42.喰らえ、ぞんぶんに
暗転した意識は、つぎの瞬間にはめざめている。
暗闇のなか、Fは光をもとめて両腕を突き上げる。打ちつけてあった板が剥がれ、Fのからだは月光へとつつみこまれた。
すばやく棺桶から這い出た。
全身をたしかめ、両手両足を曲げ伸ばししながら運動感覚をあらためる。十四歳ていどの少女のからだだ。みぐるしくないていどに筋肉をまとい、運動性にすぐれた、予備のひとつである。
からだの乗り換えは、何度やっても慣れない。
とくに性別をまたぐさいには、あるべき場所にあるべきものがない、という感覚に慣れるまでに数ヶ月はかかる。
しかし、ささいな違和感にとらわれている場合ではなかった。
Fは走りはじめた。
基本的な運動能力は、やはりまえのからだよりもすぐれている。すいすいと走りながらも、体重が足にのしかかる感覚は薄い。風に乗っているようだ。
『学校』の端、うちすてられた宝物蔵のまえに積み重なった木箱のひとつが、このからだの棺桶だった。有事にそなえていくつかの新鮮なからだを数体あちこちに配置していたのが奏功した。
服装は『学校』の子供たちとおなじで、簡素なものを着せてある。先ほどの暗殺者どもの話では、教団は子供たちを保護しているという。“踊り子”アザムの指示がたどり着くまえに子供たちにまぎれこんでしまえたら楽だったが──かれらのまえにながながとすがたを晒すつもりはない。あのアザムという少年は、口先三寸でだましおおせる腹ではないように思えた。
だからFは、『学校』から離れる道をいそいでいた。
──くそ。
胸のうちでFは悪態をつく。
予想外だった。
まさか、あれほどの組織に目をつけられていようとは。後宮の宦官連中には、あくまでひそやかにやれ、と申しわたしていたのに。
アザムに話したとおり、事ここに及んではもはや『学校』は放棄せざるをえない。もちろん、重要な研究結果などは、大陸全土にいくつもある隠れ家に写しをおくってあるし、ここを放棄したからといって、なににさしつかえるわけではない。
ただ、惜しかった。
Fが生きてきた一八〇年のなかで、もっともすばらしい工房だったのに、わずか一年そこそこで、棄てなくてはならないとは。
また、あのからだも惜しかった。
あのアザムという少年のからだは、完璧だった。身体能力、うつくしさ。しかも男性器さえもそなえている。あのからだをつかって、赤ん坊をつくり、それをさらに”器”と為してゆけば……今後、Fはみずからの”器”に困らずにすんだのだが。
──しかたあるまい。
諦めは肝心だ。
つぎは、もっとうまくやればよい。
しばらくは『学校』のように大規模な工房をつくるのは避けて、ほとぼりが冷めるのを待つのだ。数十年経ったのち、教団の動きが鳴りをひそめたころをみはからって、また動きはじめよう。
あせることはない。
人生はながいのだ──Fにとっては。
Fのからだは順調に『学校』を離れていく。すでに、『学校』の建物は豆粒ほどのおおきさになっていた。
めざすのは南側、帝国との戦線ちかくの村だ。戦火を避けての避難がつづいているから、空っぽの民家もおおく、態勢を立て直すにはうってつけだ。
「おい、そこでなにをしてる!」
声によびとめられて、Fは足を止めた。
兵士だ。帝国軍の鎧を身につけていたが、兜はかぶっていない。松明をかかげ、Fをたしかめるように照らしている。
斥候か、といっしゅん思うが、すぐに違和感に気がついた。
「助けてください!」
とっさに叫んで、Fは兵士のもとへ身を投げた。
兵士はぶつかるまえに、十四歳の少女のからだを受け止める。
「どうしたのだ、いったい」
困惑する兵士の肩章を確認する。
三本線──まちがいなく、騎兵だ。Fは胸の内でほほ笑んだ。騎兵がこのようなところにひとり徒歩でいるということは、この男は脱走兵だ。
前線の恐怖におびえ、こっそりと逃げ出そうとしているから、馬を置いてゆく。帝国では軍馬は支給物であるため、持ち逃げすれば重罪となって追手がきびしくなるのだ。
脱走兵なら、都合がよい。
友軍はこの辺りにはいないということだからだ。
Fは兵士の胸から顔を上げ、にやりと笑った。
「なんだ小娘──うおっ」
Fが頭にかぶせた輪におどろき、兵士が声を上げる。
すぐにとりはらおうとするが、一度着いたらもう遅い。
「あなた、脱走兵ですね?」
「なっ、どうして……」
「いけませんねえ、戦線離脱だなんて。友軍に戻らなくては、騎士の名折れですよ。ああ、わたしが代わりにもどってあげましょうか?」
「なにを──」
その先は言わせなかった。
Fは悠々と唱えあげる。
──わがたましいに、このもののからだを、おあたえください──
「おぎゅぎゅぐぎゅ、ぎゅぐるう」
「がががぎ、げひ、ぐひぎひゅう」
少女のからだの痙攣にすこし遅れて、兵士のからだが痙攣を始める。少女のからだが沈黙したとき、Fはすでに兵士の目でそれを見ていた。
落ちた松明を、悠然と拾いあげる。
醜い兵士だ。
だが、からだは鍛えられているし、体力も余っている。なにより、この前線付近にいることが不自然ではない。これから原隊復帰して戦場に出てしまえば──混乱にまぎれて、逃げおおせるのはむずかしくなかった。
ついている、とFは思う。
まだじぶんのつきは消え去ってはいない。
が。
「見つけたぜ、魔術師F」
ことばだけが降ってきた。
弾かれたように、Fは頭上を見回す。松明の火をあちらこちらに向けながら。しかしその陰から放たれた短剣が、Fの手の甲を打ち抜いた。
「あぐっ」
痛みに松明を手放す。
地面に転がった松明をひろいあげて、豪奢な少女がすがたを現わす。”姫”とか呼ばれていた暗殺者のひとりだ。何人かの暗殺者がその周囲から現われ、Fはじぶんが包囲されている事実を知った。
「行け」
かたわらの暗殺者に告げると、その男が暗闇へと走り出す。増援を呼びにいったのだと気づいたが、Fにはどうすることもできない。
“姫”が松明を捨てた。
「さあどうする、Fくんよ」
短剣を向けられる。
ほのおに慣れた目に、そのかがやきは視認できなかったが、つめたい殺気だけは感じることができた。
「おおかたそのからだは拾いもんだろ? 先刻みたいな仕込みはできないよな。おっと、口もつぐんでてくれよ。きみが口を開いた瞬間にこの短剣で舌を切りとる。きみが呪文を唱えおわるよりも早い」
「……!」
「さあて。降伏するかい? それとも戦ってみるかい? 言っておくけど、ぼくは強いぜ」
くそ、とFは思う。
からだの乗り換えなどやらなければよかった。あの場面を見ていたら、馬鹿でもFだと分かる。迂闊だった。
どうする。
またからだを乗り換えようにも、この場所ではそもそも遠すぎる。『学校』敷地から離れたこの一帯に置いてあるのは、さんざん遊びつくしたあとの奇怪な置物だけで、”器”として利用することはできない。
いや、待て。
置物たちにも、ふさわしい利用方法はある。この生意気な少女にひと泡ふかせてやれるような、ゆかいですてきな利用方法が。
あとはいっしゅんの隙さえあればいい。
なにか、いっしゅんの隙さえあれば。
と、そのとき。
暗闇から現われた女中が、“姫”の陰から襲いかかった。完全に意表を突いた、必殺を企図しての一撃は──しかし、“姫”のおそるべき反応速度によって、空振りとなる。つぎのしゅんかんには、女中は喉を割かれて地面に伏していた。
だが、じゅうぶんだ。
──さまよえるたましいに、これらのからだを、おあたえください──
詠唱が高らかに夜闇にひびきわたった。
「くひ、ひ」
Fの唇から、こらえようのない笑いがもれる。
勝った。
私は勝った。
運は私を見はなしてなどいなかった。私のつきは消え去ってなどいなかった。あらゆる困難と障害を乗り越え、私は勝ったのだ。
「くひひひひ、ひひひひひ、ひひ」
“姫”はあせったような顔で、訳がわからないという顔で、Fを見ている。Fが逃げると思ったのだろう。Fが消えると思ったのだろう。しかし、おおまちがいだ。
敵を殺せるというのに、背を向けるおろかものがどこにいる?
「なにを、笑ってる」
「くひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
引きつけのように笑うFの耳元へ、ぼこり、という音が届く。
始まった。
始まったのだ。
棺桶を叩く音が、土を掻く音が、月光をめざす音が、ひびき始める。いくつもいくつも。いくつもいくつもいくつもいくつも。“姫”もようやく異変に気がついて、暗殺者たちともども、周囲を見渡しはじめる。
この一年間は、たのしかった。
ほんとうに、たのしかった。
いくつものうつくしい器をつくった。その一方で、いくつものおぞましい置物をつくった。精巧な職人の手つきで縫われた芸術品と、子供が衝動のままにつなぎ合わせた玩具と。どちらも、Fのこころを最高に楽しませてくれた。
器たちはあたらしいたましいに引き取られていったが──置物たちは、手元にのこされた。そして、Fはひたすらに増えつづけるそれを埋めたのだ。
『学校』の郊外に。
すなわち、ここに。
土が盛り上がる──。
突き出たのは腕だ。
何本もの腕が、列をなして、順繰りに地面から突き出した。と同時に、それらをつなぐありえないほど長い胴体があらわれた。少女の胴体を縦に縦にとつなぎ合わせた、むかでのような置物だ。
突き出たのは頭だ。
震えるようにして土をはらい、もぞりもぞりと這い出てくる。首の横に首が、首が、首が、つぎつぎとあらわれる。少女の頭部が車輪のように束ねられた置物だ。
突き出たのは脚だ。
おびただしい数のまぶたにおおわれている。土から飛び出した少女のからだは、びっしりと、まぶたに包まれている。目がいっせいに開いた。二百対の瞳を持つ置物だ。
遊びごころをぞんぶんに振るってつくられた、身の毛もよだつ異形どもが、つぎつぎにすがたを現わした。
その数は優に一〇〇を超える。
「なんだよ、これ」
“姫”が顔を引きつらせた。
「なんなんだよ、これは」
「食屍鬼というものですよ」
ようやく笑いやんで、Fは語った。
「その辺をただよっている低級霊のたぐいを、屍体に下ろして、しもべと為す。霊魂魔術の初歩です。いささか、かたちは変わっていますがね。食屍鬼どもはあまりに知恵が浅く、ごくごく基本的な命令しか下すことはできませんが……このような用途にはじゅうぶんです」
“姫”と暗殺者たちを、Fの指がさす。
「喰らえ、ぞんぶんに」
うごめいていた異形の食屍鬼たちが、“姫”たちに狙いをさだめた。いっしゅんの静止ののち、すべての開口部をひらいて、食屍鬼は暗殺者たちに殺到した。




