38.あなたは当て布です
夜中に、ときどきアルルはベッドを離れる。
いちど心配で声を掛けたこともあったが、ディアナにちいさく謝るようなしぐさをして、アルルは宿舎を出ていった。どこでなにをしているのかは知らないが――アルルにとっては、必要なことなのだろうと思った。
しかし、今夜はようすが違った。
アルルのもとに、黒い影が近づいてきたのだ。
幽霊か、と身を固くしたディアナだったが、影はどうやら『学校』の職員であるらしい。眠っているアルルをゆり起こすと、なにごとかを耳打ちし、眠そうな彼女を連れていった。
なんだろう。
ディアナは思う。『学校』関連のなにかであるとは思えない。一日三時間の授業を終えたら、あとは子供たちには自由が与えられているのだ。子供たちは何箇所かの立入禁止区域を除いて、『学校』の内部をすきに歩きまわることが許されていた。しかし、夜は早くに消灯してしまう。子供にはじゅうぶんな睡眠が必要だ、という方針らしい。
大事な睡眠時間をさまたげてまで、アルルを呼び出さなければならない用事とは、いったいなんなのか。
どうしても気になった。
心配にもなった。
ディアナはこっそりとベッドを抜け出し──アルルのあとに付いていった。
アルルと職員とが、回廊を歩いてゆく。
そのうしろを、ディアナはこっそりと尾ける。足音を立てるわけにはいかないので、靴下を履いたきりだ。しんしんとした冷えが、足元の石から立ちのぼってくる。
職員は、立入禁止区域の看板を抜ける。
いっしゅん、ためらった。
立入禁止区域には、職員たちが使う設備や、いまは使われなくなった部屋などが存在していると聞いていた。なかには危ないものもあるから、立入禁止な看板には近づかないようにと、大人たちは説明していた。
しかし、あの看板の向こうに、アルルは連れていかれたのだ。ふつうに考えれば、向こうの設備になにか用があるのだろう。ひょっとしたら、アルルの健康診断の不備がばれて、大目玉を食いながら計測し直す、というだけなのかもしれない。
けれど、とディアナは思う。
それはこんな夜に、ひと目をはばかるようにして、やるべきことなのか。なにか、よくないことが起きてはいないか。
けっきょく、ディアナは立入禁止の看板を越えていった。
職員とアルルの背中に追いつく。
立入禁止区域内は、ディアナたちの暮らす宿舎や、授業が行なわれる教室、それらをつなぐ廊下たちのように、清潔にととのえられてはいなかった。
廃墟という印象そのままに、あちこちが割れ、欠け、埃や破片が散らばり、打ち捨てられたがらくたの類が床にばらまかれている。廊下にはランプもなく、うすい月明かりをたよりに歩をすすめるしかない。とがった破片を踏みつけないように気をつけながら、ディアナは歩きつづけた。
アルルたちが、ふいに、ある部屋に入る。
意表を突かれた。
その扉にこっそりとディアナは近づいていく。ほかの部屋とくらべて、なんら違うように見えない扉だった。埃にまみれ、なんの標示もなく、腐りかけた木材をむき出しのままに晒している。もしこの部屋を使っているのなら、もうすこし、きれいにしていてもおかしくないのに。違和感がむくむくと頭をもたげた。
と。
とつぜん、背後からディアナの口がふさがれた。恐慌におちいる暇もなく、ディアナのからだは抑えつけられ、その部屋のなかへと連れ込まれた。
「──ああ、ディアナ。ちょうどよかった。あなたのことも、呼ぼうとしていたのですよ」
そこにあったのは、
地獄の釜のなかだった。
むせかえるような血のにおいが満ちている。
なのに、一滴の血も散らばってはいない。整然とととのえられた白い部屋は、病的なまでに清潔さを保たれていた。
その中央に寝台があり、周りを透明な緞帳のようなもので覆ってあった。そこに寝かせられていたのは──人間のグロテスクな戯画だ。
少女の細い胴体の側面から、屈強な男の両腕が突き出ている。両腕は胴体よりも太く、あまりにもアンバランスだ。付け根で切り取られた腿からは、隙間なく何本もの未熟児の足が飛び出ており、まるで植物の根のようだった。胴体の前面からは、不釣り合いに豊かな乳房がいくつも生えていた。
首から先はうしなわれていて、身うごきひとつとっていない。このばけものは、すでに死んでいるようだ。
「ひ──」
息を呑む。
すぐに背後は壁にたどり着いてしまい、逃げ場がないことを、ディアナは思い知った。
「ああ、これは──趣味のわるいものを見せてしまいました。たいへん申し訳ない」
声の主は、あの男だった。
夫人がたといっしょに教室にやってきては、ディアナたちを品さだめする、Fと呼ばれるあの男。いまはマントを脱いでおり、痩せたからだにぴったりと沿った喪服を身につけている。
「たまには手遊びにこんなものもつくってみるのですよ。少女たち以外の素材は取り寄せになるので、ごくたまにね」
「そ、ざい……?」
「そう。素材です。あなたたちのような」
Fはぱちりと指を鳴らす。
すると、連なった部屋から数人の女中たちがすがたを現わした。おどろくほどの美少女たちだ。つめたい無表情の、まるで人形のような少女たちが、無感動なままにきびきびと動く。またたくまに、ばけものの屍体が解体され、片付けられ、寝台に付いた血もすべて拭き取られた。
「うつくしい子たちでしょう? 私のお気に入りの蒐集品ですよ」
「コレク、ション……?」
「さて、始めましょう」
Fがふたたび指を鳴らした。
女中のひとりが、アルルを連れてくる。アルルの目は虚ろだ。目は開いているのに、眠っているようだ。ただ背中を押されるままに歩いてくる。とても正常な状態には見えない。
「アルル!」
アルルはやはり、応えない。
女中はアルルのからだを両腕でかるがると持ち上げると、例の寝台へと寝かせた。その右腕と両足が、革でできた拘束具によって寝台に縛りつけられるに至って、ディアナは声を上げた。
「ちょっと……! いったいなんのつもり?」
答える代わりに、女中はディアナの腕を掴んでくる。おそろしいちからだった。見た目はディアナとそう変わらない少女なのに、屈強な男に組み敷かれているときのように、抵抗をものともしない。
「なんのつもりかって? 縫物をはじめるんですよ」
「縫物……?」
「あの子、可哀想に、左腕がないでしょう?」
Fがアルルを指さす。
ほかの女中によって、アルルの義腕が取り払われていた。痛々しい傷跡が晒される。
「このままじゃ、”器”として不適格です。だから腕を縫い付けて、継ぎ足してあげるんですよ」
「え──」
「ディアナ。あなたは当て布です」
女中のひとりが寝台を運んできた。ディアナのからだがそれに載せられる。不穏な予感に、ディアナの全身が総毛立った。
女中の無遠慮な手つきで、ディアナの両腕の布地がひといきに破り捨てられた。
腕がないアルル。
じぶんはその当て布。
──と、いうことは。
「嘘……うそでしょう……?」
「嘘じゃないですよ」
Fがにっこりと笑う。
「あなたの腕を切って、アルルにつなぐんです。ああ、片腕だけではないですよ、バランスが取れませんからね。両腕とも、縫い直します」
「ひ──」
冗談を言っているとは、思えなかった。
目のまえの男は本気だった。本気で、ディアナの両腕を切ろうとしている。アルルにつなぎ直そうとしている。
恐怖が、ディアナの頭を塗りつぶした。
「いやあああああああっ、──っ!」
悲鳴は、中途で止められた。
女中がディアナの口を押さえていた。くぐもった声が漏れる。
「騒いではいけません。夜中ですよ」
Fが言い、壁に沿って並べられた薬品の瓶のなかから、ひと粒の丸薬のようなものをとりだした。女中の指の隙間から、丸薬はディアナの口に押し込められる。と同時に、鼻がつまみあげられて、反射でディアナは口のなかに放り込まれた丸薬を飲みくだした。
全身のちからが抜けた。
ちからの入れかたがとつぜん分からなくなった……というのに近い。腕を枕に眠ったときに、血流が止まって腕が動かなくなってしまったときのようだ。ナメクジのようなからだに、ディアナの恐慌はよけいに増した。
「ああ、ディアナ。ほんとうにこころ苦しいのですが、この丸薬には麻酔効果はありません。痛みはそのまま感じることになります」
Fは両手に透明な手袋のようなものを嵌めた。
「でも、大丈夫ですよ。あなたが死んでしまっても、腕の移植には問題ありません。どちらにせよ、残骸は処分する予定ですからね」
残骸。
そのことばが、じぶんを指しているのだと、気づきたくなかった。顔面の筋肉が動かなかった。じぶんは声を上げることもできないまま、恐怖をあらわすこともできないまま、呆けたような顔で死んでゆくのだ。
目のまえに、横たわったアルルの顔があった。
やはり呆けた顔で、アルルはディアナを見つめていた。内側にどのような感情があるのか、表情からは分からない。
と。
「……なにを、してるのですか」
そこに現われたのは、意外な顔だった。