47.はやく、きょうの三〇〇枚を渡しておくれ
教団は、悪とみさだめた相手には、いっさいの容赦をしない。
噂にはそう聞いていた。
悪人は、生まれてきたことを後悔するほどに、無慈悲な拷問をくわえられ、苦痛と苦悶にのたうちまわりながら殺されるのだ、と。
Fはそのことを聞いたとき、鼻で笑ったものだ――いったい、どこの誰がそんなことをする暇があるっていうんだ、と。世のなかにどれほどの数の悪党がいると思ってる? そのひとりひとりに、いちいち長い時間をかけて拷問していったら、拷問官が何人いても足りやしない。はるか帝国の首都では、大司教がそのように死んでいったのだと聞いているが、それこそ眉唾ものだ。だいたい、拷問を受けた当の本人が死んでいるというのに、だれがそれを伝えられる?
こんな噂ばなしを信じ込むのは、それこそ、おろかな民草ぐらいのものだ。
そう、思っていた。
いまとなっては、鼻で笑うことはできない。
教団が実在したのだ。
いるはずのないものが、いた。子供の夢物語としか思えないような、正義の味方集団が、存在した。いまならFは、伝説の魔王の存在だって信じただろう。
教団は、たしかに実在する。
では、その評判を笑うことが、じぶんにはできるのか?
できなかった。
笑えよF、というあの少年の声が、耳にこびりついて離れない。Fは引きつった顔のまま、目隠しを受けて、暗殺者たちに護送されてきた。
生まれてきたことを後悔するほどに、
無慈悲な拷問をくわえられ、
苦痛と苦悶にのたうちまわりながら、死ぬ。
そのためだけに、運ばれてきた。
しかし、神はFを見放してはいなかった。
「魔術師F。……ああ、アルバートと呼んだほうがいいかな。
そんなにおびえることはないさ。
ぼくは、きみを買ってるんだ」
Fの目かくしと猿ぐつわを取り払ったのは、あの”姫”とかいう女装の暗殺者だった。
いまはもう、女装をしていない。短髪をあらわにしてFに笑いかけている。
「こ、ここは……?」
「教団本部の、地下牢さ。
きみがここにいることは、頭領殿も知らない」
Fは鉄格子のなかで、椅子に縛り付けられている。両腕両足の自由は利かない。すぐさま乗り換え先の”器”をさぐってみるが、案の定、見当たらない。逃げのびることはできそうになかった。
「頭領殿は、きみがもう処刑されたと信じ込んでる。このぼくが、そう請け負ってるからね」
「……どういうことです?」
「きみはいまや、ぼくの所有物だってことだ」
Fの背後に回り込んだ”姫”が、ナイフを振るった。
瞬時に、Fの両腕のいましめが解かれて、縄がばらばらになって石畳の床へと落ちる。
「きみに、ひとつ協力してもらいたい。ぼくの商売にね」
「……ふうん?」
両手のようすを確かめながら、Fは眉を上げた。
すでに恐怖は雲散霧消している。この”姫”の目には見覚えがあった。欲にとりつかれた人間の目。暗いほのおを奥でぎらぎらと燃やしている、禿鷹の目。この目は信用できる。人間の欲望だけは、Fには信用ができる。
「商売とは?」
「なあに。きみの後釜になろうってのさ、アルバート。きみに霊魂魔術の符を書いてもらって、きみとおなじく、”器”の提供を手がけるつもりだ」
「『学校』もないのに?」
「ぼくたちは『教団』だぜ? 奴隷を救うという名目で、大陸全土を飛び回ってるんだ。そのなかから見目麗しいのを残しておけば、”器”の確保には困らないさ。……場合によっては、きみにちょいと手直しを依頼するかもしれないがね」
”姫”は暗い笑いを浮かべた。
Fも彼に追従の笑いを返す。
「あなた、悪党ですねえ」
「きみほどじゃないさ。ぼくは、この暗殺者とかいうつまらない商売をはやいとこ辞めたいんだ。そのまえに、一生分ぐらいは稼がせてもらってからね」
「やはり、あの頭領には付いていけないと?」
「ああ。あの子は、ちょっとおきれいに過ぎる。
上司にしておくには、いささかきゅうくつだ」
”姫”はぽんぽんとFの肩を叩く。
「アルバート。きみを生かしておいていることがあの頭領に知られたら、まずいことになるからね。ほとぼりが冷めるまで、ここで過ごしていてもらいたい。きみは霊魂魔術の符を書きつづけながら、脱出の日を待つといい」
「うけたまわりましょう」
「話の分かる男だね」
「あなたこそ。”姫”」
”姫”はFの椅子をずらし、隅にしつらえられた机へと押していく。
ちょうどいい高さの机には、すでに、符を書くための羊皮紙と、鵞鳥の羽根を削ったペンと、インクの瓶とが用意されていた。準備万端、というわけだ。
Fの両足の縄を、”姫”が切った。
Fの五体が、自由になる。
「じゃあぼくは戻るよ。
符を書く以外の時間は、すきに過ごしてくれて構わない。朝晩の食事はぼくが持ってくるし、それ以外にも欲しいものがあれば言ってくれ」
「これはご親切に」
「ぼくらはパートナーだ。とうぜんだろ?」
にやりと笑って、”姫”は背中を向ける。
「ああ、そうそう」
思い出したように、”姫”はこちらを振り向いた。
「あまりだらだらやられても困るからね。符をつくる、最低限のノルマを伝えておくよ。
日に、三〇〇枚。
それだけ用意してくれれば、じゅうぶんだ」
「さんびゃ……!」
三〇〇枚。
それはあまりに法外すぎた。霊魂魔術は単純な魔術ではないから、一枚の符を書くのに、どんなに急いでも五分は掛かる。一時間でできる枚数は一〇枚そこそこ。三〇〇枚を書くのは、不眠不休でも間に合わない。いくら魔術を知らないと言ったって、想像ができそうなものだ。
反論をしようと口を開きかけたFを、”姫”の手が制止する。
「言っておくけど。
ノルマを守れなかったら、その日の内に殺すから。
……じゃ、明日のおなじ時間にくるから、がんばって用意しておいてね」
唖然としたままのFを置いて、”姫”は去っていった。
*
不眠不休の日々がつづいた。
睡眠もろくにとることができない。食欲なんてはじめの三日で消え失せて、いまは味もわからなくなった料理を、ペンを走らせながら無理矢理口に押し込むのが精いっぱいだ。手の筋肉は引きつって、握力もろくになくなり、ペンをただしく持つこともできない。だから、あの日切られた縄で、右手にペンを結びつけている。目はかすみ、意識はぼやける。かんがえが、だんだんとまとまりにくくなっている。
あの”姫”という暗殺者は、殺す、といった。
脅しではない。かれらが殺すと口にしたら、まちがいなく殺すだろう。見せしめに拷問を与えることにも躊躇しない連中だ。
助かった、などと思うのではなかった。
助かるはずなどなかった。
あの暗殺者に目をつけられた時点で、違う地獄に招かれただけのことだ。
三〇〇枚を書くには、一秒さえも無駄にすることはできない。
一枚書き間違えば、すべての計画が狂う。細心の注意をはらいながら、しかし、ペン先は最速ではしらせていく。指先がふるえはじめていて、目の焦点が合わなくなってきているFにとって、それはおそろしく困難な事業だった。
数日まえから、動悸が止まらない。
あまりに集中して、呼吸をつめていることにも気づけず、ときどき頭がくらりとする。噛み締めすぎた奥歯が痛い。ただ机にむかってペンを走らせつづけるだけのことが、これほどに、重い。
いつまでだ?
いったいいつまで、こんなことをやらなくちゃならない?
俺はいつになったら、助けてもらえるのか?
助けてもらえるのか、俺は?
とりとめのない思考が、浮かんでは消えていく。
まぶたが重たくてたまらなかった。
一分に一度おそってきていた眠気が、十秒に一度、目の前をかすませるようになってきている。効率は最悪といっていい。Fは、与えられていた砂時計を見る。
一日で落ちきる砂は、まだ、半分以上残っている。
今日の分のノルマまでは、あと一〇〇枚。五〇枚ぶん、余裕がある。五〇枚ぶんだけなら、眠ることができる。
眠る――そのことばの巨大な誘惑に、Fはあらがえなくなっている。
ふりむくと、そこにベッドがある。
しらみだらけの毛布が、シーツさえもないうすいマットレスが、あまりにも蠱惑的にFを誘う。
だめだ、とFは思う。
ベッドはだめだ。ベッドだと眠りすぎる。いまベッドに倒れ込んだら、そのしゅんかんにFは気をうしなって、一晩を眠って過ごしてしまうだろう。朝がきたら、あの”姫”がやってきて、Fは二度と目覚めることができなくなる。
ベッドはだめだ。
Fは机へと突っ伏す。
こうやって眠れば、きっと問題ない。一〇分眠って、すっきりとした視界で、また仕事をつづければいい。一〇分うしなうのは痛かったが、それによって効率的に符を書けるのであれば、それがいちばんいい。
一〇分だけ。
一〇分だけだ。
じぶんに言い聞かせて、Fは目を閉じる。
*
「……やあ。ぐっすり眠っていたね、F」
”姫”の声に、Fはがばりとからだを起こす。
おかしい。
こんなところに”姫”がいるわけがない。だって、まだ夜明けまでは時間があるのだ。まだ砂時計の砂は落ちきってなど――
Fは、じぶんの目をうたがった。
砂時計の砂は、落ちきっている。
「もう朝だよ、F。地下牢は窓がないから、わかりにくかったね。悪いね」
「いや、うそだ……」
「嘘じゃないんだよ、F。
そんなにおびえることはないさ。なにも、ぼくはきみに眠るなと言ってるわけじゃないんだから。ノルマを果たしてさえくれれば、ぼくはなにも言わないよ。
さあ、きょうの三〇〇枚を、渡してくれるかな?」
Fの背に脂汗がにじむ。
机に置かれた白いままの符の束に、”姫”が気づかないことをけんめいに祈った。
「どうしたの、F?」
「いや……ちがうんだ……」
「なにが違うの?」
「私は……一〇分だけ……」
「なにが? 早く三〇〇枚をちょうだい」
「一〇分だけ、寝ようとして……こんなに時間が経つなんて……」
「そっか、びっくりだよね。早く三〇〇枚をくれるかい」
「違うんだ……これはなにかのまちがいで……」
「ねえ、どうしたんだいF。ぼくはなにも責めてないよ。きみを傷つけることもないさ。安心してくれていい。もしもきみが三〇〇枚を用意できなかったなんてことがあれば、もちろんべつだけどね。
さあ。
はやく、きょうの三〇〇枚を渡しておくれ」
Fは気がくるいそうだった。




