26.見のがしてやるから、とっとと失せろ
「クロエ!」
待ちのぞんだ声が、息せき切って駆け込んでくる。
リュリュだ。
危険がおおきいというアザムの判断により、夜の『勇者様』活動中は宿に留まってもらっていたのだ。この場にあの治療魔術があってくれたら、と、何度考えたことか。
着地し、そっと床に下ろされたクロエたちの元へ、リュリュが駆けつけた。
「うーりゅ!」
「怪我はない? クロエ」
「わたしは平気っす。先輩が……!」
すぐに真剣な専門家の目つきになって、リュリュはアザムの容態を診はじめる。呼吸をたしかめ、熱をとり、切断された左腕の様子をあらためる。
「いのちに別条はない。けど」
「けど?」
「……切り離された腕は、残ってないんだよね?」
クロエはうなずく。
聖剣の一撃は、その軌道上の光に触れたものすべてを瞬時に消滅させていた。アザムの腕も同様だ。
「……しかたない」
歯噛みして、リュリュは治療魔術を唱える。
──このもののからだに、いきるちからを、いのちを、おあたえください──
アザムの怪我がなくなっていく。
ちいさな傷は消えうせ、肌に血色がもどり、呼吸がととのっていく。時間を巻きもどすような魔術のなかで、しかし、アザムの左腕はよみがえらない。はじめからなかったかのように、先端がつるりとした皮膚に包まれている。
「──ほう。治療魔術か」
“勇者”が感心したような声を上げる。
「やはり魔術というのは反則に近いな。あの死に体が、見事によみがえった。……腕の再生とまでは、さすがにいかないようだがな」
さて、と“勇者”が視線を逸らす。
据えられたのは、離れて立つ“蛇”のすがただ。
“蛇”はそちらに気にも止めず、あたりを見渡している。床に転がった暗殺者たちを、しゃがみこんでは様子を見ていた。すでに覆面は取りはらっている。
「あーらら。ひでーでやんの。ひいふう……ざっと三百人ってとこか。ちぎっては投げちぎっては投げ、って感じだったのかね。
でもすごいわ、たいしたもんだわ、勇者」
「なにがだ」
「これだけの人数に襲いかかられて……それでも、ひとりも殺してない。相当の実力差がないとできないこったろ。さすがは勇者様だ」
「とうぜんだろう」
賛辞を、あくまで傲然と“勇者”は受け止める。
「……でも、あんさつしゃのみんなもすごい」
少女の声が聞こえる。
“蛇”の後ろから。
黒覆面がとりはらわれ、白い髪の少女が目をつむったままに顔を露わにした。
「なにがだい」
「これだけのにんずうが、おなじことをかんがえていた。じぶんのことじゃなくて、そこにいるおとこのこのことを、たすけて、って」
イベリスが、アザムを指さす。
アザムのことを助けたい。教団の皆の意志は、ひとつだったようだ。
「ああ。……たいしたもんだろ、教団は」
“蛇”がどこかさみしそうな笑いを浮かべる。
それから気を取りなおしたように、
「さて。そんじゃあ、何人かには起きてもらうかな」
“蛇”のすがたが消えた。
「なっ……?」
“勇者”が絶句する。
それはそうだろう、“蛇”は瞬時にすがたを消し、気配すらも完全に絶ってみせたのだ。
たったいままで目のまえで喋っていた人間を、見うしなう。
この“勇者”にとっても、生まれてはじめての経験だろう。
倉庫中を、“勇者”は見渡す。
足音ひとつない。風切り音ひとつない。なにかが動いている気配さえも、まるで感じられない。驚愕が、”勇者”の顔を占めていく。
闇のなかで、いくつかのちいさな悲鳴が聞こえる。
「きゃ」
「ぬっ」
「やっ」
「うお」
「あん」
「ひっ」
「うっ」
「ひゃ」
「あら」
「むっ」
「やだ」
ふたたび、“蛇”のすがたが現われる。
両手の指を思案顔でこすり合わせながら、「ふむ、やっぱり……」とむずかしげに眉根を寄せる。
「……マリカちゃんとクロエちゃん、ちょっとおっきくなった?」
「最低! 最低の下衆めが!」
「またかおまえは」
「普通に活を入れることはできんのか」
「ほんと、しょーもないなあ」
「“蛇”殿、あなたというひとは」
「わたしの……わたしの貞操が……」
「殺す! 止めないでください殺す!」
「また大きく……? もういや……」
「ほかの男に触らせたことないのに」
「うう……かわいくないよー」
「まじっすか? え? まじっすか?」
「なんだよー、ただの挨拶じゃねえかよー」
“蛇”が唇をとがらせて言う。
そうだ。
彼は、こういう男だった。
つねにふざけていて、不真面目で、不謹慎で、不道徳で、不躾で、無遠慮で、ずうずうしい。それでいて、皆から絶大な信頼を集めている。仮にアザムがいなかったとすれば、新頭領にはこの男が推されただろうと思えるほどに。
連絡を絶ったり、正義の味方をしたりと、最近の行動はおよそ彼らしくないことばかりだった。だが、彼は変わっていない。安心が胸のうちを満たした。
「でもクロエちゃんの成長にはびっくり。三〇〇歳超えても成長ってあるもんなんだな。揉まれるとおおきくなるとか言うけど、なんか心当たりあるかい?」
「うぇっ」
心当たりはあった。
右隣で青筋を浮かべながら”蛇”に中指を立てている、このエルフとか。
ちょっとうれしかった気持ちが、急速にしぼんでいった。このエルフから離れないと、近いうちに本格的にあぶなくなる気がする。
すぱん。
”蛇”の頭が、背中にいる少女にはたかれる。
「あだっ! なにすんだよイベリス!」
「すけべはさいてい」
「別に関係ねえだろ、こういう挨拶が定番なんだよ、教団は!」
「もんどうむよう」
「いだっ! 叩くのやめろ叩くの! 位置的によけられねえんだぞ俺は!」
背中の少女と”蛇”とが、ぎゃいぎゃいと騒ぐ。
いつも余裕しゃくしゃくといった様子の”蛇”がこういうすがたを見せるのは、はじめてだったかもしれない。
「――茶番は仕舞いにしておけ」
”勇者”がいら立ったように言う。
「茶番? 俺にとっては本題なんだけどな」
「黙れ」
「おや、嫉妬かい」
”蛇”が両手を広げてみせる。
”勇者”は額に青筋を浮かべながら、
「モンフォール。蛇王よ。……いまとなっては、俺はもはやおまえに用はない。そこに転がってる”踊り子”を引き渡せば、おまえたちはこのまま見のがしてやってもいい」
「おやまあ、おやさしいこった」
「ただ、その背中の餓鬼はだめだ。それが例の『帝国の機密』だろう? 俺自身は興味がないが、摂政が取り返せとうるさいのでな」
”蛇”が十二席を振り向く。
「――だってよ。どうするよ、ナイラちゃん」
「引き渡せるものか」
”鉤爪”が、ぐらつく足を立てる。
「その少年はわれわれの希望だ。われわれの未来だ。われわれの正義であり、われわれの象徴であり、われわれの理念なのだ。
奪われてなるものか、奪わせてなるものか。
存在理由を、引き渡してやるものか」
「――だそうだ、勇者さんよ」
立ち上がった十二席を、”蛇”は示す。
「残念ながら、この”踊り子”は渡せない。
ついでにいうと、このイベリスも俺は渡すつもりがない。俺ァ、ろくでもない野郎だけどね、守らなきゃならねえものはあるんだよ。淑女との食事の約束とかな。
そこで交渉だ、勇者さん。
ないない尽くしで申し訳ないから、こちらも最大限の譲歩をしたいと思うんだ。俺たちの誠意っていうか、せめてもの代わりってところかね。たぶん、納得してもらえると思うんだけどねえ」
「言ってみろ」
”蛇”はにんまりと、人なつっこい笑みを浮かべた。
「見のがしてやるから、とっとと失せろ」
「……よくぞ抜かした」
勇者が聖剣を構える。
「侮辱してはならん相手を、おまえは侮辱した。もはや謝罪は要らぬ。首だけ置いてゆけ」
「えーやだよ。それ俺死んじゃわない?」
「黙れ」
勇者が斬りかかる。
”蛇”はカタールを抜きはなち――すがたを、消した。




