえした。
と。
「ほらー、しゃべれるよーみてーみてー」
猿ぐつわが、ふいに外される。
待ちに待ったしゅんかんに、Fは喜びさえ感じながら、思うぞんぶん苦痛の絶叫をほとばしらせた。
「あー、いい声だねーかわいいねーかわいいよー。
ほんとたのしいねーすてきな時間だねーかわいいねー。
でもー、きみがそうしたいならー、終わらせることもできるよー」
「え……」
枯れきった声で、Fは問いかえす。
「ファティマ的にはーおすすめできないけどー、
呪文をーとなえればー、逃げることもできるよー。
”盃”とー”霧”とがーきみのあたらしいからだをー用意してくれたからー」
「え……?」
現われるはずもないと思っていた救いが、希望が現われて、Fは困惑する。
この苦痛から逃げられるなら、
この苦悶を避けられるなら、
どんなことでも従おう、とFは思っていた。
しかし。
「ほらー見てー見てー。
これがーきみのあたらしいからだだよー。
ごあいさつしてー」
拷問官の少女が取り出したのは、
うねうねとうごめく、足のない、毛も生えていない、汚らしい、下品極まりない、ひと抱えほどもある、巨大な、蠕虫だった。
「あ――」
Fはおののく。
美意識の豊かなFにとって、そのまるまる肥ったミミズのようなすがたは、あまりに堪えがたかった。しかしよくみると、その蠕虫の頭部には、霊魂魔術の”器”になるために必要な『環』がたしかに嵌められている。
「これねー、”盃”がきみの『環』を研究してー、つくってくれたのー。
虫は”霧”がー提供してくれたんだけどねー、きもいねーかわいくないねー。
どうするーどうしたいー?
この虫のからだになるー?
それともーここでファティマとーまだいちゃいちゃするー?
ファティマはー、後者がーいいと思うなー」
触れることさえおぞましい、そんな虫に、じぶんが転移する?
生理的嫌悪感が、背筋を駆けのぼった。
「いいんだよーやだよねー虫になんてなりたくないよねー?
それよりー、ファティマといちゃいちゃしたいよねー?
いいんだよーかわいいねー、ずっとファティマのところにいなねー。
ずっとーずっとー、かわいがってあげるからねー」
拷問官の少女が、また、凶器を取り出した。
あの苦痛を、Fは思い出す。いやだ。いやだ。あそこには戻りたくない。強烈な抵抗感が頭によぎった。
Fは蠕虫を見つめる。
身をよじらせ、緑色の体液を噴出する、ひとの内臓めいた、吐き気をもよおすような、そのすがた。
けっきょく。
――わがたましいを、このもののからだに、おあたえください――
Fは、虫となった。
*
「エ」
Fは箱のなかでのたくりながら、じぶんのからだを調べ、おどろきに溢れていた。
「シャベレ――ル――?」
「気づいたのね、F君」
じぶんを見下ろしながら運んでいる妙齢の女性が、にっこりと笑いかけてくる。
「その蠕虫のなまえはね、トレーマーって言うのよ。
初歩的な人語を解する、とても頭のいい蟲よ。からだのなかの空洞を震わせることで、発声をすることもできるの。ほんのちょっぴりの魔力もあるでしょう?」
ある。
確かに、ある。
ごく少量ではあるが、霊魂魔術の転移を行なうのに必要なぶんていどは、ある。Fは、希望の光が射し込んでくるのを感じていた。
魔力があり、発声ができる。
であれば、このミミズのからだから抜け出すことも、いつかはできる。”器”の工面だけはどうにかしなければならないだろうが、もしかしたら、機会がめぐってくる日もあるかもしれない。
が。
「あなたは、これからわたしの飼い蟲になるのよ。
たのしく過ごしていってね」
じぶんを運びながら笑う、この美女の暗殺者。
この暗殺者は、そのことを知っているのだ。であれば、なんらかの対策を行なっていないわけがない。逆にいうと、なにかを狙って、この虫を選んだに違いない。
まだ、じぶんへの刑罰は終わっていないのかもしれない。
「さて、着いたわ」
扉を開く音がして、”霧”が足を止める。
とともに、なにか水っぽい音がひびきわたった。舌で舐めまわすような、不気味な、不快感に満ちた、無数の音。
「ここが、あなたの暮らす場所よ。
ほら、お友達にご挨拶しなさいね」
Fは箱のなかから首を覗かせる。
部屋のなかにいたのは、大量の大量の大量の大量の大量の、ミミズども。
じぶんとおなじすがたをした蠕虫たちが、互いに絡まり、のたくり、這いずりまわっている。床と天井ぜんたいが、おぞましく、うごめきつづけている。
いやだ。
いやだいやだいやだいやだ。
いやだ。
あのなかに入りたくない。
あのなかに混ざりたくない。
あのなかに、あんななかに。
「さ、行きなさいF君。
二〇〇〇人のお友達が、あなたを待ってるわ」
しかし無慈悲に、箱はひっくり返された。
Fのからだは空中へ投げ出され、無数のミミズどものなかに、落ちた。すぐにからだをミミズの波が押し包み、そのしゅんかんに、Fはじぶんのからだの境界を、見うしなった。