40.もう、笑えなくしてやるよ
しかし、その瞬間。
アルルのうつろな目が、急激に光を取りもどす。なにを考えているのか分からない黒曜石の瞳のなかで、炎が、まっすぐな炎が、瞬時に燃え上がる。
アルルが──覚醒した。
アルルが笑う。
ディアナを励ますように。ディアナにちからを渡すように。それから、見たことのないアルルは、想像もつかない行動へと移る。
先のない左腕を、おもいきり、寝台へと叩きつけたのだ。とつぜんの音に、Fの行動が中断される。振動で義腕が跳ね上がり、右手へと掴まれる。
そこからの行動は、早すぎて見えなかった。
気づいたときには、アルルはすべての拘束を断ち切り、立ち上がり、手に持ったナイフをFの咽喉元へと突きつけていた。寝台に残された義腕は、箱のように開いている──ナイフは、そこに仕込んであったのだろう。
「な──」
「喋るな、魔術師F」
低い声でアルルが言う。
早い動きにはためいた黒髪が、ようやく気づいたとでもいうかのように、下に落ちた。
女中たちが武器を構えていた。
楔のようなかたちの、ちいさな武器だ。スカートの内側に仕込んでいたらしい。
しかし、女中たちは動けない。
主人に、アルルが武器を突きつけているからだ。うかつに動けば主人が死ぬ。口を封じられているから、指示を仰ぐこともできない。
「──入れ。“姫”、”鬼火”」
アルルが言うと、音もなく扉が開いた。
すべりこんできたのは、見覚えのある少女と、見たことのない赤毛の少女の二人組だ。
前者は、宿舎で見たことがある。べつだん喋るでもなく、にやにやとしながらだらけていた、豪奢な美貌の少女だ。たしか、ロキシーとか名乗っていたはずだ。油断なくナイフを構える赤毛の少女といながらも、やはり余裕めかした表情でにやにやと笑っている。
「ひとりでできたじゃん、少年」
「……その呼びかたやめろよ」
「えー、ぼくの勝手じゃん?」
「なんですかあなたたち──」
口を開きかけたFが、すぐに黙る。
ロキシーを向いていたアルルが、そちらを見もせずにFの口に刃先を突っ込んだからだ。Fは声にならない悲鳴を漏らしながら、ことばを切った。
「……俺たちがおしゃべりしていたから、かん違いしたか? 魔術師?
あいにく、俺は黙れと言った。黙れと言ったんだ。次に守れなければ、舌を切り取るぞ」
俺。
アルルはそう言った。
あの低い声。少年という呼ばれかた。
もしかして──。
「ねー少年。きみ、『俺』とか言っちゃってるぜ?」
「……いまさら、関係ない」
「いまいっしゅん『やべっ』て思ったっしょ? 分かるよそんなん」
「うるさいな」
アルルがやけになったように、じぶんの髪の毛を掴み──むしり取った。
露わになったのは、おなじ黒色の短髪だ。
きれいな顔立ちは変わらぬ印象だったが、そのたたずまいはまるで違って見えた。いまはじめて出会ったとしたら、アルルを男の子と呼ぶことに、なんの疑問も持たないだろう。
男の子。
アルルは、男の子だったのだ。
「──ッ」
とつぜん、屋根裏から落ちてきた男が、アルルに向けて短剣を振るう。アルルはおそろしい反射速度でFから身を離して短剣をかわすと、悠々とその襲撃者を迎え撃った。
いっしゅんのちに襲撃者はその場にくずおれ、その陰からアルルがすがたを現わす。
「ち」
しかしその隙に、女中たちはFを庇って立ちふさがっていた。部屋の反対側で距離を置く。
Fが激しく咳込み、涙をぬぐった。
「”鬼火”」
「はっ」
アルルの短い呼びかけに応えて、赤毛が動いた。
“鬼火”がディアナに迫る。ディアナはとっさに目をつむった。革を切る音が四つして、ディアナの両手両足が拘束具から解きはなたれる。
次の瞬間には、ディアナはロキシーに抱き上げられていた。
「やっほー金髪ちゃん、なんかいいにおいすんね」
「怪我はないよな、ディアナ」
ロキシーのおちゃらけた声と、アルルの気遣わしげな声が向けられる。ディアナがアルルを見返すと、アルルは気まずそうに目を逸らした。
「……騙してて悪かった、ディアナ。俺の本名はアザム。見ての通り、男だ」
「ちなみにぼくはどっちでもないよん」
アルル──アザムが頭を下げてきた。
ディアナの頭はまだ付いてきていない。わたしは腕を切られて死ぬはずだったのに死ななくて、アルルがアザムで、わたしを助けてくれて、男の子で、強くて、かっこよくて……。なにが起きているのか、さっぱりだった。
「……まさか、男の子だったとは」
咳が落ちついたらしいFが、声をかけてくる。
「訊きたいことは山ほどありますがね……まず、どうして麻痺薬が効かなかったんですかね」
「たいていの毒は、子供のころに克服してるんでね。家庭の事情でな」
「……身体検査は、どうやってクリアを?」
「こっそり抜けて、あとで書類を改竄した」
「では、ほんとうに男の子なのですね」
「見ての通りだ」
Fが笑う。
「くく……すばらしい。いやほんとうに、ほんとうにすばらしい逸材だ! その驚嘆すべき身体能力! その外見! 欲しい──是非とも欲しい! そのすばらしい肉体こそ、私の、私自身の”器”と為すにふさわしいというものだ!」
「やらんよ。アザムはぼくらのだ」
ロキシーが混ぜっかえすが、Fは気にも留めない。
ぱちりとその指が鳴らされる。
おそろしい数の隠密と女中とが、部屋のなかに溢れかえった。扉の向こうにも、ひとの気配が満ちる。
ディアナにも分かった。これは、殺気だ。
「ふふ──この『学校』の全戦力でお相手しましょう。いま降伏するなら、せめて痛みがないように施術してさしあげますよ」
「どうする、少年?」
「“姫”は”鬼火”といっしょにディアナを守っててくれればいい。……”鬼火”、あれを」
「はっ」
赤毛の少女が、背中に負っていた包みをアザムへと投げる。包みの中身を、アザムは左肩へと装着する。
それは精巧な、人形の腕だ。
関節が球体になっており、アザムのほんらいの腕よりも二倍ほども太い。無骨な外観は、いかにも兵器といった印象だ。
「はじめようか。魔術師」
アザムが義腕を持ち上げる。
自在に動くその義腕は、とうてい、棒きれなどと呼ぶことはできそうにない。
Fのあざけるような笑みに、アザムのナイフが突きつけられた。
「──もう、笑えなくしてやるよ」