37.大好きなひとと、手をつないで
生きることはむずかしかった。
いつだって、ディアナにとっては。
母から受け継いだもので、気に入っているものなどひとつもない。豊かな金髪も、吊り上がり気味の目も、ととのった顔立ちも、欲しくて手にしたものじゃなかった。
平凡でよかった。平凡が欲しかった。
たとえば、いつも市場で見かける、両親に手を引かれた女の子のように。
とりたててうつくしいとはいえない目鼻立ちがうらやましかった。笑顔でくしゃくしゃになり、鼻水を拭いたあとがある、その顔が、なによりもうらやましかった。両手につないだ両親にぶら下がるそのようすを、何度ディアナはながめただろう。
ディアナは、幼いころから娼婦だった。
母の客が、ディアナに目を付けたのは、母ゆずりのうつくしい顔立ちゆえだ。貴婦人のような品よい顔と、すれっからした物腰との落差で人気を得ていた母は、娘もおなじ武器を持っていることに気がついた。高貴なお嬢様のような顔と、おどおどとした仔犬のふるまい。その落差による魅力。
客をとらされはじめたディアナは、泣きながら、えずきながら、じぶんの母親よりも歳の離れた男たちへ奉仕をするようになった。
それまでも最低だった人生が、底なしの奈落であることに、ディアナは気がついた。
やがて、ディアナは生きるすべを考えはじめた。
おどおどとした態度が男を惹きつけるなら、強気にふるまえばいい。仔犬は野良犬となった。だれかれ構わず噛みつき、うなり、吠えたてる、始末に負えない野良犬に。
しばらくのあいだ、これは功を奏した。仔犬が好きだった男たちが冷めて、離れていったからだ。
すこしすると、客層が変わった。今度の男たちが好きなのは、抵抗する野良犬だった。ディアナは組み敷かれ、頰を張られ、湿り気のない場所へ無理やり突き立てられるようになった。しかし──されているさなかでも、ディアナは男をにらみつづけた。昂奮を呼び覚まされてよけいに激しくなる男もいたが、萎えて中断する男も出始めた。
じぶんの戦い方がまちがっていないことを、ディアナは確信した。
また、このころになると、周りに少女たちが集まるようになりはじめた。子供たちの世界では、主張と声が強いものが強くなる。ディアナは取り巻きたちの中心に君臨した。娼婦の娘という立場も、彼女の強さを担保していた。
じぶんの人生に対する苛立ちを、他人をしいたげることで発散することもディアナは覚えた。恵まれた子供たちをいじめた。菓子をとりあげたり、理由なくひっぱたいたり、玩具を壊してやったり。あの平凡な容姿の娘なんかも、よく標的にしてやった。
ときどき、ディアナは鏡でじぶんのすがたを見た。
吊り上がった目、ふたつ結びにした金髪、歪んだ唇──母親から受け継いだ容姿に、じぶんの性格が追いつきはじめていた。
こころやさしい少女の面影は、すでにうしなわれている。
これでいい、とディアナは思った。
世界がわたしに敵対するなら、わたしも世界に敵対してやるんだ。友達なんて要るもんか。寄り添ってくれるひとなんて、欲しがってやるもんか。
十三歳を迎えるころになると、ディアナも娼館に勤めることを決めた。
そのほうがましだったからだ。
母に客を取らされている限り、客はまともな男ではないし、売り上げは母に奪われるし、ろくなことはないからだ。それに、ディアナは大人の女にもなり始めていた。赤ん坊ができないように気をつけるには、さまざまなやりかたをわきまえている娼館で働くのが、都合がよかった。
娼婦として働いて、お金を貯める。
貯めたお金で学校へ行く。
それが、ディアナの夢だった。読み書きができれば、もしかしたら、娼婦ではない道がひらけるかもしれない。もしかしたらまっとうな仕事を見つけることができるかもしれない。わたしの人生に、あれほど願った平凡さがおとずれてくれるかもしれない。そう思った。
男が現われたのは、ディアナが娼館で客をとりはじめて二、三日が経ったころのことだ。
男は何人かの、まだ若い娼婦たちを選んで声を掛けているようだった。どれも、美貌の娼婦たちだ。ディアナも声を掛けられて、こう言われた。
「きみは、学校に行きたくはないかい?」
衝撃だった。
必死にうなずいていた──男はうなずきを返すと、教団と学校について説明をしてくれた。そしてディアナは、この男に付いていくことを決めた。
ディアナはひとつ、決めていた。
今度の学校では、素直になる。
できれば元どおりのわたしになって、それを分かってくれる子と出会えたら、友達になる。これからディアナを待ち受けている、かがやかしい平凡な人生には、そんなまっとうさが似つかわしいと思った。
そして、ディアナはアルルに出会った。
はじめは腹が立った。
アルルはせっかくきれいなのに、おどおどとしていて、無性に腹が立つ。悪い癖が出はじめた。ディアナは居丈高にふるまい、アルルをなじり、その義腕を踏みつけにした。まったく冷静さに欠いていた。ディアナを見上げた黒曜石の瞳が、涙に濡れていて、ディアナはそこに写るじぶんのすがたを見た。
そこで、気がついた。
アルルは、昔のわたしとおなじだ。
おびえていて、傷ついている。
いじめているのは、じぶんだった。
いじめられているのは、じぶんだった。
ここ何年かですっかり主導権を持ってしまった意地悪なディアナが、泣いておびえていたころのディアナを、踏みつけているのだった。
──わたしは、素直になるんじゃなかったの?
数日後、ディアナはアルルのもとへ近づいていった。ひとりきりで回廊に立ち尽くしていたアルルは、困ったような顔でこちらを見つめていた。
じぶんがなにを考えていたのか、ディアナは分かっていた。友達になりたかったのだ。きれいな黒髪と、きれいな瞳を持つ、このやさしそうな女の子と──ふつうの、友達になりたかった。
素直なことばは、なかなか出てこなかった。
ディアナの唇はすっかり歪んでしまっていて、友達になりたいというそのひとことを、まともに伝えることもできない。それでも、話した。支離滅裂なことばだとじぶんでも分かったし、話せば話すほど、じぶんがなにを言っているのか分からなくなった。
それでも──
生まれてはじめて、ディアナには友達ができた。
アルルは、変わった子だ。
どこか、底知れないところがある。じぶんに似たところを持っていると思ったのに、じぶんとは違った。
なにかを隠しているように見える。仮面をかぶっているように見える。
でも、奥に潜めているものが悪意でないことは、まちがいない。
アルルといると、意地悪なディアナのままでいるのはむずかしかった。素直でいようと努める必要はなくて、アルルのまえにいると、しぜんと元のままのディアナが顔を出してくる。屈託なく笑っているじぶんにおどろいた。歪んでいない唇を、ひさしぶりに見た。
じぶんよりもすこし背丈が低い、この細い女の子に──ディアナは包みこまれているような、そんな気さえした。
アルルは物知りでもあった。
ディアナに字を教えてくれた。歴史を教えてくれた。この大陸がどうなっているのか、いま、なにが問題になっているのかを、いろいろと教えてくれた。
学ぶことは楽しかった。ひとつなにかを覚えるたびに、ひとつ、世界が広くなっていく。ひとつなにかを知るたびに、ひとつ、夢が増えていく。
大陸の端にあるという大瀑布を眺めたい。
帝都の摩天楼を見てみたい。
大陸の四大遺跡をぜんぶ見てみたい。
テリーヌという料理を食べてみたい。
葡萄酒を飲んでみたい。
ほんもののドラゴンを見てみたい。
料理を覚えたい。
絨毯を刺繍してみたい。
じぶんの部屋を持ってみたい。
ちいさな真珠を一粒持ってみたい。
海辺に食べもののお店を開きたい。
誰かに「ありがとう」と言われてみたい。
『学校』にくるまえには想像もできなかった「やりたいこと」が、いくつもいくつも、増えていった。アルルに単語の綴りを教えてもらって、ディアナは夢のリストをつくった。カタリナ先生にもらったカードに、羽根ペンで、夢をひとつひとつ書き出していく。
リストの最後には、こっそりと、ちいさな夢を書き足した。恥ずかしくて、アルルには見せられなかった。
大好きなひとと、手をつないで歩いてみたい。
ディアナはまだ、アルルと手をつないだことがなかった。じぶんが踏みつけてしまった手を、ぬけぬけと取るわけにはいかないと思った。いつか、わたしがアルルのためになにかができたなら──お礼として、手をつないでもらおうと決めていた。
いつか、かならず。
*
Fは嘆いている。
ひとが、完璧でないことを嘆いている。
ある者は、うつくしい顔を持っている。
ある者は、きれいな手を持っている。
ある者は、豊かな脚を持っている。
ひとつひとつの部位を取り出せば、それだけで他人を陶酔させてしまうような、魅力を備えている。
だのに、それらを持つ者たちはばらばらなのだ。
すべてを備えたひとつの個体があればそれでいいのに、そんな偶然はなかなか実現しない。うつくしい顔と、きれいな手と、豊かな脚とは、それぞれにかがやきを放つばかりで、ぜったいに揃わない。
だから、縫い物をするのだ。
つぎはぎなどではなく、ていねいに、ひと針ひと針にこころをこめて、うつくしい部分をFはつなぎ合わせていく。うつくしい顔に、うつくしい胴を、腕を、手を、脚を、足を、胸を、職人の技術と芸術家の感性とでつなぎ合わせて、ひとつの完璧なひとがたをつくりあげる。
それは、神の創造に手を加える、神聖このうえない営みだ。
Fはみずからのこの仕事を、祈りだと思っていた。
完璧さに近づこうとする努力。
完全さににじり寄ろうとする営為。
中身などはどうでもいい。
中身などに関心はない。
完璧なからだをつくりあげることこそがFの関心であって、中身についてはFの領分にない。
だから、つくりあげたからだを提供してあげることにした。案の定、欲しがるものは山ほどいた。Fは山にしつらえた庵に住まい、貴族の女どもが欲しがる”器”を、その領民たちのなかから見つくろって提供しはじめた。
Fの持つ霊魂魔術は、この用途にはうってつけの技術だ。
ほそぼそと行なっていたこの活動は、やがて評判を生み、Fは後宮から声を掛けられるようになった。女のかたちをした魔物がひしめくあの魔宮が与えてくれたのは、最高の工房だった。
Fはぞんぶんに腕を振るうことができるようになった。
ここには最高の素材が揃っている。すき放題に組み合わせを試してみることができたし、そのことを咎められることもない。素材となる少女を集めるためにこれまで重ねてきた苦労を思うと、まさに天国のような環境だ。
そして――いま、Fはすばらしい素材を見つけた。
ほとんど手を加える必要がないほど、完璧だった。顔立ちはととのっており、体つきもうつくしい。からだつきの女らしさは足りないが、そこはわずかな調整で足りる。足りていないのは、左腕だけだ。
当て布には、すでに当たりをつけていた。
あの黒髪の少女とおなじぐらいのしろい肌を持つ、長さがひとしく、健康そうな腕。あれをひとつ足せば、近年まれにみる完成度のひとがたができる。リーベン公夫人はあの”器”を欲しがっていたが――Fは手放すつもりなどはなかった。
Fは完成形を想像して、ひさしぶりの昂奮にとりつかれた。