3.あと一回、残しちまっただろうが
最低な日々のなかで、しかし訓練は楽しかった。
暗殺者に、馬もろとも敵陣に突撃し道を切り開くような、華々しい武勇は求められない。
求められるのは、素早さと確実さ。長大な槍を振り回す必要もなければ、剣での一騎討ちに優れている必要もない。ただ音もなく忍び寄り、背後から速やかに喉を掻き切る。それだけに長けていればいい。
”そもそも、武勇を振るわねばならぬ場面に立たされた時点で、暗殺者としては手詰まりである。”
クロエが教えてくれた伝説的暗殺者の格言だ。
戦場のただ中で華やかな活躍を見せる武人が「陽の武」だとするなら。
夜陰に紛れて忍び寄り、死神の鎌を振るう暗殺者は「陰の武」である。
これが、不思議と俺の性に合った。
ただでさえ、十七歳の頭脳を持って転生した俺である。体を使いはじめて数年足らずの子供たちに、負けるはずもない。
どう体を動かせばいいのか、どうすれば効率的なのか──頭で理解していることを、体に反映していくだけでいい。もちろん体はなかなか言うことを聞かないが、それは反復練習がものを言う。
くりかえし、くりかえし。
飽きずにくりかえした回数だけ、積み上げられてゆく。
足音を殺す訓練。
ナイフを曲芸のように自在に扱う訓練。
扉を開けて寝台へ忍び寄る訓練。
水音ひとつ立てずに川を無呼吸で泳ぎきる訓練。
喉を搔き切る訓練。
躊躇なく死を見つめる訓練。
いっさいの光がない闇夜を歩く訓練。
屋根の上を走る訓練。
塀を瞬時に登りきる訓練。
離れた敵にナイフを投げる訓練。
一週間に渡り食を断つ訓練。
水の中で息を潜めたままに三日三晩をすごす訓練。
即席の弓矢をつくり離れた敵を即座に撃つ訓練。
馬上で戦う訓練。
走る馬を捕まえて即座に乗り込む訓練。
あらゆる武器を使いこなす訓練。
あらゆるものを武器にする訓練。
受けた傷によって動きを阻害されぬ訓練。
敵を拷問し情報を聞き出す訓練。
どれをとっても、胸を張れる技術ではない。胸のすくような思いとも縁遠い。暗殺者の持つ技術などというものは、否応もなく暗さがつきまとうものだ。
しかしそのすべてを、俺はくりかえしてくりかえしてくりかえして、我がものとした。体をいじめるたびに静かな熱が身中を満たし、耐え抜くほどにじわじわと喜びが胸に湧いた。
完全に、俺は没頭していた。
「アザム! すっごーい!」
「どうしてそんなにじょうずなの!?」
「おしえて! ねえおしえて!」
仲間たちが憧れのまなざしを俺に向けてくる。
どうやって教えろというのだろう。俺のやっていることは、ただただ延々と反復し続けることだけだ。生活のすべてを訓練に注ぎ込み、人格のすべてを訓練に捧げる。それだけだ。それができる愚か者なら、誰だって俺くらいの域には到達できるだろう。
十歳を迎えるころになると、さすがに大人たちの見る目も変わってきていた。
「……ここ数年で、いちばんの拾い物……」
「……このまま成長すれば、ナイラに比肩する……」
「……この代は、アザムで決まりか……」
ささやき声をよそに、俺は鍛錬を重ねる。
こんなところで調子に乗ってはいけない。十七歳の頭で無双ができるのなんて、数年程度がせいぜいのところだ。そのまえに、俺は次のステージにこぎ着けていなければいけない。
幸い、俺の体は悪くないものだった。
運動神経も持ち合わせているし、反射神経も悪くない。長時間同じことを耐えつづけることも、得意としている。俺の突きつける無茶に、平然と応えてくれている。
今日無理をすれば、明日すこし伸びる。
それをくりかえしてゆくだけで、よかった。
*
「……ほんと、訓練好きっすね。先輩」
様子を見にきたクロエは、呆れ顔でそう言った。
「先輩、帰宅部だったんでしょ? よくもまあそこまで努力一辺倒の生活できますね」
「……じぶんでも、そう思う」
基礎的な体づくりとしての、腕立て伏せをこなしながら、俺は答える。
過剰な筋トレは成長を阻害するが、暗殺者としては小柄でいるほうが望ましい。そう考えた俺は、わざとじぶんを追い込んだ。それでも十二歳を迎えた俺の体は、一週間に数センチの割で背丈を伸ばしていた。
「ドMだったんすか? それともアスリートなの?」
「たぶん、前者、だろうな」
腕の力が限界に達する。
そこから、さらにあと十回。
前世に筋トレの本で読んだことを、俺は思い返す。限界を迎えてから何回できるかが、筋肉の発達に繋がるのだという。ここは精神力がものを言う。
脂汗がにじみ、腕が震える。それでも、俺は腕立て伏せをやめない。
長い長い時間をかけて、一回。あと九回だ。
「もの好きなもんですねぇ……。そんだけ努力して、人殺ししようってんですから」
「おまえも、だろ」
「まあ、そうっすけど。わたしも、だいぶ殺してますし」
歯を食いしばった。あと八回。
「……でも、俺」
「ん。なんです?」
「ずっと、こうやって、なにかを、」
大きく息を吐き出した。あと七回。
「なにかを?」
「夢中で、やりたかった、のかも」
あえぎながら、腕を上げた。あと六回。
「……ふうん」
「変、かな?」
「まあ、変ですね。あと、」
菓子をかじるクロエを見上げた。あと五回。
「あと、なんだよ」
「なんて言うのかな。なんて言ったら……あーもう、言いにくいな。なんでもないっす。気にしないで下さい」
「気になる、だろうが」
おのれを鼓舞するように吠えた。あと四回。
「うまくことばにできないんす。忘れてくださいってば」
「言えよ、失礼、とか、考えんな」
腕がちぎれそうだった。あと三回。
「だって」
「だっても、くそも、あるか」
「先輩」
「俺と、おまえの、仲、だろう」
世界のすべてが呪わしく思えた。あと二回。
「先輩。もうやめてよ。やめて」
「いいから、言え、よ」
「言います、言いますから」
このまま死んでしまいたいと思った。あと一回。
「先輩が可哀想だって、そう思ったんです。だって」
「だって、なんだよ」
「だって先輩……ずっと、泣いてるもん。ほんとうはだれも、殺したくないんでしょう?」
力が抜けた。
俺は地面に突っ伏していた。
腕の感覚は完全になくなっていた。ひんやりとした地面の感触が、熱くなった頰に心地よかった。全身にかいた汗が、訓練場の地面を濡らしていった。
汗が、だ。そうに決まってる。
「クロエ。おまえな……」
「っく……ひっく……ごめんなさい……」
俺はごろりと転がって、空を見上げた。
晴れた空が、やけに青い。日本の街と違って遮るものがないから、空の青色だけが、視界を埋め尽くしている。
じぶんがこの空を眺めているのか、それとも、じぶんがこの空に向かって落ちてゆくのか、ふいに分からなくなった。
「あと一回……残しちまっただろうが……」
*
明日は、卒業試験の日だった。
明日、俺ははじめてひとを殺す。