45.でも、ひとつは叶ったね
夜が明けていた。
重たい闇はさえざえとした曙光にうちやぶられ、彼方へと吹き散らされていった。もはや、この『学校』に、うすぐらい場所はみじんも残されていない。
恐怖と驚嘆の一夜は、すでにすぎさった。
しかし、ディアナは、いまだにこの夜に起きたことに現実感を持てないでいた。
じぶんが夢を見ていた施設が、ほんとうは、悪意の産物であったこと。
死の淵に立たされ、いのちを諦めるまでに追いつめられたこと。
そして。
生まれてはじめての友達が──まぼろしの『教団』の頂点に立つ少年であったこと。
横顔に太陽を浴びながら、少年は、凛と立っている。
目のまえに整然と立ち並ぶ黒衣の暗殺者たちを、不安げに身を寄せ合う教師と子供たちを、縄を打たれて猿轡を噛まされたFを、見ている。
そのすがたに、圧倒されたようすは見られない。
数百人の大人たちをまえにして、緊張も、萎縮も、いっさいない。
これが、これこそが日常の風景なのだと言わんばかりに。
「霊魂魔術師、アルバート・F・フランケンシュタイン! 通称『F』!」
朗々とした声で、少年──アザムが叫ぶ。
「因果応報の理に基づき、この者の因果を問う!」
「因!」
黒衣の暗殺者たちが、アザムにつづいて唱和した。
あまりの大音声に、ディアナは思わず目をつむってしまう。
「因──この者は教団の名を騙り、希望を求める少女たちを騙し、彼女らをこの施設へ閉じ込めた。その数、推計一九〇〇余名」
「果!」
「果──学びへの意欲と夢にあふれた少女たちは、しかしこの男に無惨に殺され、あるものは慰みものに、またあるものはむごたらしい人間細工へと仕立てられた。昆虫標本をつくる子供のように、この者は、少女たちをあつかった」
「応!」
「応──この施設に人員と資金、さらには動機を提供したのは、大公国後宮に棲まう魍魎どもである。おんなの皮を被ったこの外道どもも、罰をまぬがれるものではない。だが、そのことはこの者の罪を減ずることにはまるでつながらない」
「報!」
「報──故に、虫けらとしての死をもって、この者への報となす。
……連れてゆけ」
顎をしゃくってアザムがそう告げる。
くぐもった悲鳴をあげるFが、身をよじるような抵抗もむなしく、両肩をつかまれて連れていかれた。
魔術師がどんな運命を課せられたのか、気にならないでもなかったが──そのことよりも、ディアナにはつめたいまなざしで極刑を断じてみせた少年のことが、気になってならない。
暗殺教団頭領──“踊り子”アザム。
かれの名の意味を、ディアナは思い知った。
じぶんと同じだったのは、年齢だけだ。十三歳でありながら、あの少年は大陸全土を揺るがす教団を、ただひとりで率いているのだという。
アザムが掲げた白い手と、じぶんのうす汚れた手のひらとを、ディアナは見比べた。
住む世界が違う。
見ている景色が違う。
そう思えば、あきらめもつく。
アザムは次に、教師たちや少女たちを振り返った。
「まずはみんなに謝りたい。
手荒な真似をして、すまなかった」
先ほどまでとはまるで違う、すずやかな、気遣わしげな声だった。
「まだ状況が飲み込めていないひとも多いと思う。それはそうだ。夜中にたたき起こされ、怪しい黒づくめの男たちに連れだされたら、だれだって困惑する。
怖がらせたりして、悪かった」
ふかぶかと、少年は頭を下げる。
事情を知っているディアナにとってみれば、そんなことは必要がないことだとしか思えなかったが、教師たちのあいだでは、目に見えて緊張がほぐれていた。
この子は話がつうじる。そう思ったのだろう。
「まずは、改めて名乗りたい。
俺たちは、教団という名で知られている組織だ。この『学校』という施設は、俺たちとは関係がない」
何人かがざわめいた。
「先ほどの魔術師とつながっていた大公国の後宮が、教団の名を騙ってはじめたのが、この『学校』だ。貴族の欲望を叶えるために、この施設はつくられていた。
先生たちも、女の子たちも、みな騙されていたんだ」
「こ、子供たちは……いなくなった子供たちは、どこへ……?」
教師のひとりがあげた声に、アザムはまっすぐな目を向ける。
「……残念だ」
アザムが言う。
教師は腰を落として、嗚咽をはじめた。
「この『学校』は、にせものだった」
しずかな声で、アザムはつづける。
「だが、俺はこの『学校』にも、ほんものが息づいていたと思う。俺自身がここで過ごしてみて、そう実感したんだ。
教師たちの、教えたいという志はほんものだった。
生徒たちの、学びたいという夢はほんものだった。
俺はそれを奪いたくはない。
むしろ、いままでの教団に欠けていたのは、そういう部分だったんじゃないかって思う。いのちを救うばかりで、生きることを支えてこなかった。最悪の結末をさまたげるばかりで、最善の道を伝えてこなかった。教団には、まだまだできることがあるし、まだまだやらなくちゃならないことがある。
俺はこの『学校』で、それを学ばせてもらった」
教師たちが、子供たちが、アザムのことばに聞き入っていた。
「もしも、教師たちが、生徒たちが、それを許してくれるなら。
教団に、『学校』をつづけさせてほしい。
実をいうと、俺たちの住処には、まだまだ土地が余ってるんだ。ここまで立派ではなくても、みんなが学べる環境は用意できると思う。……カタリナ先生」
「え?」
「また、俺に歴史を教えてくれませんか」
無邪気な顔で、アザムは笑った。
いっしゅん遅れて、歓声が巻き起こった。
子供たちがよろこびに満ちあふれている。黒衣たちが、覆面を取ってはにかむような笑顔を見せている。教師たちは子供たちに取り囲まれて泣き、泣きながら、笑っている。
ああ、とディアナは思う。
アザムはすごい。わたしが見込んだとおりに。わたしが想像した以上に。もうこの手が届くことはないだろうけど、おこがましいと叱られてしまうかもしれないけど、それでも、誇らしくてたまらない。だれかれ構わず、自慢して回りたかった。
あれはわたしの、友達だったんだ。
ほんのすこしのあいだだったけど、いまはもうそんなこと言えなくなっちゃったけど、たしかに、わたしの友達だったんだぞ。
アザムはきびすを返した。
合図されたように、黒衣の何人かが人びとに指示を出し、人びとが歩きはじめる。教団へと向かうのだろう。ディアナは遠ざかるアザムの背中を、ただ、見送っている。
付いていくつもりはなかった。
アザムがきっと、気をつかってしまうから。ディアナがいたら、また友達の振りをしなくちゃいけなくて、気が疲れてしまうだろうから。あんなにいそがしいひとなのに、ディアナなんかにかかずらわってる暇なんてあるわけがない。
友達面をするのは、これでおしまい。
じぶんはしょせん、娼婦だ。
穢れたからだを持つ、下賤の人間なのだから。
「さてと」
でも、夢をもらったのだ。
あの子に、夢をもらった。
やらなくちゃならないことが山ほどある。大陸の端にあるという大瀑布を見に行かなくちゃいけないし、帝都の摩天楼も、大陸の四大遺跡も見なくちゃいけない。テリーヌを食べながら葡萄酒を飲む必要もあるし、ほんもののドラゴンをさがすのは骨が折れそうだ。料理も刺繍も、覚えるのには時間がかかるだろう。じぶんの部屋を持ち、ちいさな真珠を手に入れるなら、お金もかせがなくちゃ。できれば娼婦以外の仕事を見つけてかせごう。そしていつかは海辺に料理のお店をひらくのだ。おいしい料理を出せば、だれかに「ありがとう」と言ってもらえるだろう。
ディアナは、いそがしいのだ。
アザムがいそがしいのと、おなじように。
でも。
ああ、でも。
もういちどだけ、振り返ってはくれないだろうか。アルルの顔で、もういちどだけ、笑いかけてはくれないだろうか。
面と向かってお別れを言えないだろうか。
せめて、最後に握手だけはできないだろうか。
もういちど。
もういちどだけ──。
「あれ」
と。
願いが通じたのか、アザムが振り返る。きょろきょろと見まわした目が、ディアナを見つけた。あれほど埋めがたいように思えた距離をいっしゅんで詰めて、アザムは駆け寄ってくる。
「なにしてんだよ、ディアナ」
「え、あ──」
「はやく行かないと、みんな行っちゃうよ」
ディアナはうつむいた。
面と向かってお別れを言える機会がきたのに、握手をしてもらう機会がきたのに、こわくて、しかたなかった。
「どうしたのさ、ディアナ?」
アザムが覗き込もうとしてくるのを、ディアナはさらに首を下げて避けた。
顔を見られたくなかった。
じぶんはいまきっと、泣きそうになっているから。
「……んー」
困ったように、アザムが立ち尽くしている。
そのつま先を見つめながら、ディアナはけんめいにじぶんに言い聞かせた。
言うんだ。
さよならって、きちんと言うんだ。
またね、って。いつかまた会えるといいねって笑って、引き止められるまえに、背中を向けて走るんだ。最後にアザムが覚えているわたしの顔が、笑顔であるように。
「おーい、“姫”!」
「ん」
「あれ、貸してくれ!」
ああ、と得心げな“姫”の声がした。“姫”がなにかを投げて、アザムが受け取ったらしい。
うつむいたままのディアナには見えない。ごそごそという音がなんなのかも、分からない。
「これでよし。──ねえ、ディアナちゃん」
弾かれたように、ディアナは顔を上げた。
アルルが、そこにいた。
長い黒髪で、おだやかな目をした、理知的な女の子。
「やっとこっち見た」
アルルが笑う。
ディアナがもういちどだけ見たいと願った、あの顔で。
「ほら、ディアナちゃん。はやく行こう」
「わ……わたしは……」
「行かない、なんて言わせないからね」
手のひらを包んだ感覚が、なんなのか、いっしゅん分からなかった。腕を引かれ、つんのめるようにディアナのからだが一歩踏み出す。
「え──」
「はやくはやく。わたしたちの夢リスト、まだなーんにも叶えてないんだから」
「え、え?」
「大瀑布でしょ、帝都の摩天楼でしょ、大陸の四大遺跡に、ほんもののドラゴン。これだけでも、けっこうたいへんなんだからね」
あれは、じぶんの夢ではなかったのか。
あれは、じぶんだけの夢ではなかったのか。
わたしの未来には、わたししかいないわけでは、なかったのか。
「でも、ひとつは叶ったね」
「え」
「ほら!」
答える代わりに、アルルは手を持ち上げてみせる。
ふたりでつないだ手を。
── 大好きなひとと、手をつないで歩いてみたい。
「あ……」
恥ずかしさが、瞬時にこみ上げた。
「なっ……! なんで! あんたが! 知ってるのよ!」
「あ、ようやくいつものディアナちゃんに戻った」
「なんで! そのことを!」
「わたしがカード持ってるからだけど? ほら」
「あーーーーー! かかかか返しなさいよバカバカ棒きれ!」
「ふふふーやーだよー」
手をつないだまま、アルルは走り出す。
ひっぱられて、ディアナは走っていく。
*
ふたりの少女が、仲良く手をつないで駆けてゆく。
その後ろすがたを、みなが見つめていた。




