29.おいしいね、へびさん
目が覚めると、もとどおりの生活だった。
暗くつめたい、研究所のなかの牢獄。硬いベッドとつめたい石の床しかない、たいくつな部屋。イベリスの体を調べにくるひとも最近では減り、ひとりきりの時間を過ごすことが増えた。”しょち”を受けてから、イベリスの目は見えない。朝だろうと、昼だろうと、すこしの光を感じることもない。
代わりに、”声”が聞こえる。
さわさわとささやくような声。悲痛そうで、切実な、声。何度聞き返しても、なにも返事をしてくれない。聞いていてつらい、声。
イベリスはため息をついた。
どろぼうさんにぬすんでもらって、空を駆ける、とてもたのしい夢を見ていたのだ。夢のなかで、イベリスは声の主を助けていたのだ。声を追いかけていくと、そこにはつらい思いをしているひとがいる。イベリスを背負ったどろぼうさんは、そのひとを、かっこよく助けていく。
まだ目が見えている頃、絵本で読んだ、伝説のおおどろぼうになった気分だった。
そのどろぼうは、お金持ちからしかぬすまないのだ。
お金持ちからぬすんだお金を、貧しい、不幸な人びとにくばっている。どろぼうだけど、正義の味方なのだ。そしてときどき、不幸な目に遭っている女の子もぬすんでしまう。
まるで、わたしみたいに。
イベリスはじぶんの想像に首を振った。
わたしは、もう”もの”だ。女の子ではない。
奴隷のときも、物のようにあつかわれてはいたけれど、ほんとうに”もの”になってしまったのは”しょち”を受けてからだ。
わたしはごはんを食べなくなった。
わたしは目が見えなくなった。
わたしは”声”が聞こえるようになった。
人間らしいことなんて、ひとつもない。研究所のひとたちは、わたしのことを『まどうへいき』と呼んでいた。戦争のための武器なのだそうだ。つまり、”もの”。
”もの”になれてよかった。イベリスは最近、そう思う。
”もの”だから、不幸なんて感じることはない。
”もの”だから、苦しいとも、つらいとも、思わない。
ときどき胸が張り裂けそうになるのも、大声で泣きわめきたくなるのも、ぜんぶ、にせもの。じぶんは人間ではないのだから、当然のことだ。ほんものの感情なんて持っていないから、だからわたしは、だいじょうぶ。
でも。ときどき、夢を見るのだ。
むかし、まだ人間だったころ。
奴隷だけれどお母さんがいて、いっしょにごはんを食べるのが、なによりたのしみだった。お母さんが「おいしいね」と笑っていて、じぶんも「おいしいね」と笑っていて。ごはんの時間が、たのしみだった。
だから、イベリスは夢を見るのだ。
いつかどろぼうさんにぬすんでもらえる日が来たら――まねごとでもいいから、一度だけでもいいから。にせものの感情でも、にせものの笑顔でもいいから。
いっしょにごはんを、食べてみたい。
*
そこで、目が覚めた。
イベリスは一瞬、なにが起きているのか分からなかった。
周りにあるのは、質素な、でもあたたかい部屋だ。古びてはいるが清潔なシーツと、太陽のにおいがするふわふわとした毛布がある。においが違った。イベリスがいた牢獄とは、においが。
夢のなかで、夢を見る。
そういうこともあるのだと聞いたことがある。イベリスは記憶がよみがえるのを感じていた。じわじわと、よろこびがこみ上げる。
――わたしは、へびさんにぬすんでもらったんだ。
へびさんは、ほんものの、でんせつのおおどろぼうだった。イベリスが思い描いていたのとおなじように、声の主を救い、声を減らしてくれた。
さわさわというささやき声は、いまは聞こえない。
”しょち”を受けてから、はじめてのことだ。こんなに静かな朝を迎えるなんて、思わなかった。鳥の声が聞こえる朝がくるなんて、思わなかった。
でも、とイベリスは思う。
へびさんは、どこへ行ってしまったのだろう。
へびさんにぬすまれてから、イベリスは毎晩、へびさんと同じ部屋で寝ていたのだ。朝になって目を覚ますと、いつもへびさんの眠たそうな声が出迎えてくれて、へびさんが静かに歩く音が聞こえていた。誰かの足音が聞こえることがこんなに安心することだなんて、イベリスは知らなかった。
でも、いまは足音がしない。
へびさんの「おはよう、嬢ちゃん」も聞こえてこない。
「――へびさん?」
声を掛けてみる。
返事は、ない。
あたたかな毛布から抜け出して、イベリスははだしで床に立つ。板の感触だ。へびさんを探さなければ。イベリスはおそるおそる、壁づたいに歩きはじめる。
部屋はあんがいちいさくて、すぐに扉が見つかった。
手さぐりでドアノブを見つけ、外へと出ていく。
音がしない。
ひとの気配はあった。だれかが忍び足であるく音、だれかが忍び笑いを漏らす音が、聞こえていた。
――へびさんは、どうしていなくなっちゃったんだろう。
いなくなった。
そういうことばが、するっと出てきたことに、イベリスは驚き……じきに、納得する。
へびさんは、いなくなったのだ。
帝都にいる、困ったひとは全員救い終えたから。イベリスに、もう用はなくなったから。だから、イベリスを置いて、またどこかの街へ行ったのだ。
「――っ」
さみしくない。
さみしくなんてない。
だって、さいしょからひとりだったんだから。
だって、さみしいなんて感情もにせものなんだから。
でも。
でも。
「いちどだけ」
イベリスは歩く。
「いちどだけで、よかったんだけどなあ」
ごはんを。
いっしょに。
イベリスは歩きつづける。壁が途切れて、扉へとつながる。
なんで、ごはんをすてちゃったんだろう。
悔いがつのる。かたちだけでも、食べてみせればよかった。そうやって、「おいしいね」って話しかけたら、へびさんはもしかしたら、「おいしいな」って言ってくれたかもしれない。夢が、叶ったかもしれない。
イベリスは扉のまえに立つ。
この扉がどこにつながっているのかは知らないが……つめたくて、暗い場所じゃないといい。祈るような気持ちで、イベリスはノブを回す。
そして――
「サップラーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイズ!」
大歓声に、迎え入れられた。
*
花火が飛ぶ。
クラッカーが鳴る。
リボンが飛ぶ。
拍手がみだれ打ちされる。
口笛が鳴らされる。
歓声が上がる。
ハトが一斉に宙に舞う。
音楽隊がぷかぷかどんどんと楽器をかき鳴らし始める。
暗殺教団の威信を賭けた盛り上げだったが――見事に、すべった。
イベリスは、ぽかん、とした顔で立ち尽くしている。
反応はない。期待した笑顔もなければ、少女の歓声も聞こえない。けたたましかった歓迎の音たちが、すべてしゅるしゅると萎んでいく。これはまずい。思ってたのと違いすぎる。
皆の顔が俺に向けられる。
――おい、どうすんだよこれ。
――おまえが任せとけっていうから任せたのに。
無言の責めが、俺に向けられる。
だって、自信があったのだ。日本にいたころ、サプライズパーティはよく企画したのだから。数少ない友達はみな、俺の用意した盛り上げグッズの数々にうれしそうに笑ってくれていた。うれしそうに……いや、あれは苦笑いだったか?
気まずい沈黙が流れる。
俺は完全に思考停止していた。
「えーっと……あの……」
「……」
「なんていうか……」
「……」
「その……」
まずい、ことばが出てこない。
イベリスも黙りこくったままだ。その見開かれたガラスの目から、ぽろり、と涙がこぼれ落ちる。
泣かせた――!?
教団全体がパニックに陥りかける。
と。
「おーいイベリス。なに泣いてんだ」
”蛇”が横から現われて、イベリスの白髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「そもそも、ひでえ寝坊だぞ。みんな、おまえのこと待ってたんだからな。腹ァ空かせたまんまでよ」
「わたしのことを……?」
「そうだ。――みんなで、ごはん食べるためによ」
”蛇”の顔を見上げていたイベリスが、ぱっと花が開いたような笑顔になる。
みなの歓声が、ふたたび沸き上がった。
よかった。
まじでよかった。
もうだめかと。
もはや、俺が泣きそうだった。
そして、食事会が始まった。
食事……というより、もはや乱痴気騒ぎに近い。
酒は樽ごと持ってこられているし、きれいに盛り付けられていた食事はあっという間に平らげられ、だれの断りもなく食糧庫から持ち出されたハムやチーズが暗殺用ナイフで雑に切り分けられる。
楽器はもはや楽曲の態を為していないし、酔っぱらってあちこちで喧嘩が起きているし、女の子同士でのキスなんてあたりまえに行なわれている。というか最後のはどうなんだ。どれだけただれてるんだ、この教団。
いちおう、上座に座っている十二席たちの様子もそうとうにひどい。
”牛”はもくもくと呑んでいたかと思うととつぜん脱ぎ始めてもはや全裸。”姫”はあたりまえのように”茉莉花”を押し倒して胸を揉んでいる。”商人”は据わった目でその辺の壺に説教をしていて、”騎士”は爆笑しながらそれを眺めている。”鉤爪”はなぜか号泣しており、”歌姫”に肩を叩かれてなぐさめられている最中だ。”霧”はえんえんと下ネタ話をくりかえし、真っ赤な顔で正座した”盃”がそれに聞き入っている。”車輪”はいつのまに持ち込んだのか毛布までひっぱり出して完全に寝入っており、隅には”勇者”が居心地悪そうにちいさくなって座っていた。
うーん、地獄絵図。
と。
「うーい、せんぱぁい! のんでますかぁ~?」
ものすごく酒くさい息が頬に浴びせられた。
「うおっ……なんだクロエおまえ」
「な~にぃ? せんぱいシラフじゃらいれすかぁ~? なにをぉう、やってるんれすか~!」
「落ち着け、離れろクロエ」
「はなれてたまるかよぉー」
クロエが俺にぎゅうっと抱きついてくる。
なにやらやわらかくてきもちいいが、やわらかさの正体を考えはじめると冷静ではいられなくなるので、俺は懸命に離れようとする。
「あークロエぇ~、すきぃ~」
「うあーひゃめろぉー」
そこに真っ赤な顔をしたリュリュも、のしかかってくる。
重たい。
とても重たい一部分が、俺に乗っかってきているからだ。しかもこれもとんでもなくやわらかい。
これはいけない。とてもいけない。
「まあまあとりあえずぅ~、まずは一杯、どうぞ」
「やめろ離れろ、俺未成年だぞ」
「みせいねん~? どすとえふすきーじゃあるまいし、いまどき未成年がなんだっていうんれすかぁ! 法律がなんらっていうれんすかぁ! ここは異世界れすよぉ!」
「そうら! かわいいクロエのかわいいお酒がのめないらんて! 天がゆるしてもぉー! このわらしがゆるなない!」
「ほら! ぐぐっと」
「やめっ……うぷ……」
俺の口に、すさまじくアルコールくさい液体が流し込まれる。
日本でたしなんだビールなどとは次元が違う、強い液体に俺はむせる。なのに液体は止まらず、俺の喉を焼きながら胃へと収まっていく。腹部から突き上げるような熱がこみ上げてくる。
「あ」
「げ」
視界が回る。
こみ上げてきた熱は、そのまま頭へとのぼっていき、俺は真っ赤な炎で脳が満たされるのを感じた。炎はあっという間に怒りに変わる。
「ッッッッ! 勇者てめええええッッッ!」
「まっ、またか!」
「俺の猫をぉぉぉぉぉッッッ!」
「おい頭領殿が!」
「また頭領殿かよ! いいかげんにしろ!」
「止めろ止めろ!」
「のしかかれ!」
こうして俺は、またしても、気をうしなう羽目になった。
*
思っていたよりも、数倍、やかましく、そうぞうしく、けたたましく、にぎやかだった。
教団とは、こんな組織だったか?
“蛇”の頭に疑問がよぎり、すぐに、回答が引き出される。
教団とは、
こんな組織になったのだ。
あの少年が、変えた。
陰鬱で、残忍で、猜疑心に満ちあふれ、暗く、湿った、あの暗殺教団を。“蛇”がなによりもきらっていた、あの汚ならしい組織を、これほど多くの笑顔が浮かぶ空間に、あの少年が、つくり変えたのだ。
「……たいしたもんだよ、頭領殿」
“蛇”は盃をかたむける。
これほどうまい酒を、何年ぶりに呑んだだろう。
傍らに目をやる。
乳白色の髪の少女が、そこにいる。見たこともないほどに頰を赤くして、場の空気に当てられたように鼻息を荒くしている。
少女のような能力がなくても分かった。
この子はいま、たのしい、のだ。
「なあ、イベリスよ」
「なあに、へびさん」
「みんなで食べるごはんは、おいしいもんだな」
イベリスが、ガラスの目玉を丸くする。
そして、どこかはにかんだように――
「おいしいね、へびさん」
満面の笑みを、向けてきた。
ああ、と”蛇”は思う。
今日は、呑みすぎちまいそうだ。
第1章完結です。ありがとうございます。
次章からはまたふたたび、鬱展開打破に戻りたいと思います。
面白かった、と思っていただけた方は、
最新話一番下の評価欄からの評価にご協力をお願いします。