43.女の子になっちゃうじゃん
失策は、ふたつあった。
ひとつ。Fを発見したそのしゅんかんに、舌を切り、両手両足の腱を切り、すべての詠唱へつながる可能性を断ち切っておかなかったこと。
ふたつ。アザムを呼びにやらせてしまったこと。
──ちくしょうめ。
けもののように襲いかかるおぞましい屍体どもをかわしながら、いなしながら、“姫”はじぶんを責める。
この食屍鬼どもを打倒するには、装備が足りない。暗殺用のナイフでは足留めにもならなかった。対化物用の祝福が付与された剣がいる。欲をいうなら、聖堂騎士団の一個中隊もだ。
そもそも、この状況におちいった時点で、暗殺者にできることなどそうそうない。アザムなら、かなりのところまで戦うだろうが──ささいなあやまちひとつで、いのちまでもうしないかねない。あの少年を、ここで戦わせたくはなかった。
ふたつめの失策は、良くない。最悪だ。
──ちくしょう。
なにが、子供あつかいだ。
じぶんのほうがよほど未熟者だ。油断も、敵を舐めた態度も、あの少年だったら、なかったはずだ。
じぶんは冷静ではない。冷静になれていない。今回、アザムと行動を共にしてから、ずっとそうだ。柄にもなく感情をあらわにしたり、隙を見せたり、およそじぶんらしくない。
異形の、ひとの骨で組み上げられた歯列が、腕に嚙みつこうとしていた。“姫”は腕を引く──ドレスの袖がやぶけて、その下の肌がむき出しになった。
“姫”はとっさに後ろへ引く。
呼吸をととのえた。
「おやおや、どうされたのです? まさか、もうお疲れですか? 舞踏会ははじまったばかりだというのに」
Fの道化めかした声は、黙殺した。
異形たちの動きは、連携も取れていない、いかにもけだものらしい一直線な動きだ。個々を見ているかぎり避けるのはむずかしくない。
だが、いかんせん、かたちが不定形に過ぎた。攻撃を避けたあと、通常の人体ではありえない場所から追撃がくる。対人間の訓練ばかりをしてきた暗殺者にとっては、おそろしく闘いにくい相手だ。
「っぐ……!」
「っあぐ……」
声に振り向くと、連れてきた暗殺者たちが無惨に食いちぎられたところだった。
くそ。
くそったれ。
“姫”は歯噛みする。
“鉤爪”なら、最善の選択肢を最速で選んだだろう。
“蛇”なら、圧倒的な強さで敵を蹂躙しただろう。
どちらにせよ、部下を無為に死なせることなどなかったはずだ。じぶんのような半端者につきしたがったせいで、部下は死んだ。
半端者。
いつだって、そうだ。男にも女にもなれず、どちらかを選びとることもできず、運命の相手とやらをただ待ちつづけている、お姫様きどりの両人。
「おや、ひとりきりですねえ」
Fが嗤う。
怒りのままに、そちらへナイフを振るおうとするも、襲いくる食屍鬼によってさえぎられた。ふたたび“姫”は戦闘のただなかへと引き戻される。
──くそ。
歯がゆい。
なにが歯がゆいといって、じぶんが為すべきことを為せないことほど歯がゆいこともない。
まだ、一体の食屍鬼さえも斃せていない。はやくしないと、あの少年がきてしまうというのに。
じぶんは、弱い。
なにを得手としているわけでもない。“鉤爪”のように完成された暗殺者でもなければ、“蛇”のような戦闘力もない。”牛”のようにちから強くも、”歌姫”のようにうつくしくも、“騎士”のようにひたむきでもない。”盃”のように知識もなく、”商人”のように知恵もない。”茉莉花”のように子供を扱えるでもなく、”霧”のように蟲を扱えるでもなく、”車輪”のように拷問に長けてもいない。
それに、“猫”のように、あの子に愛されることもない。
──ぼくは、なにを。
つまらない考えが、場違いな考えが、頭をよぎった。
食屍鬼をちから任せになぎ倒し、いっしゅんの間隙を突いて、かぶりを振るう。
じぶんはおかしい。
おかしくなっている。
あの子に「女の子になってもいい」と言い放ったころから、とくにおかしくなっている。過剰な意識が、とっくの昔に眠ったはずの選択肢を、ちろちろとくすぐりはじめている。
この数日というもの、ひとつの顔が、脳裏に焼き付いて離れてくれない。
華奢な子だ。
ドレスを着せてしまえば女の子にしか見えない、ほんの子供だ。頭領だなんて持ち上げてはいるが、みながこころの底では、子供だと分かっている。十二席も、尊敬を捧げてこそいるが、じぶんたちがこの理想主義者の危なっかしい子を支えなくてはならないと思っている。
すくなくとも、“姫”はそう思っていたのだ。
だが、あの“勇者”戦あたりから、みなの見る目が変わっていた。あの子を失いかけてはじめて、じぶんたちがいかにあの子に依存していたのか分かったのだ。
あの子がいなければ、理想が消え失せてしまう。
あの子がいなければ、じぶんたちは散り散りになってしまう。
その自覚が、本人たちも気づかぬうちに、少年に対する過度な期待となって、かれの細い両肩へとのしかかっていった。
可哀想だ、と思った。
いくらなんでも、重圧が過ぎる。
かれ自身も、それを感じているはずだ。十三歳の子供が負うべき荷ではないことも、分かっているはずだ。
なのに、かれはそれでもなお立っているのだ。
いちばんまえに、いちばんうえに、堂々と胸を張って、立っている。
痛々しいほどに、凛然と。
だから、かれを子供扱いすると“姫”は言った。
それが嫌なら、じぶんを女の子にしてみせろ、とも。
後者がまずかった。
後者がいけなかった。
無意識の内側に封じこめていた感情を、じぶん自身が、見つけだしてしまったのだ。じぶんのことばが、掘り当ててしまったのだ。
──ぼくは、女の子になりたがっている。
どんなに女装をしたって、どんなに男に媚びてみせたって、こころのなかはたけだけしい雄であることが、“姫”の自慢だった。夜伽の相手は男女問わなかったが、どちらにしたって、“姫”が抱かれる側に回ることなんてなかった。“姫”はいつも欲望をたたきつける側であって、抱く側の人間だった。
抱かれることを、忌避すらしていたのだ。
なのに。
だというのに。
──ぼくは、あの子のためならなんてことを、考えはじめている。
食屍鬼のひとつが、少女の腕を振るう。紙一重でそれを避けたときに、“姫”のかつらが引っかかって落ちた。夜のなまぬるい風が、汗をかいた額へと吹き付けた。
「おや」
短髪すがたの“姫”を見て、Fが眉を持ち上げる。
「きみも、男の子……? いや、髪が短いだけか……?」
「男の子さ」
短く告げて、また跳んだ。
いっしゅんまえまで“姫”のいた場所を、食屍鬼の攻撃が通過していった。勢いで、食屍鬼どうしが互いに頭を打ちつけて、その場にくずおれる。
半端者。
いつも、半端者だ。
両極端な考えに引き裂かれて、いつも思い悩んでばかりいる。あの子を子供扱いすると言いながら、あの子を男として意識している。”猫”の想いを応援すると言いながら、”猫”にうすぐらい嫉妬を抱いている。男であろうと思いながら、女であることを否定できないでいる。
守りたいと思いながら、守られたいと願っている。
「くそっ」
声が漏れた。
食屍鬼たちは疲れを知らない。
使役しているみずからのからだが疲れようと、くたびれようと、壊れようと、いっさいの遠慮も躊躇もなく、渾身の一撃をくわえつづけてくる。
“姫”がちから尽きて倒れるまで、攻撃の手が止まることはないだろう。消耗戦だ。
気づかぬうちに、疲労が蓄積していたのだろう。
戦いながら、避けながら、跳びまわりながら、“姫”の視線はあさっての方向へと吸いよせられてゆく。
淡い月光を浴びて、あの顔が、こちらへ走ってくる。
──ほんと、かわいい顔してやがんな。あいつ。
脳裏にそんな思いがよぎったのと、“姫”の腹部に灼熱が走ったのとは、ほとんど同時だった。
*
からだを揺らす衝撃に、意識がもどった。
“姫”のからだは、ふたたび浮遊感に包まれる。四方から囲んでくる食屍鬼たちの攻撃は、しかし、“姫”には届かない。衝撃とともに、“姫”の唇になにかがぶつかり、反射で目を閉じてしまう。
ふたたび目を開ける。
目のまえにあったのは、アザムの頰だ。どうやら、宙で体勢を変えたときに口づけてしまったらしい。
「ひぁ!」
おもわず素っ頓狂な声を上げてしまう。宙から降り立って体勢をととのえなおしたあとに、アザムは“姫”へと短く話しかけてくる。
「傷はどうだ?」
「え──」
腹部の熱は引いていた。
破れて、血のにじんだドレスの隙間から、魔術の符が覗いている。符にも血は染み込んでいたものの、いまのところ、痛みも出血も抑えられていた。
「リュリュ謹製の治療符だ。一時しのぎだけどな」
「あ……ありがと……」
「ん?」
アザムの視線がこちらへ向く。
ふだんとは違って軽口が出てこないから、疑問に思ったのだろう。“姫”自身もじぶんが分からなかったが、とにかく、視線を合わせることができなくて、また目を逸らしてしまう。
アザムのからだが、ふたたび跳んだ。
宙を舞うアザムと“姫”に、食屍鬼たちがつづく。その攻撃を空中で体を捻ってかわし、着地点にいる食屍鬼を、ナイフを振るってアザムは打ちはらう。
それも、“姫”のからだを横抱きに抱えたままに。その事実に気がついて、“姫”は泡を食った。
「お、下ろせよ!」
「だめだ。きみを下に置いたら、守りきれる自信がない。傷には良くないが、耐えてくれ。間もなく援軍もくる」
「でも、このままじゃふたりとも──」
「大丈夫だ。半分は、”鬼火”が引きつけてくれてる」
顔をあげると、向こう側でおなじく食屍鬼から逃れて跳びまわっているニーナのすがたがあった。
いままで“姫”は一〇〇体の襲撃から逃れつづけなくてはならなかったが、アザムとニーナは五〇体ずつとなる。“姫”よりも運動能力にすぐれたふたりだ。斃すのではなく避けるのに徹すると決めてしまえば、その数ならなんとかいなせる。
とはいえ。
横抱きというのは、要するに、お姫様抱っこの姿勢である。“姫”はこれまでの人生で、そんなことを他人に許したことはない。つまりこれが、はじめての経験だ。
想像以上に、顔が近い。
想像以上に、密着度が高い。
そんなことを考えている場合ではないと分かっているはずなのに、どうしても、その距離を意識せずにはおれない。
──なんだって、ぼくは動悸なんて起こしてるんだ。
きっと、まだ怪我の状態がよくないのだろう。
でなければ、こんなに心臓の音がおおきく聞こえるわけがない。アザムと触れている部分が、こんなに熱く感じるわけがない。
――やばい。やばいよ。
からだのなかで熱が動きはじめるのを感じる。
からだが、受け容れるほうのかたちに変わろうとしているのを感じる。
「や、やめてよ……。このままじゃ……」
ちからなく、”姫”はつぶやく。
「どうした、”姫”?」
「……」
――女の子になっちゃうじゃん。
そのことばは、どうしても言えなかった。